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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The
Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-10-13 00:17:52 (6 ヒット)
週報巻頭言

わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし成長させてくださった のは神です。ですから、大切なのは、植えるものでも水を注ぐ者で もなく、成長させてくださる神です。 (第一コリント 3 章 6-7 節)
植物を育てる時、たとえば土、水、光、肥料など、成長のための環境や要件はいろい ろありますが、それらすべてを豊かに受けとめながら成長していく力は、いのちそのも のの中に見えない力として託されています。そこに神さまの成長させる力があります。 草花や木の話だけでなく、人間の成長もそうです。飲ませた食わせた、着せた行かせ た、やらせた習わせた、そういう人間の業が人を育てているのではなく、成長させてく ださる見えない力によって成長します。そして教会というものもまた一つの「からだ」 ですから、何をやってみた、このプログラムをした、こんなテキスト使った、あんな研 修会をした、そういう「企画」で成長しているのでなくて、このひとつの「からだ」の 中に注がれている神さまの成長させる力が「教会」を育てます。 人間は、どうしても「余白」を埋めたくなります。見えるもの、わかりやすいプログ ラムで全部を埋めてしまいたくなるのです。成長させてくださる力、その本人の中に、 そして余白の中に込められている成長の力、見えない力を忘れてしまうと、すべて人間 の業で埋め尽くしてしまいたくなり、それが原因で疲れて倒れたり、窒息したりしてし まうことになります。 私たちが、一日のうちで何度か、目を閉じ、手を組んで、お祈りをするのは、自分の 業を中断して余白をつくるためです。自分の目で見ているもの、自分で確かめていると 思っているものから離れる。自分の手、何かを為すその手の動きを一度止める。そして 余地・余白をつくる。神さまの言葉が響く余地、神さまのお働きが働いてくださること を待ち、またそれを受けとめようとする余地、余白をつくる。「祈りの型」がそこにあり かた ます。これは「人生の構え」とも言えるでしょう。 かま 教会というひとつのからだも、成長するためには、余地・余白が必要なのです。教会 を成長させるために、すべき目配り、気配り、手配りは大切です。でもそれら私たち人 間の業が、神さまの備える成長の力以上に力があると勘違いしてはいけないのです。言 い換えるなら、見えない神さまの力、成長させてくださる神さまの力を忘れてしまうほ ど一生懸命に労苦しても、その労苦が教会を育てはしないのです。 吉 叶


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-10-06 18:13:10 (5 ヒット)
週報巻頭言

二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分 の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。 (マルコ 11 章 7 節)
主イエスは子ろばを求められます。それが自分にふさわしいからです。それが自分の 道にふさわしいからです。そしてその姿が、やがて自分の道に従ってくる人々にふさわ しいからです。小さなろばに乗って進む。高いところから、勇ましいところから、麗し いところから手を差し出すのでなく、また美しく凛々しい姿で、速さと強さで人を魅了 しようとするのでなく、低く優しく届こう、と、それがろばの子に乗る意味です。「あな たと居たい。あなたに仕えたい。できればあなたと一緒に働きたい。私は、あなたの道 に来たのです。」主イエスはろばの子の背中にまたがって、私たちに近づいてきます。 自分にふさわしい乗り物に子ろばを選ぶなんて、そんな王がいましたか。エジプトの ファラオ、バビロニアのネブカドネザル、ペルシャのキュロス、マケドニアのアレキサ ンダー、そしてローマのアウグゥストゥス。地中海世界を制覇しようとした名だたる王 たちのいったい誰が、ろばの子にまたがったでしょうか。そして誰が、人間にとって本 当の意味での救いや慰めを運んだでしょうか。 彼らが最高の軍馬の上から指揮したものは争いと略奪、隷属と支配でした。しかし、 主イエスが子ろばの背に乗って届けたのは、人生の憂いに共感する愛と、罪の赦し、神 と人とが結ばれ直す和解でした。この世の王たちは馬の上から恐怖を振りまき、主イエ スはろばに乗って柔和を届けます。 アジア・ヨーロッパ・アフリカをつなぐ地域に位置するがゆえに、常に大国の狭間で 翻弄されてきたイスラエル。ダビデとソロモンの一時代に栄華を誇ったものの、瞬く間 に没落し、都市の陥落と捕囚の憂き目に合い、興亡を続ける大国の属国・植民地とされ 続けてきたユダヤ。その疲れ果てた歴史に向かって預言者(ゼカリヤ)は新しい王の姿 を明確に語ります。 「彼は神に従い--高ぶることなく、ろばに乗ってくる。エフライムから戦車を、エルサレ ムから軍馬を絶つ。断つ。闘いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。」ゼカ 9:9-10 主イエスこそが、この子ろばに乗った王こそが、お迎えすべき方です。21 世紀という いまの時代にも、お迎えすべき真の王はこの方なのです。 吉 叶


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-09-29 18:23:35 (10 ヒット)
週報巻頭言

近所の婦人たちは、ナオミに子供が生まれたと言って、その子に 名前を付け、その子をオベドと名付けた。オベドはエッサイの父、 エッサイはダビデの父である。 (ルツ記 4 章 17 節)
最近読んだカロリン・エムケさんの『「憎しみに抗って」−不純なものへの賛歌−』か ら下記の一節を引用させていただきます。 「ファナティスト(熱狂主義者)の教条主義が依存しているものがあるとすれば、それ は一義性だ。ファナティストは『均一』の民衆、 『真の』宗教、 『根源的』伝統、 『自然な』 家族、『適切な』文化といった純粋な教義を必要とする。異議も多様性も矛盾も認めない パスワードとコードを必要とする。 −中略− 均一で純粋な国家は、まず初めに『異 質』『敵』『虚偽』と断罪されるものを排斥してからでなければ成り立たず、したがって 決して安定をもたらすものではない。本質主義的な意味で使われる『共同体』という概 念は、安全も安定ももたらしはしない。」 カロリン・エムケさんは、こう語ったあとに、「だからこそ不純で多彩なものを支持す ることが大切であり、また社会(集団)にとっては、本質主義的要素、つまり均一で「純 粋」な要素が少なくなればなるほど、他者と同じでなければならないという強制も弱ま り、むしろ安心し、安定する」という主旨のことを書いています。他者の多様性を尊重 することは、その人の個ばかりでなく、自分自身の個も守られるからだと言うのです。 さて、ダビデの系図とかイエスの系図、というと何かしら純粋性とか正当性を立証し ようとしているように考えがちですが、ルツ記の物語そのものが、そしてそれを包括し たマタイ 1 章のイエスの系図そのものが、決して純粋や正統を証明しようとしているも のではなく、むしろ歴史がたどったそれぞれの時代の中で「不純」とか「不義」「不浄」 と烙印を押された人々との交わりや繋がりを、隠すことなく記しているものであること がわかります。そのように、聖書が光を当てる「人の繋がりの歴史」から、私たちは「宣 教」のダイナミズムを学ばねばなりません。教会とて、自らを「純粋にしよう」「正しく あろう」とすればするほど、実は不安定になります。むしろ、異質なもの、不純なもの、 駄目なものを抱えた個と出会い、つながり、多元的、複数的に生きることに自らを開く とき、実は自分も安心でき、安定性と持続性のある交わりをつくりあげていくことがで きるのであって、教会の「活路」はそこにあるのではないか、と感じるのです。吉盂


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-09-22 20:08:09 (24 ヒット)
週報巻頭言

主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻 に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。 (創世記 2 章 7 節)
神ヤハウェがこの世界を創造したとき、その最後に人間をお造りになりました。それ は神の天地創造の決定的な喜びでした。神の息を受けるもの、神の想いを受けとめ、神 に向かい合って生きる存在を世界に据えたのです。また、人が独りで神と向かい合うだ けではなく、神と人が息を交わすように、人と人とが息を交わし合い共に向かい合って 生きていくようにと、骨と骨・肉と肉を分けあう他者として、人格を異にするパートナ ーを造られたのです。この「異なる者が向かい合って生きる」という「かたち」こそが 「神のかたち」「神の似姿」でした。 にすがた 人間は神から自由と使命を託されました。「園のすべての木から取って食べなさい。」 人間に生きる糧を、それもどの木から取って食べても良いという自由をお与えになりま した。と同時に、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。すべての生き物を支配せ よ(豊かに保て)」という使命を与えられたのでした。望外の祝福、望外の幸せです。神 と人が向かい合い、人と人とが共に生き、そして神さまのお造りになった世界を「祝福 の世界」として満喫し、喜び、賛美して生きる。この調和と豊かな依存と賛美の世界が、 「エデンの園」に言い表される神の祝福の世界なのです。ただし、神さまは、「許可」と 「使命」に合わせて、人間に明確な「戒め」と「禁止」を備えられました。それが、園 の真ん中の二本の木、すなわち<命の木>と<善悪を知る木>の実からは取って食べて はならないという戒め(禁止)でした。なぜでしょうか? どういうことでしょうか? それは、命を生み出すこと・命を与えることと、善と悪の判断をすること、このこと は神の業・神の領域であって、人間がそれを自分の手に握ろうとしてはならないし、そ れはできないという、はっきりとした(人間の)限界設定なのだと思います。 しかし、人間はこの善悪を知る木の実を取って食べるのです。それは、人間自身が神 のようになろうとした、という出来事です。神の似姿(創り主をおぼえて生きる、その にすがた ような神にかたどってつくられた)としてつくられた人間が、 「神のようになろうとした」 のです。そしてそのことによって、人間は、自分が真ん中になったと思ったとたん、実 に創り主を失い、まさに真ん中から離れ、エデンを追われていくのです。 吉 叶


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-09-15 18:09:51 (38 ヒット)
週報巻頭言

確かに塩は良いものだ。だが、塩も塩気がなくなれば、その塩は何によっ て味が付けられようか。畑にも肥料にも、役立たず、外に投げ捨てられる だけだ。聞く耳のある者は聞きなさい。 (ルカ14:34-35) 東日本大震災から8年6か月。復興支援の歩みの中で、また教会形成の歩みの中で、私 は、聖書の言葉が新しい命をもって心に響いてくる経験をしてきました。その聖書の言 葉の一つが、今回の礼拝で分かち合わせていただく、ルカによる福音書14章34-35節の 言葉です。 この塩の話は他の福音書にも記録されていますが、ルカによる福音書の塩の話は、他 の福音書と少し違う書き方になっています。ルカでは、塩の話は非常にシンプルになっ ていて、さらに「聞く耳のある者は聞きなさい」というイエスさまの問いかけで終わっ ています。イエスさまは、「何を聞きなさい」と言っているのでしょうか。震災を通し て、私は、このルカの塩の話は、「役に立たないものとして投げ捨てられた塩の叫び」 がテーマとなっているのではないかと考えるようになりました。投げ捨てられた塩の 叫びを、私たちは聞かなければならないのです。 確かに塩は良いものです。味を付けることができ、食品の腐敗を防ぐこともできる。 人間になくてはならない栄養素の一つでもあります。今も昔も大事にされ重宝されて きた塩。しかし、いざその塩から「塩気」が取り去られてしまったら、「役に立たない もの」と見做され捨てられてしまう、この落差。私たちは通常、塩の「存在」自体を尊 んでいるわけではなく、「塩気」という「能力」を尊んでいるだけであり、もしその塩 から「塩気」という「能力」がなくなってしまったら、人々はその塩に何の価値も見出 せずに、「もういらない」と平気で外に投げ捨ててしまう。この悲しみと問題性をイエ スさまは示し、私たちに問いかけているのではないでしょうか。 「人や社会の役に立ちたい」と願うことは大変尊いことですし、素晴らしいことで す。しかし同時に心に留めておきたいことは、「役に立つこと」を何よりも優先する価 値観に生きると、「役に立たない」と見做された他者の命を軽んじ、時には自分の命を も軽んじてしまうことがあるということです。人間の価値は、人の役に立つとか社会の 役に立つとかで決定されるものではありません。塩から、たとえ塩気がなくなったとし ても、私たちの神はその存在自体を深く愛しておられます。人々が取るに足らないと見 做すものや人々が投げ捨てるものを、神は拾い給う!その希望と慰め、そしてチャレン ジを受けてこの世を歩み直したいと願います。 仙台長命ヶ丘教会牧師 金丸 真


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