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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The
Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-10-14 20:58:36 (11 ヒット)
週報巻頭言

今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである。(ヨハネの黙示録14:13)

世の中に幸福論はいくらでもありますし、「幸い」「幸福」のイメージも千差万別です。でも、ほとんどはいわゆる人生論であって、幸いな生き方や、生きているときに味わう幸福感のことを取り扱っていると思うのです。しかし、今日お読みした黙示録の言葉は、とても驚くべき事に、「死」と「幸い」とを結びつけて捉えています。
 この短いフレーズを繰り返し復唱していますと、不思議な味わいに包まれるのです。「死」を厳しい事実としながらも、「死」の空しさを粉砕しているように思えます。「死」を、「幸い」という視点からおおらかに包んでいるように感じます。でもそのために、すなわち、死すべき私たちが、「命」と結ばれるために、キリストはいつもわれわれの傍らで、われわれを招き続けておられます。たとい、われわれがそれに気づかなくても。
 イエスと一緒に十字架につけられた犯罪人たち。二人の内、一人は最後まで毒づき、もう一人はそれをたしなめ、イエスに心を開きます。一見、「それまでどんなに悪さをしてきたとしても、ぎりぎりのところで悔い改めれば、救われる」というように取りがちな話ですが、そうではないと思います。「救い」とは、人間の態度で、いとも簡単に引き寄せてしまえるようなものではないと思うからです。「素直な犯罪人は救われて、最後まで毒づいたもう一人の方は救われなかった」なんてどこにも書いていませんし、そんなことは判らないのです。いや、「救い」とは、人間の態度や状況がどうであっても、どうでなくても、主イエスがそこにおられるという、その事実にこそあるのではないでしょうか。
 最後の最後まで毒づいた犯罪人の傍らにもイエスはいたのです。毒づくしかなかったところの、荒れ果てた心のままで死んでいく、その男の横にもイエスはいて、その犯罪人の痛みと苦しみと絶望を、まさに自分自身も味わいながら、その犯罪人のためにとりなし、祈っていたという、その事実が救いなのだと思います。
                               (吉癲ヽ陝


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-10-07 21:04:50 (11 ヒット)
週報巻頭言

もしだれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。
(マタイ5:39)

イエスは、徹底的に弱者の側に立っておられました。イエスに従っていた群衆の中の多くは、貧しくてその日の食べ物にも事欠くような人たち、罪びととされていた人たちだったのでしょう。差別されていた人たちだったでしょう。中には悪い者呼ばわりされ排除されていた人たちもいたのではないでしょうか。イエスはそのような人たちと共にいました。そのような人たちを励まし、「神の国はあなたがたのものだ」と語りかけていたのです。
イエスが厳しく糾弾したのは、貧しい人々を虫けらのように軽蔑していた、社会的に力のある権力者や金持ちであって、彼らこそ悪人なのだとさえ言っています。イエスは常に弱い立場の人の側に立ち、弱い者を苦しめる者こそ悪者と呼ばれるべきだとしています。人々はそんなイエスの姿に慰められ、励まされたのでしょう。神の国の希望を与えられたのでしょう。
「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、1ミリオン行くように強いるなら、一緒に2ミリオン行きなさい」という言葉も、右の頬を打たれる人、下着を取られる人、1ミリオン行かせられる人を励ます言葉として語られたのではないでしょうか。右の頬を打たれても、下着を取られても、問答無用で1ミリオン行かせられても、手向かうことなど到底できない、じっと耐えるしかない人々に、「それならいっそのこと左の頬も向けてやったらどうだ。上着も持っていけと言ったらどうだ。1ミリオンではなく2ミリオン行こうと言ってやったらどうだ。悪人たちはきっと驚くことだろう」と。
この言葉が励ましの言葉として語られたのであれば、「右の頬を打たれた時には左の頬も向けなければならない」という意味にはなりません。確かにイエスは、相手が悪者であったとしても実力行使は認めていません。しかしこの言葉には、実力行使にはない気迫が込められています。
                               (関 玖仁男)


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-09-30 05:56:13 (28 ヒット)
週報巻頭言

しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。
(ルカ22:32)

最近読んで感銘を受けた本の一つに、深井智朗氏の「伝道」があります。非常に読みやすい本ですので、ぜひ皆さんもお読みになることをお勧めします。その中で深井氏が紹介しているのが、ドイツ人牧師パウル・ゲーレのこの言葉です。「むしろ、すべては挫折からはじまったのではなかったか。」
「伝道」というと、私たちはどんな方法で、どうやったら多くの人が教会に来てバプテスマを受けるかということをまず思い浮かべます。そしてそのためには、どのような「企画・方策・技術」(そして予算)が必要か、また他の教会の成功の実例がないかと考えます。これらの事柄はもちろん大事です。しかし、それよりももっと大事なこと、すなわち聖書がありのままに語っている「伝道」の根本について、私たちは気づかずにいるのではないでしょうか。教会史の専門家である深井氏は言います。「伝道の歴史を見るなら、挫折からすべてははじまったのです。そこから立ち上がることからはじまったのです。その力は私たちの努力や分析や企画力ではありません。真のキリストとの出会いです。」(同書p.22)
 ペトロはガリラヤの一介の漁師であった時、イエスさまに声をかけられ従う者とされました。以来、彼は持ち前の積極的で情熱的な性格のままに、どんな時でも主と行動を共にしてきました。イエスさまが「あなたがたは皆わたしにつまずく」と言われた時、ペトロはすぐさま否定しました。「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません。」(マタイ26:33)彼自身にとっては偽りのない言葉だったでしょう。ところがイエスさまは言われました。「あなたはわたしにつまずく」「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」と。
ペトロは確かにつまずきました。窮地に置かれたからとは言いながら、自ら三度もイエスさまを知らないと言ってしまったのです。彼は激しく泣きました(ルカ22:54−62)。しかし、その挫折からペトロの再生がはじまりました。復活の主との出会い、新しい人生のはじまりです。 「伝道」のはじまりです。                      (坂元 幸子)


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-09-23 12:32:58 (27 ヒット)
週報巻頭言

信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐している。(第一テサロニケ1:3)

 パウロの伝道人生は苦難の連続でした。彼の伝道旅行は興行ではありませんでしたから、どこへ行っても喜ばれるというものではありませんでした。圧倒的な拒否と排斥と追いだしの攻撃の中で町から町、州から州、国から国を渡っていきました。それでも、その伝道の働きを通して知り合い、信じ合い、結びつき合ったわずかな人々との交わりを心の支えにして彼は進み続けました。
 「彼らは元気だろうか」と案じ、祈り、声をかける。「先生、元気です」と応えが返ってくる。キリストによって生きている事実の「こだま」が、パウロの喜びの全てだったのだと思います。世界的な視野で行動し、物を見ていたパウロでしたが、彼の喜びの中心はただ「一つの教会の元気」にありました。一つの教会の「元気です」が、世界伝道の意気込みと夢を支えたのです。
 テサロニケの教会に手紙を書きながら、パウロが思い起こしていることは、「あなたたちは優しかった」とか「テサロニケでは楽しかった」とかではありません。彼の言葉が言う通り、「あなた方の『信仰の働き』と『愛の労苦』とイエス・キリストに対する『希望の忍耐』」のことなのです。そして、ここには「信仰」「希望」「愛」という、皆さまもよくご存じの宝石のように美しいパウロのあの言葉が登場するのです。
 私たちは、この「信仰と希望と愛」を、キリスト教信仰の核心のようにして聞いたり語ったりしております。そしてその言葉は、あまりにも麗しい。しかし、パウロは美しく素晴らしい装飾の言葉のように、詩的・文学的表現として「信仰と希望と愛」を語っているのではありません。彼は、自分の人生とテサロニケ教会の人々の足下にあった現実の中で「信仰・希望・愛」を見つめ、「信仰とは働きだ」と、「愛とは労苦だ」と、「希望とは忍耐だ」と語っていくのです。                吉高叶

 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-09-17 19:30:55 (20 ヒット)
週報巻頭言

「土の器に納められた宝」
(コリントの信徒への手紙二 4章7節、16〜18節)

ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。(2コリント4:7)

 今日は、敬老感謝を覚える礼拝です。人生に必ず訪れる老いをどう生きるのか、という問いは、すべての人にとって非常に大切なテーマです。敬老の日とは、国民の祝日に関する法律によれば、「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う。」とありますが、今日、私たちは長年にわたり社会に、そして、教会に尽くしてこられた75歳以上の方々の労をねぎらい、感謝し、長寿を祝うことを通して、私たちの主である神に心から感謝と讃美をささげたいと思います。
 
パウロは、自分の体を土の器に喩えています。土の器というのは、壊れやすく、不完全です。大変もろいものです。普通なら、そんな器に宝を納めるようなことはしません。私たちの体も歳を重ねることで、衰えを感じ、様々な病を患い、様々な能力を失っていきます。そういう意味で、私たちの体はパウロが言う土の器のようなものです。しかし、神様は、そんな土の器のような、もろく、壊れやすい、不完全な人間を通して、この世界に福音を語りかけておられるのです。並外れた偉大な力、すなわち、神の力、神の御心、神の言葉、福音が、私たち一人一人の中に納められているというのです。なんと大きい、深い憐れみでしょうか!
 神様は、私たちの不完全さや弱さを仕方なく、補ってくださるというのではなく、私たちの弱さ、愚かさ、ありのままの私たちをこそ、良しとされ、必要とされ、豊かに用いようとしておられるのです。
 老いを生きるということは、嘆くことではなく、さらに主から与えられる恵みと祝福への感謝に生きるということです。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」
(イザヤ書43:4 新改訳)

(松 準)


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