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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The
Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2021-01-17 13:27:56 (8 ヒット)
週報巻頭言

 本日は、新成人の方々の成長をご一緒に喜び、主に感謝し、一人一人が人生を歩むことに祝福を送る、そのような時を過ごしています。
 聖書は、人間が自分自身の一生を歩む上で大切にしなければならないこと、忘れて欲しくないことについて、体当たりで記してくれている書物です。こんなに分厚い書物ですが、聖書が私たちの人生に向けて語りかけていることの柱はそんなにたくさんのことではないと思います。
 それは、あなたという命、あなたという存在は望まれて生きているのだ、あなたという命は望まれてつくられた。願われて命となったのだということです。あなたは神さまの御心の命なのだということです。神さまの創造があなたの人生の出発点です。
 二番目のことは、そんなあなたなのだから、あなたの命、あなたの人生をだいなしにしてしまう悪い力から解き放たれて生きて欲しいということ。あなたを捕らえて不自由にしたり、あなたの尊厳を傷つけてしまうような力から解放されるように、神さまは道を教えてくださろうとしています。聖書には、神の義という言葉がたくさん出てきますけれど、義というと良いこと・良い人、という風になるんですが、神の義とは「人間をだいなしにしていまう縛りの力から解き放たれようとする歩み方」のことなんです。それは古い時代には律法というかたちで示されたり、預言者の言葉によって示されり、イエスさまの言葉によって教えられたりしています。その全てが、あなたという存在が何か悪い力に縛られたり捕らえられたりして、失われてしまわないようにという神さまの思いから来ています。
 そして、もう一つのことは、あなたは愛されて生きるのだ。あなたは赦されて生きるのだ。人は誰もが愛されなければ生きていけないし、人はどうしても赦されなければ生きていけないのだ。この愛と赦しという祝福を知らないと、人は生きていくことが苦しくなるし、安らかに死んでいくこともまたできないのだということです。あなたを愛し、あなたの人生がどこでどうなって、どうであったとしても、あなたを赦し受けとめてくださる神の愛は、イエス・キリストという方によってはっきりと示されていますよ、と。
 聖書の核心といっても良いことは、この三つのことです。そして、人生の大切な節目、成人式を迎える、その時にご一緒に憶えたいことは、他の何ものでも無く、この三つのことです。
 今から、人生を展望し、自分らしい生き方を選び取って行かれると思います。でも、イエスさまがおっしゃっています。「もし人が全世界を儲けても、自分の命を失ったら何になるか」と。あなたが、どんなに立派に生きていても、どんなに財産を蓄えることができたとしても、創られた存在であるということ、愛されている自分であること、そして赦されていく人生である、このことを忘れたならば、苦しみに呑み込まれてしまいますよ、自分の命を失ってしまいますからね、ということです。
 
 律法(旧約聖書の戒め)には、たくさんの言葉が確かにあります。ヘブル文字は、画ばった文字です。たくさんの点があり画があります。それを一点一画誤り無く記録し、写し取っていきます。律法を学ぶ学生・学者は、この一点一画を見落とさないよう、書き落とさないように必死に写本し、必死に暗記し、がんばって勉強します。自分が勉強している学びに不足はないか。自分にはどこか落ち度がないか。そのように必死になります。すると他人の落ち度が目につき、気になります。そのうち、相手の間違いを指さして、重箱の隅をつつくようにして、無益な非難に明け暮れるようになります。命がだいなしにならないために、解放のために歩む道として神さまが与えてくださった律法に、逆に縛られて、相手を縛って、存在をだいなしにし合ってしまいます。それが、イエスさまが生きていた時代の律法主義の苦しみでした。律法主義が与えていた苦しみは、学ぶ人たちにとっても、学ぶことができない人たちにとっても、実はとても辛い苦しみになっていたのです。

 ところで、今日の箇所を読むと、イエスさまご自身が、神さまが与えられた律法という戒めをとても大切にしていることがわかります。きっと、その頃、イエスさまがなさることがあまりにも斬新すぎて、それまでの常識から離れすぎているので、律法学者たちやユダヤ教の先生たちから「あいつは、律法やぶりだ」「ナザレのイエスの語る言葉は、まるで律法など無効だといっているような不届き者だ」と、いつも悪口をぶつけられていたのです。その噂・そんな悪い評判がどんどん伝わって行ってましたし、どこの町でも、そんなイエスさまを懲らしめてやろうとする人たちが待ち構えていました。
 他方では、日ごろから、貧しくて、忙しくて、生きるためのいろんな事情があって、律法どおりの生活ができなくて罪人とばかにされ、侮辱されていたたくさんの人たちは、イエスさまの評判を聞いて、律法なんかよりももっとすごい徴を見せてくれる人がいるらしい、自分たちを縛り付ける律法を壊してくれるんじゃないだろうか、そんな期待をもってどこの町にいってもたくさんの人々がイエスさまのところに集まってきました。
 そんな人たちに対して、イエスさまは、両方の立場の人たちが驚いてしまうようにおっしゃったのが今日の言葉です。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」
 その時、イエスさまの目は、神さまが、そもそも最も愛されたもの、何のためにこの世界をつくり、命をつくり、人の誕生を望み、何のために戒めを授けたか。神さまが最も大切にされたものに目を向けているのです。律法の一点一画が落ちていてはならないほどのものとして、神さまが大切になさっているものは何か。そうです、それは、あなたのいのちです。イエスさまの目の前にいる、貧しいかもしれない、欠けだらけかもしれない、でもその人のいのちです。間違いだらけかもしれないあなたです。生きていることに喜びを感じることができなくなっているかもしれないあなたです。罪と弱さからどうしても離れることのできないあなたです。つまりわたしです。つまりこのわたしです。完成されなければならないもの。一点一画をさえ欠いてしまってはならないほどに、神さまから大切にされ、神さまが慈しんでおられるのはこの「わたし」という命なのです。
 律法の一点一画とは「わたしのこと」であり、わたしへの神のみこころのこと。全く、欠けてしまうことなく、失われてしまうことなく、神はわたしの祝福と救いを完成してくださろうとしています。

 わたしの人生には、愛されることと、赦されることがどうしても必要です。それがなければ生きていくことができません。どこかでとぎれてしまうでしょう。
 自分で自分の人生を完成させたいと、どう積み上げていっても、どう整えていっても、どこかの点が消えてしまう。どこかの画が崩れてしまう。どこか歪んでしまう。それが現実です。一点一画どころか、いくつもの点や画が崩れてしまっている。もし自分で自分を完成させなければならないなら、そうしなければ自分の人生が祝福されないならもう無理です。
 けれども、わたしが「生きていける」のは、わたしという存在がそれでも祝福されていると感じることができるのは、この欠けたままのわたしを愛するまなざしを知るからです。わたしが「生きていける」のは、この崩れたわたしを赦してくださる赦しを知るからです。イエス・キリストの十字架という神の赦しの印が与えられているからです。イエスさまのの伴いと祈りをいただきながら、神さまに受け入れられ赦されていく。そのようにして、わたしは、創造されたいのちとしての完成、祝福されはじまり、祝福されて神さまの元に帰っていく人生が完成されていきます。わたしが、完成させるのでなく、イエスさまの十字架がわたしの人生を完成させてくれるのです。キリストの十字架は、わたしの人生の一部なのです。イエスさまが、一点一画も落ちてはならない大切なわたしの命の一部なのです。これがインマヌエルということなのです。

 今日は巻頭言に、アインシュタインが娘リーゼルに宛てて書いた手紙を抜粋して転載しました。20世紀の天才と言われた物理学者です。電子や分子にかかわること、宇宙にまつわること、生命の存在について、この世界の成り立ちの根幹にかかわることについて理解していくためのとても大切な理論を発表して、物理学や哲学にものすごい影響を与えた人です。科学全般の新しい基礎を提供した人ですし、同時に、それゆえに人間の科学の暴走の端緒をつくった人物だと言えるかもしれません。それはその後の人間の責任ですけれども。そんな現代の物理学、諸科学の巨人とも言えるアインシュタインは、晩年は、戦争の根絶と核兵器の廃絶を求める運動に力を注ぎました。そして彼が残した言葉、それが、人間とこの世界にとって、最大の、最強の原理、力があるとするならば、それは愛だ、と宣言しています。
「人が全世界を設けても、もし自分の命を失ったら何になろうか。」命を保つもの、それこそが愛です。この世界という命が、神さまのお望みによって創られ、神さまの御心に締めくくられて行かねばならない、この世界という存在の一点一画も落ちてはならないという時の、その一点一画をつなぎとめ、保とうとするものが、イエス・キリストによって示された神の愛、神の赦しであることを、私たちの世界観としていきたいと思います。
 成人を迎えられるみなさん、みなさんの命は決して失われてはならない貴いもの。そしてあなたの人生は一点一画抜け落ちてよいようなものはない素晴らしいものです。それを、守り、それを支え、それを完成させてくださるのは神の愛、イエス・キリストの恵みであることを心にとめて歩んでください。

 巻頭言に代えて 『アインシュタインが娘のリーゼルに宛てた手紙』より抜粋
          (死後20年間公開しないという指示を添えてヘブライ大学に寄付)
愛しいリーゼル
 私が相対性理論を提案したとき、ごく少数の者しか私を理解しなかったが、私が人類に伝えるために、今明かそうとしているものも世界中の誤解と偏見にぶつかるだろう。必要に応じて何年でも何十年でも、私が下に説明することを社会が受け容れられるほど進歩するまで、お前にこの手紙を守ってもらいたい。現段階では科学がその正式な説明を発見していないある極めて強力な力がある。それは他のすべてを含みかつ支配する力であり、宇宙で作用しているどんな現象の背後にも存在し、しかも私たちによってまだ特定されていない。この宇宙的な力は、愛だ。
 科学者が宇宙の統一理論を予期したとき、彼らはこの最も強力な見知らぬ力を忘れた。愛は光だ。それは愛を与えかつ受け取る者を啓発する。愛は引力だ。なぜならある人々が別の人々に惹きつけられるようにするからだ。愛は力だ。なぜならそれは私たちが持つ最善のものを増殖させ、人類が盲目の身勝手さのなかで絶滅するのを許さないからだ。
 愛は展開し、開示する。愛のために私たちは生き、また死ぬ。愛は神であり、神は愛だ。この力はあらゆるものを説明し生命に意味を与える。これこそが私たちがあまりにも長く無視してきた変数だ。それは恐らく、愛こそが人間が意志で駆動することを学んでいない宇宙の中の唯一のエネルギーであるため、私たちが愛を恐れているからだろう。
―中略― もし私たちが自分たちの種の存続を望むなら、もし私たちが生命の意味を発見するつもりなら、もし私たちがこの世界とそこに居住するすべての知覚存在を救いたいのなら、愛こそが唯一のその答えだ。恐らく私たちにはまだこの惑星を荒廃させる憎しみと身勝手さと貪欲を完全に破壊できる強力な装置、愛の爆弾を作る準備はできていない。しかし、それぞれの個人は自分のなかに小さなしかし強力な愛の発電機をもっており、そのエネルギーは解放されるのを待っている。私たちがこの宇宙的エネルギーを与え、かつ受け取ることを学ぶとき、愛しいリーゼル私たちは愛がすべてに打ち勝ち、愛には何もかもすべてを超越する能力があることを確信しているだろう。なぜなら愛こそが生命の神髄だからだ。                   お前の父親 アルベルト・アインシュタイン

私たちも、共々に、愛と赦しによって、我が人生を完成してくださるキリストに、自分自身を明け渡したいと思います。そして、キリストに愛された者としてしか生きられない歩み、キリストに赦された者としてしか生きられない生き方へと、共に進み出ていく決意をしたいと思います。


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2021-01-10 17:37:18 (12 ヒット)
週報巻頭言

更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々と
その繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これを
みんな与えよう」と言った。(マタイ4:8-9)
この物語の場面の登場人物は、(神の)霊、イエス、悪魔(誘惑する者)です。低い場
所にある川でバプテスマを受けたイエスを、神の霊が導きあげて、ユダの高地である荒
れ野へ連れてきます。マタイによる福音書は、この場面の最初から「神の霊がイエスを
導いている」と描いています。またここでの経験が、イエスがバプテスマのヨハネのと
ころから離れて、独自の活動を行うことになったきっかけであることも示唆しています。
悪魔はヘブライ語で「サタン」で「告発者・敵対者」という意味です。ここで悪魔は、
イエスが「義なる人」であるかどうかを試すのです。
悪魔がイエスを3 つのことによって試します。「石をパンに変えてみなさい」「ここか
ら飛び降りてみなさい」「わたしを拝むなら全世界を支配する権威をあなたに与えましょ
う」。この「3 つの試し」です。
この物語を伝えた人たち(口伝えで伝えた語り部、福音書に編集したマタイたち)や
最初に読んだ人たちは、ローマ皇帝カリグラの支配にあえいでいました。カリグラの治
世は短かった(後37-41 年)ですが、その中で、自分を神とすること、つまり自己神格
化を強化するために「ひれ伏して拝む」ことを導入しました。これはそれまでは導入さ
れてこなかった儀礼でした。このことは自由であることを重んじるローマの人々にとっ
ても屈辱的なことでしたが、ユダヤの人々にとってはさらにできないことでした。「ひれ
伏して拝む」ことをするのは神に対してのみ。人間である皇帝をこのような形で拝むこ
とは「神ならぬものを神とする」偶像礼拝であるのでどうしてもしたくない、してはな
らないことでした。つまり、この物語を伝えた人たちもまた、「3 つの試し」にさらされ
ていたのです。イエスがそうであったように。
そして、この「3 つの試し」は、わたしたちの周りにいつも、絶えず、たくさん、形
を変えて存在しています。みなさんは、この「3 つの試し」について、どうお考えにな
るでしょうか。どのようにお応えになるでしょうか。また、わたしたちは今、「荒れ野」
にいるように感じられます。その「荒れ野」で、わたしたちはどのように誰と生きてい
きましょうか。そしてそれはいったい何のためでしょうか。そのことを共に問われ、見
つめながら、2021 年を歩んでいければと願います。【臼井一美】


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2021-01-03 12:48:18 (25 ヒット)
週報巻頭言

新年、明けましておめでとうございます。皆さまの上に、主の導きとお守りをお祈りいたします。
 昨年は、悩みと戸惑いに人間が包まれてしまいました。教会も大いに悩み、迷いました。礼拝する共同体としての教会ですから、なるべく出ない、会わない、集まらない、しゃべらない、歌わないようにという状況の中で、たいへんジレンマを強いられました。「不要不急」とは何を指すのか。経済を回すことに繋がる事ならば仕方が無いけれど、それ以外のために集まるのは逆に良くないことのように後ろ指をさされる風潮の中で、礼拝することは、自分にとって何であるのか。世にある教会として、それは何であるべきなのか。世にあるという事の「世との繋がり」の大事さと、世にあって神の国を指し示すという「神との繋がり」の証しの大事さに挟まれるような感じがし、自問自答しながら過ごしました。
 一人ひとりの選び取りを大切にすること。選び取りの背後に一人一人の関係や社会的責任や生活の事情があることを丁寧に認め合うこと、そして礼拝堂で礼拝を捧げるメンバーとそれを控えているメンバーが、決して分断されてはならないこと。そのためにできることは何か。執事会も、繰り返し話し合いました。礼拝する共同体、またたとい時代がどうであっても、状況がどうであっても、神を共に礼拝することにその本質を持つ教会の存在性を保持することから離れないで、「いっそ集まることを休止してしまう」という選択に飛んでいかずに、しぶとく生きてみようとしました。
 難しいからしない、ではなく、難しいからどうやるか、難しいからどれをあきらめ、どれを選ぶか。そんな選択の一年でありました。
 これまでの全部を止めてしまう。それは、逆に考えるとこれまでの全部をそのまま絶対化してしまう道かも知れません。いつか戻らねばならないのは、あの頃のあの全部だ、と。しかし、何かを諦めながら、何かを残しながら歩んだ歩みには、新しいニュートラル、新しいスタートラインが生まれるのかもしれません。いろんな姿があり得る。全てが許されるようになった暁にも、以前の全てに戻る必要はない。新しい姿を組み直せばよい。私は、今回の教会の苦肉の選び取りの経験から、市川八幡教会の未来の姿をみんなで考え合っていきたいと思います。まさしくパラダイムシフト。必要があるならば、これまでの枠組みそのものを、発想そのものから転じて行く、そういうことが起こっていけばいいなぁ、と思います。新旧執事会では、まもなく新年度の計画案を立案する協議に入っていきます。柔軟な発想で対話していけますようにと皆さんも憶えてお祈りしてください。

 さて、クリスマスが終わりますと日本ではすっかりとお正月の準備に切り替わるわけですが、キリスト教の暦では、東方の博士たちが幼子イエスに巡り会ったとされる1月6日(公現節)までクリスマスのお祝いが続き、クリスマスの飾り物も飾られたままです。
 私は、以前は毎年、正月の新年礼拝が終わりますと妻と連れだって韓国のソウルに旅行に出かけましたが、事実、韓国のカトリック総本山の明洞大聖堂の広場には、ほぼ等身大の家畜小屋の模型がそのまま設置されていました。
 ヘロデのたくらみをかいくぐりながら幼子に見え、そして喜びに満たされ、新しい道を歩み始めた博士たちの出会いの物語を、こうした正月に省みることにも深い意義があると思いました。
 先週、年末にはマタイ福音書から、その東方の博士たちの記事から年末の黙想をし、本日、この新年礼拝では、イエス・キリストの宣教の始まりを記す記事を読みました。これは、まさに大ヘロデ王時代の暗黒の中に命の光を灯されたイエス・キリストが、しばらくの沈黙の時を経て、まことの光としてその輝きを公にしていく歩みの始まりであり、光が動き始めるクリスマスの第2章と言っても良いところであります。そして、それは世の闇がいっそう深く、人間に影を落としていた時に、都エルサレムからずっとはなれた辺境の地ガリラヤから始まったことを聖書は報告しています。

 ガリラヤは、歴史的にも、ほんとうに苦しみと暗闇とを引きづった地域でした。数百年前に、イスラエルが、北王国と南王国に分裂しているときには、北王国に属していましたが、アッシリアに敗れ、特にガリラヤ地方は徹底的に民衆の移住措置が取られ、ユダヤ人の追い出しと外国人の移住が行われました。ずっと後になって、ふたたびユダに併合されユダヤ教化されたのですが、そうした経緯から、「異邦人のガリラヤ」と蔑まれ続けてきた地方です。そして、そのような差別されている地方ではよくあることですが、差別されているがゆえに、その中に強烈な原理主義も生まれやすいということがあります。まっとうなユダヤ教徒と評価されないだけに、他の誰よりも熱心なユダヤ教徒として認められたいという熱狂的な人々も生まれてくるのです。そういう熱は、過激な反ローマ運動、暴力的な国粋主義運動を引き起こしもしました。いくつもの大規模、小規模の反ローマ反乱をくり返し、たとえば歴史に記されている「ガビニウス事件」と呼ばれる反乱では、一度に1万人近い人々が鎮圧されて殺されたと記録されています。当時のガリラヤの人口が15万人でしたから、ものすごい割合の人々がローマ軍に虐殺され、その怨念が立ちのぼっていた場所でもあります。その後も「セフォリスの破壊事件」として記録されている事件では、やはり反ローマの反乱によって2000人の人々が磔(はりつけ)にされて殺されたということです。ガリラヤは、そうした憎悪と武力鎮圧のくり返しによって、憎しみの連鎖が増幅していた地方です。
 他方で、ガリラヤは、「肥沃な土地」だと言われています。作物が大変よく実るのです。「荒れ地は一切無し」と言われるほどです。しかし、そうした豊かな実りの実益はほとんどが大土地所有者のものであり、独立した自営農業者はほとんど没落してしまっており、小作農民、雇われ農民、日雇い農民ばかりになっていたようです。肥沃な土地ということを耳にした多くの日雇い労働者が流入していたようで、低下層の人々があふれていたようです。
 イエス様のたとえ話に「主人と雇われ人のたとえ」が多いこと、また「あぶれた日雇い労働者のたとえ」が出てくることなどは、こうしたガリラヤの日常を反映しています。また福音書にたびたび「税金の話」が出てきたり、「イエスと徴税人との出会い」が報告されるように、民衆と税金の問題は、実際、密接にからみあっており、地租税、人頭税、売上税、通行税、市場税、漁業税、など、ありとあらゆる税金に人々は苦しみと怒りをため込んでいたようです。
 そしてそのガリラヤを統治していたのが、ヘロデ・アンティパス。父ヘロデ大王譲りの支配欲の強い人物で、ローマ権力には媚びへつらい、民から税を搾り取る暴君でした。また兄弟の妻ヘロディアを横恋慕して自分の妻にしてしまったり、自分にたてつく親族は容赦なく粛正していく凶暴な人物でありました。こうした中で、民の心もまた荒れていき、刹那的になり、空しさや怒りが人々の心に沈殿していくのでした。
 バプテスマのヨハネが立ち上がり、信仰復興運動が呼びかけていたのはそのような時でした。彼は激しい預言者でした。ヨハネは、形骸化したユダヤ教、堕落したユダヤ教徒の生き方に鉈(なた)を振るい、宗教指導者、政治指導者たちを断罪し、神のもとに立ち帰ることを呼びかけた預言者でありました。しかし、彼はヘロデの治世の過ちについても歯に衣着せずに批判を行ったため、ヘロデ王によって捕らえられ、やがては処刑(斬首刑)されてしまうのです。
 バプテスマのヨハネは、旧約時代の「救い主待望」の長い長い歩みの最後の限界点に立っていたと思います。長い苦しみ、迷いの歴史に堪えながら、ひたすら救い主を待ち望む預言者たちの群れに連なって、ヨハネは最も鋭く、最も徹底的に、神の約束に目を凝らした人です。「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、おまえたちは逃れられると、誰が教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」
 ここには、堅い信仰と裏腹に、人間の怒り、人間の焦り、人間の深い失望が込められているようにも思います。爆発点に達しているのではないか、と思われるような叫びが、真剣な人物の中から飛び出している。正しい人が苦しみ、怒らざるを得ない。しかし、そうした正しい怒りにはヘロデの暴力的な介入がおこなわれて弾圧されていく。キリスト・イエスの登場は、そのようなタイミングの中で引き起こされていったのです。
 ただし、彼が与えたのは、祝福であり、平安であり、癒しであり、赦しでありました。
 彼は、ヨハネのように荒れ野に出てくることを呼びかけたのではなく、人々の苦しむ足場に出向いていき、その足下に沈み込んで、一人一人を受けとめられたのでした。ほんとうに暗い時代、正しい人が、実直な人が苦しむ時代に、イエス・キリストは、愛と慰めと赦しを届け、神があなたと共にいる。神はあなたに近づいた。あなたはもうこれ以上、自分を傷つけてはいけない、あなたはもうこれ以上自分を失ってはならない。神の愛は近づいた、天の国は近づいた。あなたの心をあなたを愛する生ける神に向けて生きていきなさい、と呼びかけ、励ましていったのでした。

 暗闇の淵・ガリラヤから、真の光は動き始めました。神さまは誰も思い及びもしなかったところから、思い及びもしなかった人々に向けて輝いてくださるのです。
 罪はなお力を持っており、みこころに反する悪や人間を覆う暗闇・不条理は決して消え去ってはいません。しかし、この世界はすでにキリストを迎えた世界なのです。迷いの中に、不安の中に、苦悩の中に、怒りの身の中に、キリストを迎えたのです。だから、わたしたちが生きているのは救い主のいる世界なのです。イエス様がはっきりと語ってくださっている世界なのです。「神の国は近づいた」と。
 神さまは近づいてくださっています。神さまは暗闇の中にわたしたちと共にいるのです。
 教会は、「暗闇に光りが来た」「天の国は私たちに近づいている」という事実に心から揺り動かされ(この世の不安なニュースに動かされるのでなく!)、この光をしっかり見ること、この宣言をしっかりと聞くことによって立つのです。この言葉にむかって、悔い改め、すなわち方向転換(メタノイア)することによって、教会は立つのです。生ける神に向かって顔を向け、生きようとすることによって。
 もちろん、神の国・天の国が私たちに接近しているという宣言を聞いたからといって、全てがすっかり解決してしまったわけではありません。私たちを包んでいる暗さや不透明さは、今も、明日も私たちを苦しめるかもしれません。私たちはきっと明日も恐れながら生きるしかなくね明日も失敗を犯してしまうかもしれません。しかし、恐れることはないのです。主が私の目の前に生きてくださっていて、くり返し、くり返し慰めと赦しを語りかけ、彼が私と共に神の国の中を歩み給うのですから。
 だからこそ、事柄の最初に聞くべき言葉はこの言葉なのです。
「悔い改めよ。天の国は近づいた。」 年の初めにもこの言葉を聞かせていただきたいのです。
「悔い改めること」メタノイア・方向転換。
 すなわち、生ける神に向かって向き直り続けることこそが、わたしの成すべき事なのではないでしょうか。これこそが、1年の始めに私たちがなすべきことなのです。
                              


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2021-01-01 08:59:39 (19 ヒット)
週報巻頭言

 新年明けましておめでとうございます。まずは、この一年のみなさま方のご健康をお祈りしますと共に、こうした不透明な時代、先が見渡せない状態の中にあって、お一人おひとりになおも優しい気持ちと勇気とが宿されてまいりますようにお祈りします。また、この世界、この社会にキリストの平和が染みだし、染み渡りますようにと祈りたいと思います。
 新コロナウィルスの感染拡大の最中に、年末年始を跨いでしまうというこれまで経験したことのない年越しとなりました。多くの人々が、せめてお正月は集まって過ごすための帰省を断念し、別々に過ごすことを余儀なくされています。
 昨年、コロナショックによって、深刻なダメージを受けた方々がたくさんいらっしゃいました。職業にまつわるダメージ、経済上のダメージ、運営・活動に関するダメージ、将来設計・人生を打ちのめしたダメージ、愛する家族を失うなどの悲しすぎるダメージ。そして多くの人々が、そのダメージを引きずりながら、痛みながら、疲れながら、その上なおも不安を抱えて元旦を迎えています。
 新年の計を、新年の抱負を、元旦に。新しい年の朝・元旦、その元旦には一年の計、人生の計を立てる。そういう屹立とした姿、爽やかな空気感が元旦にはふさわしい、ずっとそう考えて来ましたが、いま痛みながら、不安にさいなまれながら、「いったい去年は自分に何が起こってしまったのか、と・・・その怒濤のように押し寄せた禍(コロナ禍と表現されました)、これは自然災害のように、人間の防衛、抵抗の速度をあっという間に呑み込んでしまった災害のようなものですが・・・、いったい自分に何が起こってしまったのか、そして昨年起こったことは、これからの自分にさらに何を引き起こしてしまうのか。この思いに捕らわれてしまわざるを得ない元旦となっているのではないでしょうか。
 こうした人々が痛みを抱えており、また不安のまっただ中にあるという元旦に、私たちが礼拝を捧げる以上、私たちの心もまた痛みと不安を伴いながら、それらを携えながら、そう共感する力と悩みの中に沈み込む姿勢を捧げ物として礼拝していたいと思います。

 先ほど、自然災害のことをちらっと触れました。これは「天災か、それとも人災か」などと語ることがあります。人間の仕業による災害ではなく、人知の及ばない災害について、人間はそれを「天災」と呼び、またそれに続いて神を引き合いに出すことがあります。ひいては、「これは神の裁き」「神の与えた罰である」などと語られることが往々にしてあります。そして、今回のコロナウィルスパンデミックにつきましても、ただちに旧約聖書の感染症の取り扱いに理解を飛ばしていく潮流もキリスト教会の中に見られなかったわけではありません。私は一足飛びに「それは人間の罪に対する神の裁きだ」という風に聖書から裁断していくことに賛成はできません。ただし、「天災だ、神の裁きだ」「いや、そんなことがあるものか、そうな冷徹な神ならいらない」「そもそも神などいない」と極端な議論からは、もちろんしっかりと距離を取らねばならないのですが、しかし、こうした不条理な事態の中にあっては、人間のこの世界でのそれまでの生き方、人間の歴史の歩き方を思い巡らせ、きちんと検証し、反省の中に黙想することを止めてしまってもならないと思います。
 霊長類研究の世界的な学者であられ、京都大学の総長の山極寿一さんは次のように指摘しています。
「人間社会による乱開発によって、たとえばコロナウイルスの元来の宿主と言われたコウモリをはじめ、棲み分けられて相互に接触することの無かった動物同士が、餌場を求めて互いの生息範囲を侵犯し合う結果となり、それによって以前にはあり得なかったウイルス感染が増加するようになった」そうおっしゃっています。そして、それは今回のコロナだけのことではなく、これまでのさまざまな感染症パンデミックにも通じるのです。
 人間が神の被造物としての生態系を壊しながら自然開発を進め、快適と便利を追求する過剰な物質文明を造り上げてしまったことが、有害なウイルスが登場し、人間世界に襲いかかることになってしまった背景には、あるのではないのか。そうしたことに深い反省を向けていかねばならないと思います。慚愧に堪えないことですが、10年前にの福島第一原発の原子炉メルトダウンと莫大な放射能汚染は、やがて未来のこの世界の災難の背景となっていくのだと思います。すなわち、今日の苦しみの背景にはこれまでの人間の生き方があり、今日を生きる人間のありさまが未来の苦しみの背景となってしまうのだ、ということです。歴史には、嬉しくも悲しくもそうしたつながりがあります。ですから私たちは歴史に学びながら生きなければならないのです。私たちが今日聖書を読むのは、今日の自分のために聖書を読んでいるたけでは決して無く、未来のために聖書を読んで、自問自答をし、今日の自分を作り直させられていきことを通して、未来の良き備えとさせられているのだと言うことなのです。しかも今日、自分が作り直されるのは、未来の誰かに繋がることなのかもしれないと言うことです。そのような観点を支えられていくために、今日も私たちは、この被造世界とすべての命を創造された神の想いを黙想し、人間の愚かさに感じ入り、悔い改めを続けて行かねばならないのだと思うのです。

 さて、本日は「公共性の視座」という少々堅い宣教題でお話をさせていただいています。昨年、宣教研究所の朴思郁所長から、「公共性の神学」を紹介され、たいへん示唆を与えられ、この間、コロナパンデミックの中で思い巡らせておりました。
 私は、市川八幡教会に着任して、この教会の持つ良い持ち味について考えてまいりましたが、その一つが「公共性の豊かな教会である」ということです。
 教会メンバーとそうでないものに、分断をもたらすほどの差異がつくられていないこと。 まだまだジェンダラスな部分は残っていますが、性役割の固定、これは男性がやる奉仕、これは女性がやる奉仕というようなジェンダラスなことが比較的乗り越えられていること。
 地域NPO・ガンバの会の働きと教会とがなんとなく着かず離れず、同心円にまとめられず、こちらの楕円とあちらの楕円がどこか重なり合いながら、支援しあっていること。 「隔ての壁を除く群れへ」という永年のテーマはそれなりに血となり肉となっているのではないか、と感じます。これらは、いわゆる「公共性」を持とうとする場にとっての大切な要素です。
 私たちは、公共の場というと、市役所とか図書館とか文化センターとかを思い浮かべます。そして「教会はむしろ公共の場というより、宗教法人というものは政教分離なんだから公共性などは教会のテーマではない、と思い込んだり、「公的なもの」というよりは、極めて信徒達にとっての私的空間で合って良いのでは無いかと感じてしまうかもしれないのですが、そもそも教会には、全ての人々にとっての公共性を身につけるようにと、本来、神さまから託されているのではないかと思うのです。教会は、公共性を身につけていくことを自らへの課題、神さまからの宿題とすべきだと言えます。とはいえ、それは自民党改憲草案が言うような「国家の利益を損なわない限りにおいて人権を保障すべきだ」というようなことを言おうとしているのではありません。そういうのは、決して公共性ではない。
 わたしは聖書の神さまが自ら現している公共性に、教会は立ち返るべきであるという意味です。
 ハンナ・アーレントは「公共性」のことを「万人によつて見られ、開かれ、可能な限り最も広く公示されている現れ」と「私たち全てに共通する世界」という二つの意味で説明しています。
 先ほど、被造物世界の話をしましたが、考えてみれば、神さまはこの世界をキリスト者とかのある特定の人々のためにお造りになったのではありません。神さまは万人に見られ、開かれ、万人を祝福する命の営みの場としてこの世界をお造りになりました。これは、全ての事柄の出発点として神が備えてくれた公共の場、神の公共性です。海と水と空と陸と森と全ての生命が繋がって循環している。それが神のおつくりになった公共性と永続性の秩序です。それに対して、この神の公共性を人間が否定し、他の生物にとって閉め出された場にしているというのが、人間の脱公共性、私物化の実体だと言えます。
 こうした循環と永続的な相互関係という、神さまの創造の基本的な姿を大切にし、したがって「この世界に私的領域などはないのだ」という基本思想を持って、私たちは、このコロナパンデミックの中で、つまり人間のつくった国境線とか領土とか国籍とか、そういうものをあっという間に乗り越えて広がるウイルス感染というものに、公共的に向かい合わねばならないと思います。公共性をもって悩み、公共性をもって反省し、公共性をもって協力する視点が大切になります。
 もう一つ、聖書が決定的に証している公共性のシンボルは、主イエスです。神の公共性の御心を曲げて理解し、ユダヤ的に私的領域の柵をつくったり、ローマ的私物化の暴力を覆い被せたり、宗教的な罪人をつくりだしては蔑んで排除したり、そうした隔ての壁にどうにもがまんならずに、いつもそれらの壁を跨いで行き巡り、向こう岸にわたったり戻ってきたり、誰とでも食卓を共にし、パンを裂き、汚れた手のまま一緒に食べ、交わりをつないでいったナザレのイエスの姿に、公共性の視座があります。それこそが、教会が倣うべき、視座を置くべき公共性であります。こぼれ落ちる人々を招く公共の食卓を形成する。性の如何にかかわらず、いっしょに働き、いっしょに食べ、いっしょに神を賛美する。コロナパンデミックの中で、私たちが誰といっしょにコロナを悩み、コロナを乗り越えていくのか、このイエスの公共性から教会の祈りをつくっていきたいと思うのです。
 先ほど、自民党改憲草案にちょっと触れましたけれど、「公」をほとんど国家の秩序・国家の利益という風にあの人々は考えているわけです。そういう人たちは、公とか公共というテーマで話していると、いつのまにか「日本国」という話になっている。今回、どの国をもコロナウイルスパンデミックが襲いましたが、私たちは、注意深く目をこらしていなければなりません。いま、その国の政治の本質を理解するために必要なまなざしがある。それは何か。「弱者に対してその国がどのような態度を取るか、取ったのか」というまなざしです。
 ハンナ・アーレントのいう「私たち全てに共通する世界」というのは、イエスがあらわした、痛みが癒やされる世界であり、弱い人から順々に支えられる世界であり、食べ物が分かち合われる世界であり、朝早く雇われたものも夕方遅くに雇われたものも満たされる世界であり、罪人が赦される世界であり、誰もが新しく立ち直れる世界です。男性に通用する世界が同時に女性に通用するような世界であり、男と女に通用する世界は性的マイノリティーに通用する世界でなくちゃならない。健常者に通用する世界が障害者にも通用するようでなくちゃならない。大人に通用しながら子どもに通用しなければならない。日本人に通用する世界が同時に外国人に通用しなければならない。理想を言うならそういうことです。それがアーレントの定義する「私たち全てに共通する世界」としての公共、公共性です。それは高齢者に優しい社会は当然若者にも優しく、障害者が暮らしやすい社会は健常者が暮らしやすいのであり、病気の人が慰められる社会は健康な人が励まされる世界なのです。イエスが、飼い葉桶で生まれ、旅空を歩み、貧しい人々を訪ね、倒れる人々を立ち起こし、求めている人々の真ん中で祝福し、十字架の道を歩まれた。このことこそが人間世界が、実に「全ての人に共通する世界」の方向性と有益な方法を示してくださっていると思います。「この人を見よ」、このイエスの生にこそ、「全ての人に共通する」慰めの姿があり、励ましの姿があり、つながりの糸口があり、平和の礎があります。

 新コロナパンデミックという経験が、私たち市川八幡教会に何を学ばせてくれるでしょうか。私たちの何を砕いてくれるでしょうか。私たちに何を授けてくれるでしょうか。
9ヶ月間の苦闘、これからもしばらく続く悩みの中から、何が生み出るでしょうか。皆さまと共に明瞭にし、確認していければ幸いです。
 本年もどうぞよろしくお願い致します。
                              


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2020-12-27 16:06:24 (30 ヒット)
週報巻頭言

 みなさま。2020年最後の礼拝をこうして捧げています。今年は、みなさまお一人びとり、それぞれの生活の中で悩ましい日々を過ごされたことでしょう。これまでに経験したことのない負荷を背負ったり、これまで悩んだことの無い類いの悩みを体験されたことでしょう。ほんとうにお疲れさまでした。慰めと癒やしを与えられる年末を過ごされますように。また、靄のかかったような中にあっても、希望の光を灯されていく新年をお迎えなさいますようお祈りいたします。

 さて、私の一人の友人は、自分で「東方の学者たちが見た星」を決めていました。もちろん学術的な根拠は何も無いのですが、冬の空の象徴・オリオン座の左上の星と真ん中の星とを結んで、その線を何倍かに延ばしたところにある「あの星」という具合に決めて、毎年アドベントになると空を見上げ、クリスマスに向けての励みにしていました。子どもじみているようですが、星を探して喜んでいるそんな彼の様子がほほえましく、とても好きでした。
 2000年前に東方の学者たちが見た星が何だったのか、どの星のことなのか。それを天文学、天体物理学の立場から説明しようとする人々がいるにはいます。興味がわかないわけではありませんが、むしろ、星に導かれて旅をした学者たちにこそ、私たちは生き方を学び、人生を黙想したいものだと思います。
 救い主の誕生を告げる星は、あの夜、ずべての人々の頭上に輝いていたのです。にもかかわらず、その星の存在に気づいた者は少なく、また、星に導かれるようにして出かけた人間は他にはいなかったのです。その輝きを心に留め、その輝きを「導き」として受けとめた学者たちの心にこそ、それだけではなく導きに従って出立した人々の姿にこそ、私たちは注目しなければならないのです。
 空には数え切れない星の輝きがあります。私たちの「生活という天空」にもたくさんの星があると思います。通常ならば、私たちの日常生活に沸き起こるトピックス、たくさんの雑事、飛び交うニュースや情報がそれにあたるかもしれません。今年はコロナパンデミックによる不安と不況、これまでの常識がひっくりかえるような経験をし、私たちの生活という天空に悩ましい靄(もや)がかかったりもしています。靄がかかっていながら、さまざまな心配事がちらついている。どんよりとしながら騒がしい。不明確ながら忙しい。今日の私たちはそのような天空にすっぽりと覆われていると言えましょう。
 しかしそうした悩ましい天空にその星は輝きます。「今日、あなたがたのために救い主がお生まれになった。これこそが、神があなたを愛する徴(しるし)なのだ」というメッセージを放ちながら。私たちは、私たちの心の天空に、その徴を見いだすことができるでしょうか。こうした中にあっても、私たちを希望への旅立ちへと導こうとする星の導きの光をとらえることができるでしょうか。その星は天体望遠鏡では見つけることはできません。落ち着いて、静まって、人生を黙想し、自分の生き方を祈り求めようとするときに、心の内に見いだすことができるです。
 ネガティブ・ケーパビリティ。不確実な中にあって、不確定な時代の中にあって、それらを受容しながら、落ち着いて大切なものを考えていく、そうした受容力と忍耐力の中に、私たちは星の輝きを発見することができ、そのような中から、たとい活動的な出発を阻まれていても、来たるべき人生に向けての心の旅を開始することができるのだと思います。

 私たちが悲しみをもって受けとめていきたいことがあります。それは、この悩ましい時代の中で生きることが辛くなっている人たちのことです。日本の自殺者数は依然として年間二万人を超えていてまだまだ深刻な状況にあります。未遂者は、自死者の20倍と言われてもいます。中でも若者層の自死数についてみると10歳〜39歳の死因の第一は自死となっており、これはG7の中でも日本だけの特徴です。また20代、30代の女性の自死の割合がかなり高くなっています。そして突発的な自死の割合が高いのだそうです。
 空しさと疲れ、寂しさと空しさのブラックホールのようなものに、ふと吸い込まれていくのかもしれません。
 天空の話をしましたが、人間の心の天空に、深い闇のホールが開いていて、そこに吸い込まれていく、そんなことが人間にはあるのです。ブラックホールということで、一つのエピソードをご紹介します。

 いつかお話したと思いますが、私の両親は5人の子ども達の里親をしていました。その中に、9歳で我が家に引き取られてきた登美子という少女がいます。彼女には3歳の時まで一緒に過ごした実の母親の面影が残されています。登美子には、突然、自分を置き去りにして蒸発した母親に対する「なぜ」という悲しい疑問と、それでもその母親に会いたいというぬぐいきれない欲求とが心の奥にいつもへばりついていました。その「なぜ」という感情が顔を出したとき、登美子はいつも突然に完全な無気力状態、虚脱状態に襲われて、もはや全てが上の空になる症状を見せました。いつもは明るい、人なつっこい登美子が、この「なぜ」というブラックホールに突如として吸い込まれてしまうのでした。
 登美子は、高校に進学することをしないで、私の両親の手から離れ、自ら望んで香川県の東部、白鳥町にある白鳥動物サーカス団に入りました。全国で初の少女のトラの調教師になるためです。猛獣の檻の中にコスチュームをつけ鞭を手にして入ります。2〜3頭のトラを相手に鞭をふるい、輪くぐりや平均台わたりに挑戦させるのです。登美子は、トラの気持ちをうまく掴まえる点においては天才だともてはやされました。新聞に載りテレビにも出ました。日本テレビの1時間のドキュメント番組(森本レオさんのナレーション)「登美子16歳・おかあさんにあいたい」も放映されました。そう彼女が動物サーカスに就職したのはそれが狙いでした。有名になれば、お母さんが自分に会いに来てくれるのではないかと思っていたのです。
 1989年の正月に悲劇が襲いました。たくさんの見物客が見守るショーの最中に、彼女の心を突然あの「なぜ」が襲いました。トラの檻の中で彼女は突然脱力し無気力になりました。演技を止めてしまい、鞭をだらりとさげたまま檻の金網によりかかり、放心状態になりました。その瞬間に、一頭のトラにくびから胸を噛まれました。たくさんの子ども達が見ている前での惨劇でした。
 当時、兵庫県の伊丹市で牧師をしていた私がまっさきに駆けつけました。面会謝絶の部屋でした。トラの牙で肺に5つの穴があいていました。登美子は私の顔を見て、一滴涙をこぼして「おにいちゃん」と言いました。「きてくれた」といってまた涙をこぼしました。転勤先の長崎から遅れて駆けつけた私の母に「おかあさん、おかあさん、おかあさん、おかあさん」と4回繰り返しました。
 後日談は別の機会に譲るとしますが、登美子はなんとか一命を取り留め回復し、横浜で暮らしています。結婚し、子どもを育てながら、それでも、まだあの「なぜ」と向かい合って生きて居るのだろうと思います。横浜は3歳まで登美子が母親と暮らした土地なのです。
 登美子の「なぜ」は、自分をひとりぼっちにした母親への問いでした。深い深いアイデンティティークライシスです。自分は愛されているのか、自分が生まれてきたのはほんとうに良いことだったのか、という存在を揺さぶる迷いであり、愛され喜ばれている命だという確信への渇望でした。天才トラ使い少女、サーカス団の若きスター、心にいくつものきらめく星がありましたが、そのすべてを吸い込むブラックホールもありました。それが現れたときには全てが輝きを失うのです。
 でも、これは登美子に特別の問題ではなく、また特別な生い立ちが無くとも、人はみな、このような全てを空しくさせてしまう「なぜ」「何のため」という底なしの穴を心の中に抱えることがあるのだということを知っていたいと思います。
 何のために働いているのか。何のために生きて居るのか。何のための命なのか。私は生きていて意味があるのか。そういう「なぜ」に遭遇することがあります。それもこれも私が悪いのだ、どうせ私が悪いのだ。そうとしか考えられなくなる時があります。
 しかし、まぎれもなく、そのような時、そのような場所にこそ、生まれたもうた方がいらっしゃいます。その方は、あなたのために生まれたのだと、一生懸命に信号を送る星があるのです。
「今日、あなたの苦しみの部屋、悲しみの場所に救い主がお生まれになる。その人に向かって、心の旅をしなさい。あなたの空しさの中に希望を与え、あなたを愛し、あなたを支える神の力が宿るのだ。どうか、あなたはその暗闇の中から旅立ち、心の旅をして、あなたの心の中にあるベツレヘムの小屋で、喜びと平安とに出会いなさい」と。この神の知らせを見つけて欲しいのです。この神の知らせを聞いて欲しいのです。心の星を見いだして欲しいのです。

 新約聖書の時代の言い方では、東方という方角が意味していたものは、無秩序とか混沌という意味合いでした。マタイ福音書は、その混沌とした世界の中に、星に気づいたわずかな人がいて、その混沌の暗闇の中から旅をしてきた人がいて、この救い主を見いだして喜び、手にしていたこの世の宝を救い主の前に捧げて帰って行った、喜びながらまたその暗闇の世界に帰って行ったと記しています。東方とは、あくまでも私たちが生きる、「なぜ」「なんのために」を生じさせてしまうかもしれない世界のことです。
 私たちは、どうしたって混沌の世界を歩んでいくしかありませんが、心の星に導かれ、いつも心の旅をしていたいと思います。GoToトラベルなんかあってもなくても、いつも心の旅をしたいと思います。
 聖書は、ある意味、旅をした人々、旅をする人々の記録であるとも言えます。聖書には、自分の人生の意味はもうこれなんだ、とか、自分の生きる範囲はここまでなんだ、とか、自分の生きる目的はこれしかないのだ、と決めてしまわないで、神さまが常に導いてくださる目的や、神さまが出会わせてくださる喜びに向かって旅を続けた人々の話が記録されています。
 逆に、聖書は、イスラエル民族が旅を止めてしまい、与えられた土地に安住し、神さまの声に感動しなくなり、心の旅さえしなくなってしまったことによって滅んでしまったことを記録してもいます。
 定住・安住は私たちを貪欲にし、感覚と感受性を鈍らせます。でも旅は、人の心を新鮮にし、透明にし、柔軟にします。出会いに感動する動きを持たせます。もちろん、わたしたちは実際には、ひとところに定住していますが、私たちの心までもが旅することを忘れ、新しい出会いに感動できなくなってはならないと思います。動くな、出歩くな、と言われているコロナの中でも、私たちは心の旅をすることができるのです。新しい生き方へと今日だって招かれているのです。
 心の旅。イエス・キリストを与えられる嬉しさ、今日もまた新たにイエスさまのいる風景に遭遇する驚き。心の旅をしましょう。こうした心の旅を楽しめる人々にこそ、新しい風景が開けていくのではないでしょうか。この靄っている時代の中でも。
 皆さま、よい新年をお迎えください。
                               了


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