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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
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週報巻頭言
週報巻頭言 : 「嬰児を抱いてみて」 イザヤ書 9 章 1-6 節
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-12-15 17:17:14 (139 ヒット)
週報巻頭言

み ど り ご ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。 ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。 (イザヤ 9:5) イザヤ書 9 章の予言(預言)は、イエス・キリスト御誕生のおよそ 740 年前に発せられ た言葉です。やがて、かならずメシア(救い主)が与えられるという約束の言葉です。与 えられるという「予言」ですが、「生まれた」「与えられた」と完了形で記していくのも聖 書の予言(預言)の特徴です。単なる期待ではなく、聞いた者たちは、その約束を確信(核 心に)して、それに基づいて生きるのです。「信仰による生」にはそのような不思議な特性 があります。そして、事実、その約束は、確かに 700 年以上の時を経て、ダビデの町ベツ レヘムに実を結んだのでした。 その予言は、不条理に満ちた世界、悪の支配する世界、つまり新しい救い主に回復して もらわねばならない世界の現実を明確に指弾しています。ただし奇妙なことに、救い主の 到来については「ひとりのみどりごが生まれた」と言うのみです。悪に満ちた世界から人 々を救済するメシアの到来を予告するのですから、もう少しぐらいは、それ相応の人物像 を伝えておいてくれてもいいのではないでしょうか? たとえば、“ひとりの勇敢な戦士が 現れる”とか“ひとりの卓越した指導者が王に就任する”とか“ひとりの賢者が語り始め る”とかです。しかしこの予言(預言)は「ひとりのみどりごが生まれた」と、つまりは。 「ひとりの赤ちゃんが生まれます」と言っているだけなのです。いつ、どこに、も無しに。 わたしたちの世界でもそうですが、この世で輝き、章をもらい、人々の注目を集めるの は、能力を示した政治指導者であったり、人類の未来に具体的に貢献した発明家であった り、優れた思想家であったり、あるいは斬新な起業家であったりします。そこには「成果」 が付随しています。ですから、そのような「成果」を予見させる人物像がほのめかされて いなければ「期待を喚起する予言」にならないと思います。しかし、聖書の予言(預言) は、ただ「ひとりのみどりご(嬰児)」と記されているに過ぎないのです。これでは予言と 言えるのでしょうか。しかも、 「登場」でも「就任」でも「即位」でも「台頭」でもなく「嬰 児が生まれる」って言われても、どこにでもいる新生児の、どの赤ちゃんか、誰のところ の赤ちゃんか、さえ何も変わらないのですから。 この捉えようの無さの中にこそ神さまの意志があったのです。人間の想定する、人間が 思い図る、人間の納得する、人間が待てる、人間の迎えられる、そんな「メシア像」にお さまらない救い主の出現が、神の御心の中に計画されていたのだと思います。 吉 叶


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