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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The
Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-08-18 15:58:39 (2 ヒット)
週報巻頭言

イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」 彼らは、イエスの答えに驚き入った。(マルコ 12:17)
本日の聖書テキストは、新約聖書の時代にあってとても重大な問題でありながら、し かしそれへの態度の如何によっては命にかかわってしまう「税金問題」をめぐる、ユダ ヤ指導者たちと主イエスのやりとりの記録です。 さて「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」というイエスの言葉のシャ ープさを理解するためには、当時の民衆たちが二重・三重の税制度に苦しめられていた 事実を多少でも理解しておかねばならないと思います。ご存じのように、当時のユダヤ はローマ帝国の植民地でした。ある程度の自治が認められる代わりに、多額のあるいは 何重もの税金が民衆に科せられていました。ローマが徴収する税は、「人頭税」と「農地 税」という直接税と、「通行税」などの間接税です。人頭税は、人が定められた年齢にな ればデナリ銀貨で支払わなければならない非常に高負担の税金でした。このデナリ銀貨 には、当時のローマの皇帝ティベリウス・カイザルの肖像が刻まれており、またその周 りには「アウグストゥスの子、神なる皇帝ティベリウス・カイザル」と彫り込まれてあ ったのです。植民地に対する露骨な優越感、思想支配、皇帝崇拝の強要でした。 さて、もう一つの税金問題に目を向けましょう。こうしたローマからの課税とは別に、 ユダヤ社会がずっと自らの共同体運営のために徴収してきた税金に「十分の一税」と「神 殿税」があり、いわば宗教的な税金が並列して存在していました。民衆がどれほどの重 税に苦しんでいたかがよくおわかりいただけると思います。 さて、イエスを嫌うユダヤ指導者たちは、この税制と民衆感情を利用すれば、イエス が窮地に立つことになる難問・難題が作れることに気づきました。「皇帝に税金を納めて 良いか悪いか。納めるべきか、納めるべきではないか」という問いかけです。イエスが 「納めて良い」と答えたなら、たちまち、民衆からそっぽを向かれてしまうだろう。逆 に「納めるな」と答えたなら、ローマの政策に異議を唱えたとして訴えてやろう。そう いう罠をしかけたのです。ところが主イエスが返した答えは「皇帝のものは皇帝に、神 のものは神に」という答えでした。ところが、この一言には、質問者たちの根底を揺さ ぶるほどの威力があったのです。なぜでしょうか・・・? 吉 叶


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-08-11 14:24:23 (9 ヒット)
週報巻頭言

「神は、キリストを通してわたしたちをご自分と和解させ、また和解のた めに奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。(競灰 5:18)
私たちの肉体はやわらかい。だから、ひとたび鉄の弾丸がこの肉体に撃ち込まれ、 鉄の破片がこの肉体に突き刺さり、また火炎のかたまりにこの肉体が焼かれるならば、 たちどころに私たちは、絶命する。生きてはいられない。そうだ、武器というものと 私たち人間とは、兵器というものと私たち生命体とは、共存もできなければ和解もで きないのだ。 私たちは神によって(キリストを通して)和解の恵みを受け、また和解の働きに押 し出されている。すなわち、誰とでも共に生きることができるのだという可能性に招 かれている。そして、さまざまな違いを超え、禍根を超えて、どんな人とも和解させ られるという希望を持って生きていたいと願う。しかし、この生命の肉体を貫く「武 器・兵器」とは、私たちがロボットでないかぎり、本質的に共存、和解ができないの だ。そして、核兵器は、人間が生きるために決して和解できないものの頂点に位置す るものだと言える。 私たち日本に生きる者が、8月が来るたびに「原爆が投下された事実」を指さし続 けることの意味は、人類にとって普遍的な意味と重要な役割を担っている。それは、 生命あるものが、決して和解できないもの(であるにもかかわらず、一度はこの世界 が浴びてしまったもの)、この核兵器を、生命とは和解不可能なものとしてさし示し 続けることにある。かつて、元秋葉広島市長が、平和宣言の中で語られた言葉「原爆 は廃絶されることのみに意味がある」という逆説的な真実こそが、まさに生命世界の 基本線にならなければならないのだ。そう、人間が、生命が、なぜ、決して和解でき ないものを保有し、「廃絶されることのみに意味があるもの」を温存しようとするの か。人間の精神は、人間の倫理観はいったいどうなってしまったのか。人間の祈りは、 生命世界を守るために無意味だと言うのか。これらの根本的な問いを、「ここ」から 人類に問いかけ続けなければならないのである。 この「和解できないもの」を、これほどに和解できないことがわかっているものを、 「和解できないものと」はっきり定めていく。このことは、和解のために祈り、働こ うとする者たちの基本姿勢でなければならないだろうと思う。 吉 叶


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-08-04 15:23:32 (12 ヒット)
週報巻頭言

「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、 そこから入る者が多い。」 (マタイ福音書 7:13)
「狭き門」と聞くと、普通は競争率の高い(合格率の低い)難関を突破することとか、 人生において過酷な道を選び取ることを連想してしまうのですが、主イエスの言葉が意 味していたのは「貧しい者、低い者、何も持てないで生きている者たちの歩み」という ことでした。福音書の中で特に重要と思われる「イエスの山上の説教」が、「心の貧しい 人々は幸い、悲しむ人々は幸い・・・」と語り始められ、続いて「大通りで長々と祈る 人々のようにではなく、隠れたところで祈る心の低さ」を伝え、また「野の花や空の鳥 の身軽さ」を示して語り進められた、その全体の文脈を考え合わせるとき、 「山上の説教」 の最終場面で主イエスがイメージしていた「狭い門から入る」事とは、やはり、貧しい 姿、低く小さな人としての姿を言い抜いていたと言えます。 と同時に、「山上の説教」は、その小さき者が天の神に知られており、神に支えられて いる命なのだということを語り抜いていて、この「狭き門」の話の背後にも、天に支え られていることを知る者だけが、たくさんの自分の荷物を降ろすことができることを言 い当てています。 神は、隠れたことをすべてご存じで、人にとってほんとうに必要なものが何かを知っ ている方です。ところが、この、神に支えられていることを知らない者、認めようとし ない者は、どうしても自分を大きく勘定したいがために、わざわざ表通りで祈ったり、 たくさんの持ち物を持って生きてしまうのです。つまり、そういう人は、大通りに続く 広い門からしか入れないし、狭い門をくぐれないのです。 「狭い門から入れ。」これは、とくだん「過酷な道を選べ」とか「厳しい道を選び取れ」 という言葉ではなく、別の言葉で言うならば、天の支え・神の愛を知り、天の神さまの 御心を求め「小さな自分の生活を守ってください」 「支えてください」 「赦してください」 と祈って生きることだと思います。そう、私たちが礼拝の中で毎週祈っている「主の祈 り」で生きていくことなのだと思います。 主イエスの私たちへのまなざしは慈しみに満ちています。「心配するな、小さき者よ。 あなたには神の祝福と愛とが注がれている。あなたに御国をくださるのは、父の御心な のだ」と祝福したい、それが彼の真実・真意なのです。 吉 叶


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-07-28 10:32:26 (32 ヒット)
週報巻頭言

「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたし たち救われる者には神の力です。」 (汽灰螢鵐 1:18)
−随想−人間の苦しみ、悲しみには固有のいきさつがあり、固有の痛みがある。たとえ ば「花の美しさ」などがあるのではなく「美しい花」があるというのと同様に、「人間の 苦しみ」などがあるのではなく「苦しんでいるその人」がいる、それが事実なのだ。 また無差別な大量殺傷事件が引き起こされた。殺傷事件と呼ばれるものは、もちろん どの出来事も悲痛であるが、被害者が誰かを問わない無差別殺傷事件の邪悪さは、被害 者たちが「唯一無二」の存在であるという事実から、人々を切り離してしまうところに ある。池田付属小では○名、下関では○名、秋葉原では○名、相模原では○名、川崎登 戸では○名、京アニでは○名、というふうにしか伝えられないし、人々はそれのみを記 憶してしまう。そこで殺されなければならなかった彼や彼女は誰であり、彼や彼女は、 なぜ、その時、殺されてしまわねばならなかったのか、そこにどうしても届けない。そ して時間の中で「○名が死亡した悲惨な事件」だと、事件だけが記憶されるのだ。だが、 死者には名前がある。一人ひとりに固有の名前が。もちろん固有の生があった。誰かに 愛された彼であり、誰かを愛した彼女であった。唯一無二の、名と身体と命の道のりを 持つ、その人であった。 私は、神の救いの業が「壮大・偉大な栄光の業」としてではなく、飼い葉桶や、道ば たの人々との出会いや、十字架に殺された「イエス」に顕されたというこの事実に、唯 一無二の命との繋がりを欲する神の想いをみる。まさに「花の美しさ」とか「人間の苦 しみ」といった抽象的、普遍的なものごとのためにではなく、苦しむ私、痛む私、呻い ている私に、神ご自身を接続なさろうとしたのだと。「低くなられた」とは、「身分を下 げられた」という以前に、固有の人間につながったということ。それこそが神の愚かさ、 否、愚かな神の真実の愛なのだ。十字架で殺されるなどという愚かしすぎる神の子の姿、 しかし、イエス・キリストがそこで繋がろうとし、そこで握りしめていたものこそが、 愚かな私、苦悩しながら命を歩む、唯一無二の私なのだ。 この世の制度・しくみ、潮流は、益々、私たちを無名にしていこうとする。しかし、 私の名と私の罪と私の痛みを知る主は、私の傍らで宣言してくださる。「私はあなたの名 を知っている。あなたをぜんぶ知っている。私はあなたを愛し、あなたを赦す」と。叶


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-07-21 17:14:59 (37 ヒット)
週報巻頭言

「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。 この外国人のほかに、神を賛美するために戻ってきた者はいないのか。」 (ルカ福音書 17:17-18)
去る 6 月 28 日、「ハンセン病家族訴訟」に対して熊本地裁が国の責任を認めた判決に 対して、被告の政府は控訴を断念した。「断念したのが立派」なのでなく、この熊本地裁 の判決こそが合理的であり「まっとう」なものだったにすぎない。原告らの提訴の主旨 は、「らい予防法」という医学的根拠が無くただ差別と偏見に基づいて実施されてきた悪 法を永年(プロミンという特効薬により劇的に回復する事実が明確になった 1940 年台以 降も延々と)放置してきた国家・政府の「無為」によって、ハンセン病患者のみならず、 その家族も多大な苦悩と社会的排除に見舞われてきた事実を問い、国家としての賠償を 求めたものである。国家という「法制度」(立法府も行政府も含めた法治国家そのもの) が、もし「わたしに責任はない」と開き直ったなら、どのような法律を造っても、また それを放置しても「誰にも責任は無い」ということになるのだから、「国家・政府の責任 を広く認める」という判決は、至極当然のことだと思う。そして、「国の責任」というこ とは、私たち「歴史と社会を構成する者たち全体の責任」ということが明確になったと いうことだ。だから、「控訴断念を決意した」首相が為すべきことは、「異例のことだが 私が温情深い決断をした」と胸を張ることではなく、まずは元患者の家族を、提訴しな ければならないところまで放置してきたことと、原告たちの提訴に対して争う姿勢を見 せてきたこれまでの構えを恥じ、一切の留保なしに謝罪をすべきなのである。かく言う この私も、「社会の残酷」に加担してきた一人として悔い改める他はない。 家族から「その患者」が出たことが知られると一族が村八分の目に遭う。本人は、死 亡したことにされ隔離施設で名前を変えてひっそり生きる。生殖機能を断絶させる手術 を施される。「一般」社会との交流は遮断され、完治しているにもかかわらず社会復帰は 永劫閉ざされている。生まれてきた事を呪われ、人間としての尊厳がすべて奪われ、つ ながりを消される、そこまでの差別を浴びせられてきた人たちが、私たちの歩んできた この歴史・この社会の中に、同時代的にあったことを記憶せねばならない。そして、彼 ら彼女らの、また家族らの「回復/恢復」の課題は、日本社会の「人間性」の恢復への問 いかけなのだということを心に刻みたい。 吉 叶


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