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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The
Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2021-04-11 18:32:26 (7 ヒット)
週報巻頭言

 「見よ、私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである。」(口語訳28:20)
 マタイ福音書のラストシーンは、主イエスのこの言葉で閉じられます。復活された主イエスが約束の地・ガリラヤの山で弟子たちと再会し、弟子たちを勇気づけ、弟子たちにこれからの生き方を改めて伝え、世に送りだしていく、そのような時に、彼らにかけられた言葉がこの言葉なのです。そして、この言葉を、今日の私たちもまた、復活の主から聴かされているのだ、と、そう信じていきたいのです。復活のイエスは、私たちにはっきりと語り、また約束してくださっています。
 「見よ、わたしはいつも、この世が神によって締めくくられるその時まで、日々そして日々、どのような時にも、あなたがたと共にいるのである」(私訳)と。
 「いつも、日々そして日々」。 そうです。イエス・キリストは、もう、このような時にはいない、このような場面にはいないという方ではなく、いつも私たちと共にいてくださる方であられるのです。私たちのこのような時には主はいらっしゃるが、このような時にはいらっしゃらない、このような場所にはいらっしゃり、このような場面にはおられないということは、もはやないのです。
 主イエスが復活されたということは、主が限りなくわたしと共にいる方となられたということであり、ひっくり返せば、「この私が主イエスがいつも一緒にいてくれている私になった」ということです。復活とは、「イエスが新たしく変わった」ということ以上に、「この私が変わった、私の姿(私の状態)が新しくなった」ということなのではないでしょうかる。「イエスは超人的な方だった」というイエスの問題なのではなく、この私が「主イエスが限りなく常に共にいるような私とさせられた」ということです。まさに、イエスのよみがえりが、新たに変えられていく私の出発点なのだということです。イエスがいつも共にいる私とされているという、そのところから、私の感じ方は変えられ、思い巡らし方は変えられ、手足の運びが変えられ、歩き方が変えられていくのかもしれません。きっと、わたしの人生の方向性が変えられていくのです。

 また、主イエスは弟子たちに「見よ」とおっしゃいます。
 本日は、あえて口語訳聖書を用いさせていただきました。聖書のギリシャ語原文にはっきり書かれている「見よ」、新共同訳聖書では省略していますが、この「見よ」こそが大切だと感じたからです。イエスは弟子たちに、そして聖書を読む私たちに、こう仰っているのです。「見よ。世の終わりまで、いつもあなたがたと一緒にいる私を見よ」と。それはひっくり返せば、私たちが、どこにいても、「そこにイエスを見ることのできる者に変えられていく」ということです。あの方の姿を見ようとするなら、見ることができる者とされたということなのです。実際に見ているものは悲劇に満ちたものであったとしても、たとえそうであっても、「そこに、生きて働く私を見よ、そこに共にいる私を見よ、復活の私を見よ」とイエスは私たちを招いてくれます。
 たしかに、私たちが自分の人生の中で見せられる事実は苦しみに満ちています。救い主が実際に横に立っていて、あらゆる問題を払いのけて下さっている、という現実ではありません。私たちが見る聞くもの、その現実は、決して幸福に満ちたものではなく、人間の欲望と暴力が生み出す陰鬱な様相、弱い者が顧みられない薄情な現実ばかりです。目に見えているものは、むしろそのような事柄の方が多いのです。
 私たちは救い主を見たい、と切に願います。そもそも、私たちが「救い主を見たい」と心が動くときは、苦しんでいる時ではないでしょうか。疲れているときではないでしょうか。見えているものに苛まれているからこそ「救い主が見たい」と。どうにもならない事態が目に映っている、限界だらけの自分が見えてしまっているから。理解者がいない孤独な状態、問題ばかりが見えて、解決策が見えないという現実を見ているわけです。
 あるいは、「救い主を見たい」と心が動くときは、憂えている時ではないでしょうか。目を覆いたくなり、耳をふさぎたくなるような事件を見、そのような時代を見てしまっている時ではないでしょうか。悲劇的な人間の姿を目にしてしまう時ではないでしょうか。私たちは憂うべきことがらを見、聞かされてしまっているからこそ救い主を求めるのです。 しかし、そのような時、そのような中にも、主イエスは「見よ」とおっしゃってくださるのです。
 「救いを見よ、真実を見よ、いのちを見よ、神の愛を見よ、罪の赦しを見よ、神の勝利を見よ。何が、朽ちていくもので、何が神の前に取り扱われ、何が神の前で祝福されるか、何がいつまでも存続するものか、救い主イエスによって今、見よ」と私たちは呼びかけられています。
 イエス・キリストがいつも共にいる人間となること、苦しみの中で神の憐れみを見続ける人間になること、悲劇のるつぼの中で神の前に取り扱われるものを見つめる人間になること。人間が、苦しみの中にあって、このように新しく創られていくこと。これこそが復活の出来事です。復活の出来事とは、イエスがよみがえらされることによって、私たちがそのような人間として新しく創造されるということではないでしょうか。
 そして今日、わたしたち人間世界は、復活の光につくり変えられて生きる人間が、多く生み出されることを必要としている世界なのではないでしょうか。

 苦しみの中で見えているものは、見ている人間に壁のように映るでしょう。その壁を聖書の事件に照らし合わせるならば「墓石」といってもいいのかもしれません。その壁は、重く大きいのです。見えていることが悲しすぎるとき、別のものが見えなくなります。墓石という大きな壁は、人間の心の中に「絶望の壁」を造り上げようとします。心の壁が重いので、人は、見たくないはずの悲しみの現実に目が釘付けられたようになってしまい、その悲しみの淵から湧き出してしまう虚無感や怒りや憎しみといったものを「新しい現実」にしてしまうのではないでしょうか。
 今、私たちが心配し、どうしたらよいのかと苦しんでいるミャンマーの惨劇。600人以上の死者、数千人の負傷者を出すという暴虐の嵐。インターネットを通して送られる来て目にしてしまう残酷な現実は、まさに人間世界の暴力支配が生み出している十字架と墓穴の現実です。国軍が世界に見せつけようとしている陰謀と画策は、多くの人々の目を眩ませ、墓石の重さは日を追って重くなるばかりのようです。
 しかし、私たちは、このような時だからこそ、主イエス・キリストの「見よ」との言葉を聞かねばなりません。
 「わたしのよみがえりを見よ。あなたがたの苦しみを共にした私の死を見よ。しかし、その墓の中から神がよみがえらせた私を見よ。あなたがたへ伴い続ける神の愛の確かさを見よ。あなたがたを神の子として祝福している神のみこころを見よ。わたしは、もはや、あなたがたと共にいる。あなたがたも出ていって共に見よ。世界の人々と共に見よ。貧しい人々と共に見よ。悲しんでいる人々と共に見よ。わたしがいつもそのようにしたように、盲人の暗闇の中で見よ。聞こえない人々の沈黙の中で見よ。息子を亡くした母親の横で見よ。生まれつき寝たきりの男の床の傍らで見よ。悪霊にとりつかれた人間に向かい合って見よ。死んでしまった少女の手を取って見よ。嫌われ者の家に入って見よ。わたしの愛を見よ。わたしの伴いと、わたしの救いを見よ。
 あなたがたは、ゲッセマネで見よ。あなたがたはヘロデの宮殿で見よ。あなたがたはピラトの官邸で見よ。そしてゴルゴタの丘の暗闇の中で見よ。そこに、人間の暴力を浴びながら人間を愛し、その残酷と不遜の罪の赦しと癒やしのために祈り続けた私を見よ。そして、今、生きているわたしを見よ、欲望は勝利できなかったことを見よ。暴力は勝利できなかったことを見よ。死はいのちに呑み込まれてしまったことを見よ。どんなに悲惨で解決の糸口がないような現実であっても、その墓石がどんなに重いものであっても、見よ。墓石が転がされるという真実を見よ。これこそを見よ。そして、あなた自身を新しく見よ。ガリラヤに帰って自分自身を見よ。わたしがいつも共にいる人となった自分を見よ。ガリラヤが変わった、あなたの足場が変わり始めた、その事実を見よ。そして世を見よ。世界を見よ。そこには絶望の闇は必ずはらわれる神の御心が注がれている。そのような世界を見よ。そこでわたしの約束の道に生きよ。」
 復活の主に出会うガリラヤの山の頂で、弟子たちはそう呼びかけられ、私たちもまた、そう招かれているのだと思います。
 私たちは、「復活の主を見よう」としながら生きていくものとなりたいです。死にゆく人々の悲しみをしっかりと見つめながら、もう一つの約束を見ようとしたいのです。滅び去るものに目を奪われ、悲しい壁を心につくってはならないのです。悲劇に目を奪われて、怒りの壁を心につくってはならないのです。

 このことを信じて生きましょう。「いつもどこにでも共にいるという主イエス」は、ただし「墓の中だけにはおられない」のです。マリアが見たように聞かされたように「もうここにはおられない」(6節)。のです。そうです、ですから、私たちもまた、決して「墓の中」を生きることができない者とされたのです。空しい場所を彷徨うことができない者とされたのです。欲望と暴力の行き着く先に私たちは行くことができないのです。
 私たちは、墓穴にだけは、もはや行くことがないのです。私たちが、主イエスを見るとき、そこは、どんなに辛い場所であったとしても墓ではないのです。そこは、出発することのできるガリラヤなのです。わたしが発見されたガリラヤ、主のみ言葉を聞かされ始める人生が始まったガリラヤなのです。
 ご一緒に、ガリラヤの山に登ろうではありませんか。そして、主イエスに会って拝そうではありませんか。私たちは、混迷する世界の中で、人間を不安にさせるこの世界の中で、主イエスを拝そうではありませんか。そして、主イエス以外の方を恐れない者となり、そして、主のみ言葉以外の権威に動かされない者となり(そう富の力という権威、暴力の力という権威、死が持っていると考えられている虚無的な権威、そのようなものが本当の権威なのではなく)、神の愛という権威、十字架の主を神はよみがえらせたという権威、死はいのちにのみ込まれていくという希望の権威、それを真の権威として、世に出ていこうではありませんか。そこから世を見つめるものとなろうではありませんか。
 「イエスの弟子として生きる」とは、正しく強く動かされない人になるということではなく、ただどのような中にも「インマヌエルを見る人になる」ということです。そして、人々を主イエスの弟子として招いていくということは、この暗闇の世界にあって、インマヌエルを響かせ合う人々の地平を、「希望の地平」を広げていくということだと信じてまいりましょう。
 
祈り 十字架と復活の主よ
 共にいる主と、共に生きるわたしとなさしめてください。
 見るべき本当のものを見る、いのちの目をもった新しいわたしたちにしてください。
 復活の主、イエス・キリストの御名によって祈ります。


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2021-04-04 15:52:50 (16 ヒット)
週報巻頭言

 わたしたちの人生は、深く悲しい逆説を抱えています。それは、「人生とは、結局のところ『過去』に向かって進んでいるようなものだ」という逆説をです。
 どういうことでしょうか?
 私たち全てこの世にあって肉体をもって生きるものは、自らの死の時点から過去の存在になってしまうということです。たとえ人々の想い出の中に残るとしても、あるいは歴史に名が残るとしても、私たちの誰もが、自分の死によって過去の存在になってしまうのです。共に歩み、共に交わった経験も過去のものになります。愛し合った確かな時間も過去のものになっていくのです。
 死という場面を境にして、わたしは過去のものとなる。死は、一切を過去のものにしていく決定的な分岐点であるということです。そして、私たちは、誰しもが自分自身の肉体の死に向かってこの時間を生きているのであって、言うなれば「過去のものとなる時点」に向かって、今の営みを進めているのです。今の私たちは、誰もが明日以降を未来だと理解していますが、その未来は果てしなく続く未来ではなく、実は、未来には、延々と続く過去が待っている。そのような意味において、「人間の生は過去に向かって進んでいる」という、たいへん深刻な逆説を持っているのです。
 華々しい未来を予感し、信じて疑わなかったイエスの弟子たちや、共にいた女性たちにとって、思いもかけず自分たちの未来が一気に過去になってしまう、そんな事件が起こってしまいました。それが、主イエスの十字架での死でした。
 昨日まで、自分たちにとって素晴らしい未来の印だったはずのイエス先生が、今日は、過去の人になっているのです。イエスさまは、すでに過去の人になってしまった、信じたくないことでしたがそれが現実でした。

◇弟子たちの愛の結局
 12弟子たちの主イエスへの愛には、多分に彼らの「野心」が隠れていました。「この人は必ずユダヤの王となる方。そして自分たちは彼に仕える側近としてやがて主とご一緒に栄光を受ける。」そのような野心が潜んでいました。もちろん、主イエスへの尊敬と愛は嘘ではありませんでしたが、弟子たちの愛には「功名心」もいっぱい混じっていました。
 弟子たちは、そんな自分たちの愛が突然崩壊してしまうことを経験しました。そのような野心や功名心は、やはりどこかの時点で「裏切り」にかたちを変え、「逃亡」に道を取るものでしかありませんでした。
 自分たちのイエスへの愛とイエスさまへの随行を美しいものだと感じ、未来に開かれていると疑わないで来てしまった分だけ、彼らは粉砕されました。イエスとの歩みが、突然、一気に過去のものになってしまったとき、彼らは自分たちの愛の偽りとはかなさに、打ちのめされ、へたりこんでしまったに違いありません。
 自分たちの愛も未来も、十字架という恐ろしい場面で砕け散ってしまうものでしかなかったことを知りました。一切はもう過去。そして、イエスさまとの全ては、「自分たちの裏切り」という結末、そのような結局(結局という語は、多く副詞的に使われるのですが、独自の意味としては、「あげくの果て」「最後におちつく状態」のことです。囲碁でいうならば、打ち終えたこと。)を迎えてしまったのでした。
 ガリラヤからイエスと共に歩んでここまで来た数年間の豊かな旅路も交わりも未来への期待も、もう過去のこと。しかも結局、裏切りの決別でありました。裏切りのままの別れでありました。あまりにも空しいこと、あまりにも悲しいことでした。

◇女性たちの愛の結局
 主イエスと共に旅をしてきた女性たちは、心からイエスを慕ってきました。ある者は彼を息子のようにして、ある者は兄や弟のようにして、そしてある者ものは人生に光りをくれた先生として。弟子たちの野心とは無縁な、もっと純粋な愛をもってイエスの側に居て、女性たちは彼を慕ってきたのでした。
 けれども、ほんとうに悲しいことですが、そのような純粋な愛も、彼女たちを墓地に連れて行ったのでした。彼女たちは、愛の行き着く先として、結局は墓地の前で立ちつくすことになるのです。
 人間は愛するものと共に生きます。そんな愛する人と最後まで連れ添うことができ、共に過ごすことができる人はほんとうに幸いです。しかし、その幸いな人間の愛は、悲しいことに、いつかは墓の前に進み行かねばなりません。生きた愛の交わりは、墓の前で「ここまでです」と宣言され、終わりの時を迎え、もう、そうした愛し合う交わりは過去のものとなり、それ以降は墓の前で立ちつくすしかないのです。
 そして墓の前には、無情にも石が置かれます。墓穴(はかあな)を塞ぐ石は、交わりの終わりを宣告する壁、生きたものと死んだものとを遮断する、いかんともしがたい裂け目であります。「死の別れ」がある以上、人間のどのような真実の愛も、結局は墓の前に立たされるのです。

◇しかし!
 弟子たちの場合のように、人間の野心を含んだ愛のメッキがはがれて、結局崩れてしまうところで・・・!しかし! 女性たちのように、人間の純粋な愛が、「ここまで」と通せんぼをされてしまう、結局の悲しみの場所で・・・!しかし! そのような場所で、神さまの新しい物語が始まります。私たちにとっての、命と愛のほんとうの物語が始まります。
 人間の愛がダメになるところで、人間の愛が立ち止まってしまうところで、すべてが過去の出来事として逆向きになっていくところで、新しい出来事が響きます。新しい知らせが届きます。そして新しい未来が始まるというのです。それが、復活の朝でした。
 あの墓石。人間が「もっと愛したいのです」「できることならば愛し直したいのです」と願ってみても、「無理です。ここまでです。」と、全てを遮断し、全てを過去に押し返していた墓石(はかいし)が、転がされていたのです。そして、その墓石に神さまの御使が座り、こう言うのです。
「あの方はここにはおられない。人間に、おぞましく、また悲しい結局を突きつけてきた死、その死の場所に、あの方はおられない。あなたがたの『結局』は、決して結局ではなくなったのだ。恐れるな。そしてそれ以上悲しまないでいなさい。主イエスは過去の時間に閉じこめられてはいない。そして主イエスとあなたたちの歩みも交わりも、過去のものにはなっていない。ここにはいない。ガリラヤに先に行かれている。あなたたちも行きなさい。」
 人間の思惑や可能性や愛、その全てが終わっていくところで始まる「もう一つの現実」、それが神さまの御業です。神さまにはできないことがありません。そして神さまは私たちの命にとってほんとうに大切なことをなされる方です。主イエスはこの神さまによって甦らされたのです。それが告げられているのですが、あなたは、これを信じますか。3日目の朝。その陽射しの中で、彼女たちが招かれたように、私たちも、今朝、招かれています。
 心をこめて生きた愛おしい人生も、結局、墓の前に立ちつくす。その結局をあなたの人生の結局なのだ、と考え(そう信じ)達観して生きますか。それとも、わたしやあなたが、もう終わってしまうところで始まるという神の御業、そこに新しい結局があることを信じますか。そして、どちらの信仰によって、あなたの人生を生きますか。そのように問われているのです。

◇墓に背を向けて
 今日のメッセージの冒頭で、私たちの人生は、過去に向かって進んでいるような深刻な逆説を抱えていると話をしました。それは、言い換えれば、墓に向かって進んでいる(進路の前方に墓が待つ、遠くか近くかは別として、進路の先に墓が待つ)、そのような道だと言うことができます。
 しかし、今、女性たちは、墓を背にして出発します。墓に吸い込まれるのではなく、墓を背にして、生きた主イエスに向かって進路を取るのです。その行き先がガリラヤであることにも深い意味がありますが、何より、墓を背にして歩み始めることができることに、新しい人生の姿を見ることができます。
「進路に墓が待っている道」、それがいわば、過去に向かって生きる悲しい人生の道です。未来があるとしても、そのどこかで、人間の一切を過去のものにしてしまう死、そして墓。しかし、死人の中から甦らされ、墓の中から歩み出した主イエスこそが、彼女たちの目指す場所となりました。彼女たちの行き先は、よみがえりの主が先立たれて彼女たちを待っています。その未来は、一切を過去にしてしまうような未来ではなく、いつまでもいつまでも、わたしたちに未来へと招き続けてくれる、希望の主がおられるのです。この甦りのキリストに進路を取ること。私たちの人生が過去に向かって生きるものではなく、いつも約束に向かい、神の下さる永遠の御業に向かって道が延びていくことを示してくれます。
 弟子たちにもまた新たな行き先ができました。裏切りと逃亡。この背負ってしまったものに、もう捕らわれなくても良いのです。それはキリストの復活と共に軽くなっているのです。むしろ、もう一度、歩み直す道へと招かれているのです。
「死は勝利にのみ込まれた。
 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
 死よ、お前のとげはどこにあるのか。
 わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に感謝しよう。
 よみがえりの主に結ばれているならば、わたしたちの苦労は決して無駄にならないので ある。」(コリント一15:54以下)

◇人生のオリエンテーション
 今日から新年度です。若者たちにとって入学、入社、新学年へと進み行く時です。そのようなとき、きっとどの学校でも、どの会社でも、オリエンテーションを行うと思います。
 「方向づける」という意味のオリエンテーション。もともとは、中世において、教会の礼拝堂を東向きに建てるという建築用語でした。礼拝堂を、東向きに建てるのです。なぜか、それは東の方角はオリエントと呼ばれ、太陽が昇る方角だからです。そちらに向かって、顔を向け、礼拝する。新しい光を仰ぐ。それが方向付けということです。
 そうです。復活の朝、新しい命の光が射し込んでいます。私たちは、その光の方に向かって人生のオリエンテーション、方向付けをしたいと思います。
 いまこの時も私たちの前に空しい結局を感じさせる墓穴が開いているかのようです。しかし、私たちの行き着く先はそこではない。向きは変えられる。主の復活によって変えられた道があることを信じて歩んでまいりましょう。「優しくあれ、そして勇気をもて」。人間としての優しさを宿しながら勇気をもって、復活の主イエスの先立つ道としての人生を歩んでまいりましょう。
 命の扉の開く朝。希望の扉の開く朝。イースターおめでとうございます。

◇祈り
 主よ、新コロナの霧の中にイースターの朝を迎えました。
 この一年の靄と霧の中で、私たちの社会が積み上げてきたものが崩れてしまう、そんな「結局」をいくつも迎えました。
 この一年の壁の中で、自分が地道に積み上げてきたものが破れてしまうという「結局」を味わいうなだれている方々がたくさんいます。
 主よ、ミャンマー民衆の血の叫びが響く中でイースターを迎えました。
 この十数年、苦しみながら立ち上がり、ようやくかたちにしてきた民主主義の社会が一気に踏み潰され、破壊されようとしている、そのような「結局」をミャンマーの民衆は味あわされようとしています。
 主よ、わたしたちの苦しい結局、あの方々の悲しい結局が、人間の結局なのでしょうか。 わたしたちは信じます。「死は勝利にのみ込まれた」。けっしてそれが結局では無いということを。すべてが空しいとしか思えない場所に、復活の主が起き上がり、立ち上がり、なおも生きる道を、なおも進むべき道を、指し示して下さっていることを信じます。ミャンマーにあって、「これが結局では無い」「これを結局にしてはならない」、そう信じてCDMの道を踏み続けている民衆に、主よ、かならずあなたの勝利の光が注がれることを信じます。すべての人々の人生の真実として、「闇は光に勝つことができず、命は墓に閉じ込めることができず、死は命にのみ込まれてしまったのだ」と、神よ、あなたが響かせてくださったこの言葉を仰いで、生きてまいります。主よ、あなたの御業と約束に感謝します。主イエスとあなたが讃えられますように。御国がきますように。
 甦りの主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2021-03-29 10:19:51 (17 ヒット)
週報巻頭言

 神の独り子が真に人となられて私たちの間に遣わされる。神の本質・御心が人の姿をとるときに、どのような「人間の姿」をとることがふさわしかったのでしょうか。皇帝や王のように人々の上に君臨する姿ならば、神の御心は最も正しく現れたのでしょうか。神は人間を支配し、人間から仕えられることを望んだのでしょうか。いいえ、そうではありません。
 あるいは、医者だったら御心がふさわしく現せたのでしょうか。教師なら分かり易いのでしょうか。政治家なら良いのでしょうか。宗教家ならそれらしいのでしょうか。いいえ、神の御心、神の想いが私たち人間の中で徹底的にリアルに姿を取るとしたならば、それは、全ての人間の足下にひざまずき、その汚れをぬぐう仕事をさせられる「僕・しもべ」以外の姿で現しようがなかったのです。
 神の御心、神の本質が「愛」であるからこそ、しかもいわゆる「やさしいよりそい」ということでなく、徹底した愛、すなわちその人がどうであっても神の手の中に受け入れようとする愛であったからこそ、またその人がどのような状態であっても共にいる愛であったからこそ、「僕の姿」を取るしか無かったのです。
 この徹底した愛が生まれるにふさわしい場所は、みじめさ・貧しさの極地である家畜小屋の餌箱の中でしかなかったし、この徹底した神の愛が歩む道は、苦しみを生きる人々をつぶさに訪ね歩く旅空にしかなかったし、この徹底した愛が死ぬ場所は、人間の死に場所の中ではもっとも辱められしかも苦痛を伴う十字架という処刑場でしかありえなかったのです。神が人の姿を取るならば、神の愛の御心が肉体をとって生きるならば、イエス・キリストのご生涯の姿がそのかたちであったのだと、聖書は私たちに証しています。そして、このイエスの十字架に躓かない者は幸いだと呼びかけています。十字架のキリストこそが、神の愛の徹底性を示しています。最も孤独な場所、最も悲惨な場所、最も残忍な場所、最も冷酷な場所に張り付くほどまでに貫徹された神の愛。それが十字架のイエス・キリストが指し示している神の御心です。
 そして、その苦しみに喘ぐキリストの十字架のふもとに、そこに私もいたのであります。 「黒人霊歌」に次のような歌詞の歌があります。「きみも、そこにいたのか。主が十字架につくとき。あぁ、なんだか心が震える。きみも、そこにいたのか。」
 私がそこにいたのです。十字架を私と無関係だと考えるのは、神の愛が私と縁のないものだと考えることを意味します。神の愛が私に注がれていると信じたい者は、それは十字架において私と関係しているのだと考えていく必要があります。「神は、私を愛してくださっている。それはとても嬉しい。しかし、キリストの十字架と私とは直接関係ありません。」そのように、神の愛を「切り貼り」することはできないのです。

 マタイの報告するイエスの受難の記事には様々な人間の姿が描かれています。たとえばイエスの裁判の記事・場面(本日は読みませんでしたが)には次のような登場人物がいます。それぞれの思惑をもって集まってきていました。
 ローマの総督ピラト。罪状を吟味し、判決を下し、あるいは罪人を放免することのできる裁判官という立場からイエスに尋問するビラトがいます。
 罪をとがめ、罪を告発する検察官のような立場から、イエスを法廷に突き出す祭司長・律法学者・長老たちがいます。
 うっぷんと刺激の矛先を、自分たちの期待を満たすことの無かったイエスに向けて爆発させていく群衆がいます。
 命令とあらば、事の意味を考えることもせず、侮辱とさげすみと暴力をもって被告人にリンチを加える、ただ残忍を楽しんでいるローマ兵たちがいます。
 いるべき人々がいません。そうイエスの弟子たちは、とっくに逃げ去っていたのでした。 これらの人々がイエスを取り囲み、イエスを裁く裁判をつくりあげていました。裁判長がビラトで、検察が祭司長・律法学者たち、そして陪審員が群衆で、刑の執行人がローマ兵です。これらに取り囲まれた裁判、それが神の子イエスを裁く裁判でした。これが、救い主を審問する裁判でした。ある人々は悪意をもって、ある人々は何らかの危機感や緊張感をもって、ある人々は興奮にかられて、ある人々はおもしろ半分にイエスを取り囲みました。聖書はこの場面に、人間世界の拭いがたい罪の姿を描いています。そこにわたしもいたのです。
 彼らは、イエスの罪状づくりのために議論しました。イエスの行為と言葉とが死に値するかどうかを審問しました。免罪できるかできないか。酌量の余地があるかないか。どのような刑罰が妥当なのか、と興奮して攻防しているのです。総督ビラトは、何度かイエスを擁護しようとしていますが、それとて、イエスの言葉やふるまいに、尊敬の念を抱いていたからではなく、ユダヤの告発人たちの陰謀が忌々しかったからであり、また植民地のユダヤを治める責任者として、とにかく丸く収めたいという気持ち以外の何ものでもありませんでした。ですから、彼の擁護はほとんど力を持たず、悪意と鬱憤晴らしの欲求に、救い主を引き渡していきました。
 人間たちが、神の子を、救い主を葬るために造り上げた裁きの場とはこういうものでした。しかし・・・。
 イエスがゴルゴタに歩まれたのは、人々による決定のようですが、しかしそうではありません。イエスが十字架に吊されたのは、神のご意志によってです。ただ、主イエスは、ゲッセマネの暗闇の中で、神の沈黙の中に聴き取った「神の意志」に従って十字架に進んでいかれるのです。人間が神の独り子を十字架に張り付けた、それは一方では明白な事実なのですが、そこには、神がその独り子を十字架にささげられる決心をなさったという「神の意志」があります。イエスは、すでにエルサレムに登ってくるときからその神のご意志を生きていたのです。さらにゲッセマネでの苦悶の祈りを通して、この杯が(父なる)神の意志であることを定め取り、その杯を受け取っていました。
 ビラトは、裁判の場でイエスが一言も弁解をしないことを不思議に思ったのです。たしかに何一つ言葉がありません。弁明、訴え、命乞い、呪い、無念の言葉、そうした人間としてはありそうな、あるべき言葉が何もありません。不思議にさえ感じます。まさしく、十字架は、人間の思惑と決定の結果なのではなく、神の御心であり、神の意志への服従を決めたイエスの選ばれた道なのです。それゆえ、イエスもまた沈黙なさるのです。そこにはただ、その全ての苦い杯を受け、荊の冠を受け、張りつけられて死ぬという静粛な厳しさがあるのです。そこには、もはや沈黙があるのみなのです。

 マタイの報告する十字架の場面にも人々の姿が描かれています。罵る人々の様子です。 しかし、ここでも神の沈黙、イエスの沈黙が貫かれていきます。
「神の子なら自分を救ってみろ。十字架から降りてこい。」
「他人は救ったのに、自分は救えないのか」
「十字架から降りるがいい。そうすれば信じてやる」
「神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ」
 沈黙する神の独り子に浴びせた人間の言葉が、このあまりにも汚らしく残忍で傲慢な言葉です。
 自分の欲望の中から神を見たい、神を見せろと要求している人々。
 自分の思い通りの神を要求している人々。
 人間にとって価値がある神を求め、役に立つ神を呼び出そうとしていく人々。
 自分が神を見定め、自分が神を認定してやろうとする人々。
 神を従えようとし、神を見失い、いえ神を捨ててしまう人間の姿。そこに、私もいたのです。いまも、わたしはそのような心で生きてしまっています。
 この人間を愛し抜くために神が苦しんでおられる。それがイエスの十字架の光景です。この神を罵る人間の前で無力にも沈黙を貫かれる神、屈辱を浴びせられている神。神は苦しんでおられる。神を捨てる世界をそれでも受け入れ、この世界と和解をなさるために神は沈黙しておられるのです。
  
 神と共に生きる。今日は、その生き方の深みを知らされます。それは、私たちの生きる現代、私たちの生きるこの世界で、「神の沈黙を聞きながら生きる」ことでもあるのです。
 不条理や理不尽の絶えない世界です。「神の不在」を強く感じ、「神なんていない」と言い切ろうとする世界、あるいは、「神がいるなら○○してくれ、そうすれば信じてやる」と言いのける世界。神の声があたかも響いていないかのようなこの世界の中で、私たちは神の前を生きていくのです。神の沈黙の世界を生きていく、しかし神の前で生きていくのです。神を拒絶する人々の声ばかりが聞こえてくるし、自分自身も神を、神の御心を決定的に証できないでいる、つまり神の沈黙がただよう日常を、生きていくのです。神の前に生きていく。「神と共に生きる」ということの一つの苦悩です。しかし、イエスが十字架を生き抜かれた姿こそ、神の沈黙の世界を神の前に生き抜いた姿ではなかったでしょうか。
 イエスが決定的に生き抜かれたこの態度、この信仰こそが、あらゆる宗教との明確な相違点です。人間が持とうとする信仰、あるいはつくりあげてきた宗教は、人間が困ったときに、この世にあって、この自分の現実に対して、神の力を示そうとする態度です。人間の陥っている境遇に、神が無理矢理引きづりこまれ一役担わされるのです。しかし、そのような神・「沈黙しない神」「すぐに何かをしゃべり始める神」は、人間を苦しみから本当に救い出すことはできないのです。また、そのような神信仰は、人間をほんとうの意味で成熟させることがありません。
 真理を真理とし、愛を愛とし、希望を希望とし、現実の苦しみを苦しみとしていくことができる人のことを「成熟した人間」と呼ぶことができるのではないでしょうか。しかし、そのような人にとっては、この世は苦しいと思います。この世は苦しみに満ちているのではないでしょうか。けれども、やはり大切なことは、苦しむべき事を苦しむことのできる人間として生きることです。罪を、無関心を、敵意を、暴力を、不当な支配を、ほんとうに苦しんでいくことのできる人間、そのような人間こそが「大切な人間」「人間の大切な姿」なのだと思います。そういう人間、そういう人間性が、今、ほんとうに求められているのではないでしょうか。神は、人間をそこへと呼びかけているのではないでしょうか。それが十字架を選ばれ定められ、沈黙の中に人間を贖いたもうた神のメッセージであり、わたしたちへの期待なのではないでしょうか。
 十字架を見上げる生き方。そこから、新しい人間がつくられるのです。そこに、神の前を生き、神と共に生きる本来の人間がつくられていくのです。
 私たちは十字架のふもとにいました。そして神に赦され受け入れられました。
 私たちは、いまも、十字架を見上げるところに生きていたいと思うのです。


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2021-03-21 14:33:40 (34 ヒット)
週報巻頭言

「眠りこける」とはどういうことでしょうか。また「目を覚ます」とはどういうことでしょうか。「おい、いい加減、目を覚ませ」と、浮かれた人や何かに取り憑かれたような人を諭すときに使う表現がありますように、単にそれは「睡眠」のことや、朝の目覚めのことばかりを意味してはいないのです。
 私たちは、起きていても眠っていることがあるのかも知れません。
 私たちは、起きてはいるけれども、目を覚まして生きていない、ということがあるのかもしれません。
 私は、いま、痛烈に感じています。いま、この時、ミャンマーの人々は、国軍の暴力の前で、眠りこけることなどはできず、ミャンマーの歴史と未来のために、自分たちの人生と人間が人間として生きる上で失ってはならないもののために起き上がっていると。いま、自分は何をすべきかということに覚醒していると思います。
 2月1日の突然のミャンマー軍の軍事クーデターに直面し、あの日以来、ミャンマー全土で、CDM=非暴力・不服従・抵抗運動が続けられています。
 軍に服従しない。軍に抵抗する。しかし非暴力を貫く。
 それは目覚めです。流れに迎合しない。暴力の前に膝をかがめない。また暴力に対して暴力でやり返したくなる誘惑に打ち勝ち、非暴力の抗議行動を選び取る。それは目覚めです。今日も、街の通りに、抗議のために出て行く。毎日、誰かが殺されている。出て行くと、帰ってこられないかもしれない。それでも、通りに出て行く。こないだまで、朝、学校に出かけていく息子が、娘が、今は、抵抗運動のために通りに出かけていく。もしかしたら、帰ってこないかもしれない、その息子を娘を送りだす親。眠ることなどできようはずがありません。
 こうしたミャンマーの人々の心は、いま、強烈に目覚めているのだと思います。精神的に、あるいは霊的に人間が目覚めている、というのはこういうことだと思います。
 そして、ミャンマーの民衆たちは、国際社会に対しては、「どうか私たちといっしょに目覚めていてください」「どうか眠らないで起き上がってください」と叫んでいるのではないでしょうか。

 昨年、警官に首を踏まれながら、「苦しい、息が出来ない」と喘ぎながら死んでいったジョージ・フロイドさんの絶命の喘ぎは「みんな、目を覚まして欲しい」という響きとなって全米に広がりました。多くの人々が目を覚ましたのです。
 昨日、連盟の震災シンポジウムで講演をなさった金丸真先生が、「私たちは決して『震災後』を生きているのではない。震災と震災の間を生きているのだ」と語られました。その夕刻に、震度5強の地震がありました。まさに、震災後ではなく、震災間を生きていることに、わたしたちは、あらためて目覚めさせられています。
 目覚めているかどうか。祈っているかどうか。このことは、人間として、そしてクリスチャンとして、生きる上での大切な問いなのではないでしょうか。
 祈り。それは、多くの画家たちが描くように、また私たちも自然とそう考えているように、目を閉じ、手を組み、膝をかがめ、静まっていく姿です。確かに祈りは静まるときです。しかし、静まることは眠ることではないのだと思います。祈るとは、むしろ目を覚ますこと。目を覚まそうとすることです。
「大切なことを知らされる時」これが祈りの時です。
「私にとって無くてはならぬものを教えられる時」これが祈りの時です。
「したいことではなく、なすべきことへと心を向けられる時」それが祈りの時です。
 目を覚まして、祈る。また、祈りによって、目を覚ましていく。
 目を閉じることによって、人は心を開き、静まることを通して、動きを創られるのです。

 ローマのカタコンベ(初代教会のクリスチャンたちの集まった礼拝所であり、また共同墓地)の中には、たくさんの壁画、天井画が描かれています。またいくつかの像も残されています。描かれている初代教会のクリスチャンたちの祈りの姿、高く伸ばした腕、天に突き上げた顔、広く見開いたまなこ、立って今にも歩き出しそうなからだ。それが祈りの描写であるとするならば、静かな内省というよりは、張り詰めた待望というべき祈りの姿です。迫害の中を生き抜こうとしていた祈る人々の姿です。
 わたしたちは待望しているでしょうか。そしてほんとうに大切なものを、まだ見ぬ時の中に備えたもう神と対話しようとしているでしょうか。

「神よ、みこころを教えてください。」「神よ、わたしの理解できない『いま・このこと』の意味を教えて下さい。」
「神よ、しかし、理解できなくてもあなたがかならず為される良いものがなりますように。」
 そうです。ゲッセマネで祈るイエスは、待望していました。何より、神と対話していました。壮絶な対話です。イエスもまた、苦しまれたのです。イエスといえどもおびえたのです。まもなく自分が迎えようとしている十字架、どうやら逃れられそうにない処刑。これまで、人々に神の国の到来を語り抜き、また疲れた人々に神のまなざしを届けてきた、その自分の歩みへの報いとして、この世が用意している十字架というおぞましい結末。
「神よ、それでいいのですか。」
「それがあなたの人間への愛のかたちなのですか。」
「アバ・父よ、それを通して、あなたはいったい何を生じさせることがおできになるのですか。」
 イエスはやすやすと十字架を背負ったのではなく、十字架を背負うことの意味を真剣に神と対話していたのです。
 神は沈黙をなさいます。一見、そのように読んでしまいます。しかし、神はイエスに答えていたのだと思います。イエスは決して神の声を聴かなかったのではないのです。イエスの問いかけに沈黙をなさる神。それはまさしく、人間を愛する徴として、イエスに十字架を背負わせることを、イエスを十字架に送ることによって、神が人間を愛し抜くということを、揺らぐことなく留保なしに決定された「神の声」が、この夜のイエスには聞こえたのだと思います。十字架は、ただ人間の手によってもたらされた陰謀による結果ではなく、「神の与えたもうた杯」である。この苦しみに神のみこころとみ業があるのだ。そのことをイエスはこの夜、神から聴き取ったのです。
 この「神のみこころ」の声は、十字架上の苦しみの絶頂の時も、ずっと沈黙として響き続けています。この神の沈黙こそが、実は明確な神の声の響きなのです。
「私は赦す。あがなう。裁かれ、滅びに至るしかない、あなたたち罪人を、このイエスによって赦し、受け入れる。それが、わたしの決定である。だから、あなたたちは新しく生きよ。」
 この神の沈黙は、イエスのよみがえりの朝、新しい響きとなって響き渡ったのです。
「さあ、あなたたちは新しくなったのだ。神の国は、あなたたちのもの、あなたたちは、永遠に、わたしのものなのだ」と。
 
 イエスの隣で眠りこけてしまった弟子たち。彼らの眠りに、人間の事実と本性を見ます。神に祈ろうとしていても、その祈りの時に、わが思い、わが願い、わが望みしか求めきれない人間の本性を見ます。自分の期待と憧れの中に眠り続けたい人間の悲しい性根を見ます。わたしたちは、眠りながら神に祈ってしまうことができるのです。神と向き合っているようでいて、目を覚ましていることができず、自分の夢の中で祈り続けてしまうことがあるのです。イエスの魅力的な業、頼もしい言葉に心惹かれはしても、うろたえとまどい苦しむイエスを見たくは無く、目を閉じて見ようとせず、思考を停止するのです。イエスと共にいることができないのです。「誘惑」と訳されているペイラスモスは「試練」と訳されもします。「誘惑」の本質はそれです。「試練」の本質はそれです。
 必死に祈っている人の傍らで誘惑に負けます。
「いま、自分にとっての、このことの意味は何なのか」とその意味を探して、必死に祈っている隣人の傍らで、眠りこける。それは、いまも、人間世界のあらゆる場面で起こっていることです。人間の試練なのです。
 新コロナパニックは、人間を目覚めさせることのできる何かを含んでいます。しかし、それ以上に、人間を眠り込ませる誘惑を「高い湿気」「湿度の高い空気」のように含んでいます。わたしたちは、目覚めていることができるでしょうか。目覚めて祈ることができるでしょうか。今日の難問の一つです。
 ただ、わたしたちは、イエスが目覚めて祈っておられることを忘れないでいたいのです。イエスは目覚めておられます。イエスは祈っておられます。イエスはこの暗闇の中で、目を覚まし、この苦しみの意味を受け取っておられます。眠りこける私たちは、イエスから起こして頂くのです。「立て、行こう」と。

「ミャンマーのために祈って下さい。」「国外からミャンマーのために働きかけをお願いします。」毎日のように、SNSで叫びが、祈りが届きます。何もできない自分に打ちのめされています。苦しくて息が出来なくなりそうになります。けれども、このことについて、目を閉じ、見なかったことにしたくはありません。目を覚まして祈る。このことから離れずに過ごしていこうと思います。何より、あの暴虐の嵐の中に、わたしたちはイエスが歩んでおられる姿をしっかりと見ていたいと思います。
                                 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2021-03-14 13:17:14 (30 ヒット)
週報巻頭言

 イエスは誰もが理解できる風景を示しながら、たとえ話を語られました。それは、羊と山羊とを分けるパレスチナ地方の牧畜の習慣でした。日中は一緒に放牧されていても、夜になると山羊は暖をとるために暖かい場所に、羊は比較的風通しのよいところにと分けて休ませるのです。
 このような習慣がよくわかっていた人々には、分けられる時がくることと、分けられるイメージが思い浮かんだのです。イエスは、このイメージを用いて「最後の審判」の風景を語られます。
 お聞きになったことあると思います。「最後の審判」。ミケランジェロが同題の絵画を残しています。「終末」などとも言われます。未来の「いつか」にそんな「審判」がくだされる。何らかの基準によって、そのとき生きている人々も先に眠った(死んだ)人々も、すべての人々が右と左に分けられるように裁かれる、そんなイメージです。いつかはわかりません。分かれ目の基準も掴めません。さて、その日その時「選ばれる」ために何をしておいたら良いのか。「功徳リストが欲しい。」「過去問題はないのか、赤本はないのか?」「ガイドブックはないのか?」「 誰かはっきり教えて欲しい!」「 よし、何をしたらそちらに行けるか、私が教えてあげよう。」そんな風にして(新興)宗教がニョキニョキ生まれます。いえいえ、古代のユダヤ教もゾロアスター教もキリスト教も、「どうすれば、そちらの側に行けるの」という人間の欲望、人間の不安とちっとも無縁ではないのです。
 マタイによる福音書24章は「その日がいつ、どんな風に訪れるか」についてイエスが語り、25章は「いったい誰がそちらがわの人になるのか」について「たとえ話」で語っている部分です。けれど、「いつ」「どうな風」についてはやはり秘められたまま、「誰が」についてもたとえ話なので「解釈いろいろ」です。謎に包まれています。

 でもこのたとえのおもしろいのは、人間の自覚とキリストのまなざしとはずれているということです。
 右の方ですか、祝福されて受け入れられているのは。こちらの人々は、最後の審判の時キリストの前で、自分がその選びに値するということに全く気づいていないのです。(いつわたしが○○しましたか)。そう自覚がないのです。
 一方、別の方にわけられた人たちは、自分はいつも一生懸命やってきた。神のために働いてきたという自覚を持っています。(いつ私が○○しませんでしたか)と。
 この「自覚のずれ」が大変興味深いです。この人間の自覚とキリストの判断がずれるからこそ、おもしろい。おもしろいというか、人間にはつかまえきれない。到達しきれないわけです。だからきまぐれにいきれば良いとはもうしません。人間の努力や功徳は活動は貴いものだと思いますし、光があてられて良いものだと思います。でね、それがイコールキリストのまなざしだと決め込んではならないのです。キリストに選ばれるためにこうしようという類いの自覚は、神の前、キリストの前でずれていくものなのです。選ばれるための方程式はありません。ただし、キリストのまなざしの前に立つときは来ます。というか神の前に、キリストの前に生きていないような時は一時たりともありません。インマヌエルのキリストが傍らにおられない時もない、のです。
 私たちが見て考え、価値づけをしようとしている「私たちのまなざし」とは別の「キリストのまなざし」が、私の生きるそれ・そのことに注がれています。そして、それ・そのことが、キリストに祝福されるとは限らないし、そんなことが必ずしもキリストに役立たない行為であったかどうかもわからないのです。300デナリの香油を割ってイエスに降り注いだ女の話。愚かな行為に映りましたが、イエスはとても喜ばれましたものね。

 このたとえもそうですが、主イエスの語られる言葉にいつも流れていることは、神の国というところは、そして最後の時の祝福というのは、涙がぬぐわれ、苦しみから解き放たれ、傷が癒やされ、理不尽な重荷がおろされるような場所(状態)なのだということです。と同時に、いつかその場に与ることができるのは、いま泣いている目の前の一人の涙の意味を知ろうとし、いま傷を負うている目の前の人の傷口に薬を塗ろうとし、いま出会ってしまった家の無いこの人を迎え入れ、理不尽な重荷に喘いでいる目の前のこの人といっしょに呻き怒ることと、そのことと関係があるのだよ、ということです。
 努力する、節制する、精進する、修行する・・・それらは、どこか自分自身で完結していく業ですね。「私が何をするか、何をすれば」という風に私の「取り組み」の問題ではないのです。
 「あの小さな一人にしたのは、わたし(キリスト)にしたのだ」とイエスが言うように、他者との関係、つながりのことがら、そして今という時の問題なのです。(今というのは、常に、「たまたま性」をあらわしています。) ですから、日ごろから慈善活動に努めてきました、とか、支援活動を生業にしています、というようなことでもなさそうです。

「いつ、どんな風に『その日』が来て、いったい誰が、そちら側に行けるのか。決してわからないことを気にして、一心不乱になって、いま目の前の他者との出会いを見失わないようにしなさいよ。とても小さな人との出会いとつながり、つまり慰められるべき人が今慰められること、癒やされるべき人が今癒やされていくことと、やがて「その日」の風景とは、とても関係があるんだからね」とイエスは語っているのだと思います。

 たいがいの人はトルストイの「くつやのマルチン」を連想しますし、また人物で言うとマザー・テレサのことを思い浮かべるかもしれません。マザー・テレサのような生き方がキリストが喜ばれる生き方だ、と断定することはできませんが、マザー・テレサという人が、実にキリストを感じながら生きた人であったと言えると思います。
「死にゆく人々の家」。一人一人の孤独の解放のために、その人の人格の尊厳を見つめて「この人々はキリストなのです」と語ったテレサ。それは、決してキリスト論を論じる言葉ではないのですね。
 若き修道女だったテレサは、インド・カルカッタで、地面に打ち倒れてそのまま死んでいく人々を見ます。人の飢え、渇き、寂しさを見ます。彼女はそこに留まることにしました。その彼女には「こうすればキリストが喜ぶ」という定式のようなものがあったわけではありません。ただ、自分の心が震えたのです。この人の命に触れること、この人の小さな必要を満たすこと、そしてこの人の命を受け取り、受け止めようとすること。その関わりをもくもくと淡々と為し続けていく。そこにキリストに仕えるという信仰を重ねていくのですね。
 マザー・テレサの活動には多くの批判があります。貧困は構造の問題だから、社会構造そのものを打たねばあまり意味がないというような。それは、それで必要な議論です。
 ただ彼女は、そこで一人の命に奉仕する一人として生き続けただけでした。また彼女は、自分で自分の働きを「良し」とはしないです。「この働きはキリストに仕える働きです」と位置づけたりアピールをなさったりはしませんでした。
 彼女は毎日、定刻になると、自分の業を止めて、必ず祈りの場に入り、沈黙の中にキリストと直接的に向き合っておられたといいます。かならず、自分の業をやりつづけないで横に置く。にぎりしめないで手を放し、キリストとの祈りの中に手を結んでいきます。キリストを求め、キリストのまなざしの中へと自分の業を託していく、委ねていくのです。

 神が私たちに与えられた救いのかたち(しるし)は、イエス・キリストの姿に顕されました。そのかたちとは、「神がもっとも小さい一人になられ、もっとも小さくされている一人と出会い解放する」という出来事でした。最も小さな、しかも罪深い人間である私のために、神が最も小さく低くなられ、小さな私が受け入れられ、小さな私が用いられ、遣わされ、小さな誰かに届いていくこと。小さな一人が小さな一人に生きること。このつながりの中に、キリストの喜びは注がれるのです。何より小さな私たちが生きているという事実、小さな一人として生きることに、素晴らしい意味があるのです。
 今日という時代は、「一人がする」ということを無意味に感じさせる時代です。また「一人にする」ということをも無意味なことのように思わせる時代です。とりわけ、ミャンマーで起こっていることに手も足も出せない。どんどん事態が悪化していくのに。もどかしくてしかたない。無力感でいっぱいです。祈ることしかできない。でも、祈ることで私が変えられ私がつくられる、そのことはやはり大切なことです。いま、苦しんでいる人と神の国はつながっている。いま傷を負うている人と「その日」はつながっている。わたしもつながろう。手が出せないなら、手を結んで祈ろう。そこからできることを考えてみよう。
 この小さな一人が小さな一人に祈ってみる、一人が一人に生きてみるということは、キリストのまなざしに捕らえられており、ここにキリストがいらっしゃるのです。
 
  


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