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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
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週報巻頭言
週報巻頭言 : 「幸いなる結(ゆい)」  (ヨハネの黙示録 14章13節、ルカによる福音書 23章32‐43節)
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-10-14 20:58:36 (24 ヒット)
週報巻頭言

今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである。(ヨハネの黙示録14:13)

世の中に幸福論はいくらでもありますし、「幸い」「幸福」のイメージも千差万別です。でも、ほとんどはいわゆる人生論であって、幸いな生き方や、生きているときに味わう幸福感のことを取り扱っていると思うのです。しかし、今日お読みした黙示録の言葉は、とても驚くべき事に、「死」と「幸い」とを結びつけて捉えています。
 この短いフレーズを繰り返し復唱していますと、不思議な味わいに包まれるのです。「死」を厳しい事実としながらも、「死」の空しさを粉砕しているように思えます。「死」を、「幸い」という視点からおおらかに包んでいるように感じます。でもそのために、すなわち、死すべき私たちが、「命」と結ばれるために、キリストはいつもわれわれの傍らで、われわれを招き続けておられます。たとい、われわれがそれに気づかなくても。
 イエスと一緒に十字架につけられた犯罪人たち。二人の内、一人は最後まで毒づき、もう一人はそれをたしなめ、イエスに心を開きます。一見、「それまでどんなに悪さをしてきたとしても、ぎりぎりのところで悔い改めれば、救われる」というように取りがちな話ですが、そうではないと思います。「救い」とは、人間の態度で、いとも簡単に引き寄せてしまえるようなものではないと思うからです。「素直な犯罪人は救われて、最後まで毒づいたもう一人の方は救われなかった」なんてどこにも書いていませんし、そんなことは判らないのです。いや、「救い」とは、人間の態度や状況がどうであっても、どうでなくても、主イエスがそこにおられるという、その事実にこそあるのではないでしょうか。
 最後の最後まで毒づいた犯罪人の傍らにもイエスはいたのです。毒づくしかなかったところの、荒れ果てた心のままで死んでいく、その男の横にもイエスはいて、その犯罪人の痛みと苦しみと絶望を、まさに自分自身も味わいながら、その犯罪人のためにとりなし、祈っていたという、その事実が救いなのだと思います。
                               (吉癲ヽ陝


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