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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
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週報巻頭言
週報巻頭言 : 「痛みは壁を越えて響く」マタイによる福音書 15 章 21-28
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-11-03 17:39:12 (18 ヒット)
週報巻頭言

節 主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちる パン屑はいただくのです。 (マタイ福音書 15 章 27 節)
この福音書の記録を読むとき、私たちはイエスの「つれなさ」に意外な想い(はっき り言うと「嫌な感じ」)を抱いてしまうのではないでしょうか。カナン人の女性に対して、 イエスが子どものパン(つまりユダヤ人たちの救い)をさしおいて、犬に(つまり異邦 人たちに)投げてやるのは、順序が逆だし、その気はない、とおっしゃっているように 思えるからです。その後、この女性との会話を経て、イエスは態度を変えられるわけで すが、「それにしても、イエスともあろう人がこんなこと言うのか」とがっかりするよう な記録です。しかし、弟子たちにとっては「この出来事」こそが後々とても大事なこと として心に刻まれ、「救い」というものの中味やダイナミズムをとてもリアルに考えさせ てくれる記憶になったのです。「主はあの時、動かされたではないか」「主は、あの時向 き直ったではないか」 「主の業は、ユダヤ人か異邦人かなどという壁を(この重大な壁を) ものともせずに、あのカナンの女性に注がれたではないか」。この記憶こそが弟子達にと っては鮮烈であり、ラディカルな事実でありました。伝道のパラダイム(既成の感覚や 枠組み)を転換していく明確なモデルケースになったとも言えるでしょう。 ユダヤ人たちを主たる者たちとしていた最初期の「使徒・信徒集団」にとっては、ユ ダヤ教の枠組みに捕らわれ、ユダヤ人の救いを第一義的に考えてしまうのは偽らざる現 実でした。発想や感覚の限界を彼らも当然のごとく抱えて出発したのです。けれど、主 イエスについての記憶は、彼らをその枠内に留まらせることを許しませんでした。異邦 人女性に向けて動いた(動きを変えた)主イエスの記憶がそれを許さなかったのです。 その記憶は、国籍や国境などの壁を越えていく新しい出会い方への強い促しとなりまし た。行動範囲を限定しようとする人間的な意味づけや枠付けの「もっともらしい装いで カモフラージュされた限界」を「イエスの想い出」が突き抜けさせたのでした。 ただし、イエスの構えを変えたのは、まぎれもなく一人の女性、わが娘の苦しみを抱 きかかえて「助けてください」と声をあげた異邦人女性の「痛みの叫び」であったこと を、わたしたちはしっかりと記憶しなければなりません。「痛み」がちゃんと発せられ、 その「痛み」にまっすぐ向かい合おうとする関係こそが、あらゆる壁を越えさせるので す。それは、今日の教会の宣教にとっても同様です。 吉 叶


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