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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The
Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-09-23 12:32:58 (8 ヒット)
週報巻頭言

信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐している。(第一テサロニケ1:3)

 パウロの伝道人生は苦難の連続でした。彼の伝道旅行は興行ではありませんでしたから、どこへ行っても喜ばれるというものではありませんでした。圧倒的な拒否と排斥と追いだしの攻撃の中で町から町、州から州、国から国を渡っていきました。それでも、その伝道の働きを通して知り合い、信じ合い、結びつき合ったわずかな人々との交わりを心の支えにして彼は進み続けました。
 「彼らは元気だろうか」と案じ、祈り、声をかける。「先生、元気です」と応えが返ってくる。キリストによって生きている事実の「こだま」が、パウロの喜びの全てだったのだと思います。世界的な視野で行動し、物を見ていたパウロでしたが、彼の喜びの中心はただ「一つの教会の元気」にありました。一つの教会の「元気です」が、世界伝道の意気込みと夢を支えたのです。
 テサロニケの教会に手紙を書きながら、パウロが思い起こしていることは、「あなたたちは優しかった」とか「テサロニケでは楽しかった」とかではありません。彼の言葉が言う通り、「あなた方の『信仰の働き』と『愛の労苦』とイエス・キリストに対する『希望の忍耐』」のことなのです。そして、ここには「信仰」「希望」「愛」という、皆さまもよくご存じの宝石のように美しいパウロのあの言葉が登場するのです。
 私たちは、この「信仰と希望と愛」を、キリスト教信仰の核心のようにして聞いたり語ったりしております。そしてその言葉は、あまりにも麗しい。しかし、パウロは美しく素晴らしい装飾の言葉のように、詩的・文学的表現として「信仰と希望と愛」を語っているのではありません。彼は、自分の人生とテサロニケ教会の人々の足下にあった現実の中で「信仰・希望・愛」を見つめ、「信仰とは働きだ」と、「愛とは労苦だ」と、「希望とは忍耐だ」と語っていくのです。                吉高叶

 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-09-17 19:30:55 (9 ヒット)
週報巻頭言

「土の器に納められた宝」
(コリントの信徒への手紙二 4章7節、16〜18節)

ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。(2コリント4:7)

 今日は、敬老感謝を覚える礼拝です。人生に必ず訪れる老いをどう生きるのか、という問いは、すべての人にとって非常に大切なテーマです。敬老の日とは、国民の祝日に関する法律によれば、「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う。」とありますが、今日、私たちは長年にわたり社会に、そして、教会に尽くしてこられた75歳以上の方々の労をねぎらい、感謝し、長寿を祝うことを通して、私たちの主である神に心から感謝と讃美をささげたいと思います。
 
パウロは、自分の体を土の器に喩えています。土の器というのは、壊れやすく、不完全です。大変もろいものです。普通なら、そんな器に宝を納めるようなことはしません。私たちの体も歳を重ねることで、衰えを感じ、様々な病を患い、様々な能力を失っていきます。そういう意味で、私たちの体はパウロが言う土の器のようなものです。しかし、神様は、そんな土の器のような、もろく、壊れやすい、不完全な人間を通して、この世界に福音を語りかけておられるのです。並外れた偉大な力、すなわち、神の力、神の御心、神の言葉、福音が、私たち一人一人の中に納められているというのです。なんと大きい、深い憐れみでしょうか!
 神様は、私たちの不完全さや弱さを仕方なく、補ってくださるというのではなく、私たちの弱さ、愚かさ、ありのままの私たちをこそ、良しとされ、必要とされ、豊かに用いようとしておられるのです。
 老いを生きるということは、嘆くことではなく、さらに主から与えられる恵みと祝福への感謝に生きるということです。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」
(イザヤ書43:4 新改訳)

(松 準)


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-09-09 20:06:44 (12 ヒット)
週報巻頭言

主はギデオンに言われた。「民はまだ多すぎる。彼らを連れて水辺に下れ。そこで、あなたのために彼らをえり分けることにする。」
               (士師記7章4節)

士師記には、モーセの後継者であるヨシュアの死の直後から預言者サムエルが登場するまでの、イスラエル民族の約300年間の歴史が書かれています。
今日の聖書の個所はギデオンという士師の物語です。前の4章と5章で、デボラとバラクの活躍によってイスラエルは解放され、40年の間平穏の時を過ごしました。しかし、「イスラエルの人々は、主の目に悪とされることを行った。主は彼らを7年間、ミディアン人の手に渡された」(6:1)とあるように、今度はミディアン人から圧迫されるようになったのです。そこで彼らは主に助けを求めます。すると、主はミディアン人から隠れて酒ぶねの中で小麦を打っていたギデオンに召命を与え、ギデオンを通してイスラエルを救おうとされるのです。
彼(ギデオン)は言った。「どうすればイスラエルを救うことができましょう。わたしの一族はマナセの中でも最も貧弱なものです。それにわたしは家族の中でいちばん年下の者です。」(6:15)この主からの召命に対する弱腰な態度は、モーセやサウルやエレミヤにも共通しています。そんな気の弱いギデオンに主は「わたしがあなたと共にいるから、あなたはミディアン人をあたかも一人の人を倒すように打ち倒すことができる」と言って励まします。
ギデオンは民を率いてエン・ハロドのほとりに陣を敷き戦いに備えます。その数3万2千人。それに対してミディアン人は13万5千人。ギデオンたちは圧倒的に不利です。しかし主は「あなたといっしょにいる民は多すぎる」と言われ、最終的に300人にまで減らすのです。その300人とは、水を飲む際、犬のように舌で水をなめる者ではなく、水を手にすくってすすった者。即ち、水を飲むことだけに気を奪われず、周囲に気を配りつつ、事態の変化にすぐに対応できるような姿勢の者です。それは、主が人の戦闘能力や体力を見ておられるのではなく、人の姿勢を見ておられるということです。日常生活においてその人がどれだけ主に目を向け、自分の基準ではなく神の基準で物事を考えているかを見ておられるのです。敵を恐れず警戒心の強い優秀な兵士を主が選んだのではなく、常に主に意識を置いている人を選び、ご自身の計画のために用いようとされるのです。
(松 準)


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-09-04 09:39:45 (12 ヒット)
週報巻頭言

「そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。」 (ルカ 16:26)

イエス様のたとえ話には、いつも不思議な逆転が含まれています。
九十九匹を野原に残して一匹を見つけるまで探し回る羊飼いの話、勤勉な兄を差し置いて家出をし放蕩に身を持ち崩した弟が、父の愛に存分に包まれていく話(放蕩息子)や、ユダヤ人たちにとっては仇敵のようなサマリヤ人こそが重傷を負ったユダヤ人を憐れみ深く介抱していく話(善きサマリヤ人)、不正などうしようもない管理人が機転を利かせて友達づくりをするやり方を主人が褒める話。イエス様のたとえ話は、そのように一筋縄でいきませんし、常になにごとかの逆転や逆説を含んでいます。つまりユダヤ人たちが前提にしてきた以下のような「救いの方程式」がひっくりかえされていきます。
「まずユダヤ人であること。それから律法をはずれることなく勉強し実行していること。そのような者には結果的に祝福としてこの世の富や栄誉がもたらされるのだということ。そういう者たち(まともなアブラハムの子たち)だけが、特別な会員のように神の国をいただけるのだ」。
このような当時の教えや通念や救いの方程式をひっくりかえしてしまう「神の愛の自由さ」が、イエス様のたとえ話にはいつも含まれています。けれども、ユダヤの指導者たちは頑なで、そこから自問することを決してしませんでした。
 このときも、イエス様の話をファリサイ派の人々はあざわらいました(16:14)。そこでイエス様は、この世での成功や栄華に酔いしれて、それだけではなく、いつしかそれを「天国への通行証」だとさえ思い違いしていたファリサイ派の人々に向けて「金持ちとラザロ」の話を語って聞かせたのでした。
 ただし、この話、生前貧しかった者は死んだら神の国に招かれ、生前大金持ちだった人間は死んだら炎に焼かれて苦しむのだという単純な図式ではありません。でもイエス様は、次のことを明確におっしゃっています。「奢り高ぶり人々を侮っている人間が考えもしなかったような逆転が、神の前では起こるのだ」ということをです。その上で、イエス様は傲慢なファリサイ派の人々に問うたのです。「あなたは、自分に与えられたそれらの恵みを、門前の貧しき者とわかちあったか。神の国の鍵は、逆転の分水嶺は、あなたの門前にあるのではないのか」と。                          (吉癲ヽ陝法                                                    


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-08-26 09:32:34 (15 ヒット)
週報巻頭言

「体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」第1コリント 12章22節

脳梗塞の後遺症で介護が必要な状態になった友人のお父さんの言葉が心に引っかかっています。温厚で人望が厚かったお父さんが「迷惑をかけるようになり申し訳ない。死んでしまいたい」と家族の前で泣いたそうです。友人はお父さんが生きていてくれるだけで嬉しく幸せなのに、その男泣きして謝る姿を思うと、切なさに胸がずっとうずいていると語りました。
2016年7月26日、相模原にある障害者施設「津久井やまゆり園」で、元職員の26歳の青年が殺傷事件を起こしました。19人を殺害し、多くの人を負傷させた彼は「確信犯」でした。「重度の障害者は家族を不幸にしている」と言い、「日本や世界のために障害者を殺す」ことが良いことだと確信して事件を起こしたのです。彼は障害の重い人たちを「生きる意味のない命」と言い切り、実行したのです。
「家族に迷惑をかける存在になって申し訳ない。死にたい」と泣く高齢者。障害が重い人たちを「生きる意味がない命」と言い、殺害した青年。これに対し教会はどんな答えを持っているのでしょうか?
聖書は創世記1章31節で「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」と語ります。神は存在するものをすべて「よし」とされたのです。またマタイによる福音書6章には、神は、種も撒かず刈り入れもせず倉に納めもしない鳥を養い、1輪の野の花を、栄華を極めたソロモンより美しく着飾らせてくださると記されています。神は、私たちの「行為」によってではなく、「存在」そのものを、そのままで肯定してくださっているのです。
一方パウロは第1コリント12章22節で、教会を一つの体としてたとえ、「体の中でほかよりも弱く見える部分がかえって必要なのです」と語ります。弱いところには神の力が働くからです。弱いところに心が注がれ、お互いの愛が沸き上がり、その愛と配慮により、結びつきがより強固になるからです。弱いとされるもの存在は、お互いの愛を引き出し、関わる周りの人を成長させ、本人も関わる人も含め、皆を根底から変える、新しい生き方への招きでもあるのです。                                               
                                 (篠塚薫)       


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