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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
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週報巻頭言
週報巻頭言 : 「神の言を預かって生きる」イザヤ書 6 章 6-13 節
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-07-14 17:27:59 (82 ヒット)
週報巻頭言

「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」 わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」 (イザヤ書 6 章 8 節)
本日の聖書テキスト−イザヤ書 6 章−は、年老いてからのイザヤが、預言者として の召命が自分にぶつかって来たときの出来事を回顧して記したものです。自分がふさ わしいものだったわけではない。むしろ、神に直面してしまったときの自分は、あま りにも罪深く、この唇は神の言(ことば)を取り次ぐには、汚れているということを 彼自身は自覚していました。けれども、神の接近は圧倒的で、自分の汚れた唇を、燃 える炭火で焼き取るかのような赦しと変革の力で清められてしまい、赦されてしまい、 もはや「わたしがここにおります」「わたしをおつかわしください」と応えるしかな い強い招き、強い背中押しだったことを告白しています。 自分の思いや計画ではなく、もう神さまからとしか言いようのない召しによって歩 まされてしまう、それを私たちは<召命>と呼びます。召す命令、命を召す、命への 召し。漢字からどのように連想しても当てはまります。そしてどう言い換えても厳し さを伴うものです。イザヤは、20 歳の時にこの召命に撃たれます。彼が「いつまで ですか」と尋ねたところ、それは「いつまででもだ」というような返事が返ってきま す。つまりとことんまで、人間の歴史のただ中で、神の言を語り伝える、時が良くて も悪くても、いいえ時がいつまでも悪いなら悪いからこそ語り続ける、そのような召 しに突き込まれてしまいます。 並大抵ではない耐久力と精神力を問われるそのような召しに応える用意が、若干 20 歳のイザヤにあったとは思えません。ただ、その時その時、神の言を預かり、それを 人びとの往来する街角や会堂で語り続けること。語るために観察し、洞察し、悩み、 もだえ神に聴き、また語ろうとしていくこと。たとえ聞かれなくても、たとえ笑われ ても・・・。神の言などより確実に人生を助けてくれそうなものにみんなが飛びついて いく中で、神への信頼、神の戒めに生きることを呼びかけ続ける。そんな「今日」の 葛藤の積み重ね、「今日」の姿勢の積み重ねが、振り返ってみると、彼の預言者とし ての生涯を導き、つくっていたのでした。 吉 叶


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