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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The
Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-05-20 18:00:00 (0 ヒット)
週報巻頭言

真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。 (ヨハネ16:13)

今日はペンテコステ、「聖霊降臨日」です。主イエスの十字架と復活を経験した弟子たちが、聖霊を受けて立ち上がり、福音の宣教のために進み始めた転換の日です。宣教活動を命とする教会の「誕生の出来事」だと言えるでしょう。その聖霊について思いを馳せていきたいと思います。 
 聖書(創世記)には「人は土からつくられ、神がそれに息を吹きかけた。そして人となった」と語っています。いっけん非科学的なようですが、人間にとっての事実と人間の命や人生の神秘の両方をよく言い当てています。人間の肉体は確かに「土」から、つまりさまざまな分子・物質の結合によってできている「土塊」のようなものです。それだけでは生きた生命ではありませんが、その土塊に神の息が吹きかけられていて、霊肉が整えられて「生きる存在」となります。人間は、私の存在を存在たらしめた神との深い交わりを求める霊的な動き、すなわち霊性を、肉体の中に備えられています。霊性とは、単に知識や知恵のことではありません。心、精神、情緒、感情、感覚、意思、それらをすべてを包括し、かつそれらすべてを統合するものだと言えます。いいえ肉体をも統合します。神との深い交わりに従って、「生きる」ということを統合しようとする動きのことを霊性(スピリチュアリティー)ということができます。神のみ声を聴きわけようとし、神の想いやまなざしを見つめ、神の招きに応えて生きようとする人間性のことだ、とも言い換えられるかもしれません。(自己陶酔的な忘我状態とは何の関係もありません!)
ところで、人間は常に、その霊性を育もうとする力と、損なおうとする力との双方に直面しながら生きているのだと言えます。たとえば、人が交わりに包まれたり、希望によって支えられたり、何といっても愛されている実感に結ばれているときに、その人格全体に平安を得ることができるでしょう。しかし逆に、人が計算ずくの関係や、利用主義の価値観や、物質的・肉体的なことだけを求められるつながりなどにさらされ続けてしまうと、その人格は著しく傷つけられ、不安に襲われてしまうのではないでしょうか。ですから、わたしたち人間が(その霊性にとって)「愛に支えられていること」「希望に結ばれていること」の大切さをおぼえたいのです。
神さまは、この人間の霊性を育もうとして下さっています。常に、愛と祝福と勇気を与えようとしてくださっているのです。そして、わたしたちを助け、守り、導くために、届けてくださっているものが聖霊なのです。(吉高 叶)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-05-13 18:00:00 (10 ヒット)
週報巻頭言

そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。(第一ペトロ3:19)

ペトロの第一の手紙は、1世紀末のアジア(現在のトルコ西部)に吹き荒れた皇帝崇拝と迫害のあらしの中で、キリストの苦難を思いつつ救いの希望に堅く立つように勧めています。18節と22節は整った韻律を持ち、賛歌の引用と考えられます。キリストは人々の罪のために苦しみ、正しい方でありながら正しくない者たちのために死なれた。それはわたしたちを神のもとへ導くためであった。この方は霊によってよみがえられ、その後天に昇り、神の右にあって天使たち、諸権威、諸勢力を支配しておられる――そう歌ったものです。
 その途中に、キリストが捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されたという説明が挟まります。キリストはノアの時代に神に従わず、箱舟に乗らなかった者たちに宣教されたというのです。彼らと違って、箱舟に乗った8人は水の中を通って救われました。ちょうどそのように、バプテスマの水をくぐったキリスト者が今救われようとしています。ただし、バプテスマは肉の汚れを取り除くことではなく、神に正しい良心を願い求めることであることには注意しなければなりません。
 いったいノアの時代に神に従わなかった霊たちとは何でしょうか。神の子ら(天使)が人間の娘たちに巨人を生ませたので(創世記6:1–4)神が怒り、ノアの曽祖父エノクを送って断罪させたという伝承との関連が指摘されています。この「神に従わなかった者たち」のところにキリストが行かれた結果どうなったかを説明することなく、話題はすぐバプテスマの意味に移っていくため、「宣教」とは救いの告知なのか、単に彼らの断罪の確認なのか、あるいは有罪とされた天使らの前でのキリストの勝利宣言なのか意見が分かれるところですが、「彼らが……霊において生きるようになるため」(4:6)から見て救いの告知と見るのが妥当でしょう。いずれにしても、キリストが陰府においてもまた主であられ、生きている者にも死んでいる者にもひとしく裁き主であられます。わたしたちは死者と直接交渉することはできませんが、キリストを通して死者との交わりに置かれているのです。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-05-06 18:00:00 (22 ヒット)
週報巻頭言

わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。(ヨハネ4:14)

ヨハネの弟子たちに加えてファリサイ派からも警戒されていることを知って、イエスはガリラヤに向かいます。しかし最短コースで行くには途中サマリアを「通り抜けねば」なりません。もとダビデの王国の一部だったこの地の人々は、歴史的事情からユダヤ人と反目し合うようになっていました(9節参照)。イエスが疲れを覚えて井戸端に座っていると、深い渇きを抱えた女性が水をくみに来ます。正午ごろにわざわざやって来たのは人目を避けたかったからでしょう。決して人道にもとることをしているわけではないのですが。
 イエスは「水を飲ませてください」と呼びかけますが、実はみずから彼女の渇きをいやしたいのです。「生きた水」(わき水の意味もある)と聞いて女性は心をひかれますが、革のバケツも持たぬこのユダヤ人は何者だろうとなお不審そうです。イエスが言われるのは尋常な水ではありません。ただの水では、いや地上のどんなものでも、彼女の渇きをいやすことはできないのです。それができるのは神のことばだけです――渇いている人をいやすばかりか、世を潤す人に変えることさえできるのは。しかし彼女は普通の水を得る苦労で頭がいっぱいです。敵地を行くように周囲の視線を避けて毎日この井戸まで「通り抜けて」来なければならないのですから。
 いや、イエスはすべてご存じなのです。「あなたの夫をここに呼んで来なさい」というひと言でそれがわかります。女性が自活できない社会に生まれ、運悪く夫が早死にしたこと。ずっと年上の男性の後添いになっては先立たれる繰り返しで、ついには正式に結婚することもできなくなったこと。そういう(当時は珍しくない)事情を、皆ご存じなのです。すべてを言い当てるイエスを預言者だと思った女性がユダヤ人とサマリア人の対立がいつか解けるのかを尋ねると、イエスは「その時が来る」と答え、ご自分が預言者以上の方――ほかならぬメシアであることを明かされます。それを聞いた彼女はあんなに避けていた町の人々を大急ぎで呼びに行きます。世を潤す人へと一歩踏み出したのです。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-04-29 18:00:00 (29 ヒット)
週報巻頭言

あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。 (ヨハネ3:30)

イエスは2:13以来ユダヤにとどまっています。ユダヤのどこに来たかは書いてありませんが、人々にバプテスマを授けていたのです。その時点ではヨハネと同じ悔い改めのバプテスマだったのでしょう。ヨハネもサレムに近いアイノン(サマリア最北部か)でバプテスマを授けていました。ふたりが同時に宣教していた時期があるという描きかたによって、同じ時期に同じようにバプテスマをのべ伝えてみたらイエスのほうがより多くの信者を獲得したと語ることにより、イエスがヨハネよりも優れた方であることを強く印象づけています。
 25節の「あるユダヤ人」は難解で、次節以下からはむしろ、清め(バプテスマ)を巡ってヨハネの弟子たちが「イエスの弟子たちに」しかけた論争のように見えます。バプテスマの権威は師にこそ与えられたと確信するヨハネの弟子たちにとって、イエスが同じことをして師以上の信者を集めているのは不愉快な驚きでした。そんなイエスのためにヨハネがあかししたのですからなおさらです。しかし、ヨハネの態度はきっぱりしています。天から与えられていないもの(メシアの地位)をわがものにしてはなりません。ヨハネは自分がずっとそう言ってきたことをあなたがたも知っているはずだと28節で言い、花婿とその友人のたとえを語ります。メシアが来られたことこそがヨハネの喜びです。たとい自分の役目がこれで終わるとしても。イエスも自分の栄光を求めません。自分のことばではなく父のことばを語り(7:16)、自分の意志ではなく父の意志を満たす(5:30)だけなのです。
 ただひとり天から下って来た方が見たこと聞いたことをあかしなさるのに、かつてはみんながあの人のほうへ行ったのに、ヨハネが福音書を書いている1世紀末にはだれもそのあかしを受け入れなくなっていました。ただ、受け入れて命にあずかる者もいます。こうして全人類が二つに分かれるのは、神の意図ではないかもしれませんが、1世紀末の教会が現に経験したことでした。ただ、人は神の意図を完全には知りえないことも認めなければなりません。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-04-22 18:00:00 (63 ヒット)
週報巻頭言

はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。 (ヨハネ3:3)

エルサレムでイエスが行うしるしを見て信じた人のひとり、ファリサイ派の議員でイスラエルの教師であるニコデモが夜イエスを訪れます。「夜」は周囲の視線への恐れと共に彼の心のやみを象徴しています。しるしを見て信じた彼はもう一歩踏み出す必要があるのです。イエスは「人は上から(アノーテン)、つまり神によって(1:13)生まれなければ神の国を見ることはできない」と言って助け船を出すのですが、ニコデモが初めから(アノーテンにはその意味もある)人生をやり直せと言われたと勘違いし、年寄りが母の胎に入り直すことはできませんよと言うので、霊から生まれることが必要なのだともう一度説き聞かせるのですが、ニコデモは理解できません。イスラエルの教師にしてこれがわからず、新生という地上の経験を語っても信じないなら、天上のことを話したところでどうして信じるでしょう。
 しかし、天上のことを語らないわけにはいきません。新生という経験の背後にある真の意味を説き明かせるのは「人の子」イエスただひとりだからです。モーセが掲げた青銅のへびを見上げてイスラエルの人々が命を得た(民21:9)ように、イエスも十字架に上げられて人々に永遠の命を得させなければなりません。そのために独り子を世に与えるところに神の愛があります。それは世を裁くためではなく救うためですが、結果として裁きも生じないわけにはいかないと記者は言います。み子を前にして信じない者は、やみの中に住まう結果となるのです。知っていることを語り、見たことをあかししては拒絶される経験の繰り返しがそう言わせるのでしょう。これが最終判決だと言っているわけでもないでしょうが、ともかくも光に対する態度によって人の生は明るくも暗くもなります。
 人は自分で自分を救うことはできません。だから神は救い主を送ってくださいました。しかし、有無を言わさず天国に引きずり込むおつもりはなく、救い主が差し伸べられる手を捕らえるか否かは、依然としてひとりひとりに任されていると記者は考えているようです。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


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