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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
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週報巻頭言
週報巻頭言 : 「主よ、渇いています」 ヨハネによる福音書 7 章 37-39 節
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2020-02-02 16:17:21 (166 ヒット)
週報巻頭言

イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、 わたしのところに来て飲みなさい。」 (ヨハネ 7 章 37 節)
ヨハネ福音書 7 章は、ユダヤ上層部の中で、また民衆の中で「イエスという男は、 果たしてメシアなのか、違うのか」という論争が巻き起こっていたことを記していま す。その論争を決まって蹴散らすのは、イエスの出身地や身分の問題を引き合いに出 して断固否定する律法主義者たちのかたくなな態度でした。イエスはこれら「疑いの 論争」「否定の論争」に直面しながら、当時の人々の心の中に広がる「砂漠のような 渇き」を見ていたのではないでしょうか。自分の知識、出自、所属、地位にこだわり、 必死で自分を守ろうとしている。でも裏返せば、それ以外のものに依拠できない身の 不安と怯えがそこにはあり、渇いているのだという自己存在にまつわる枯渇を。 ヨハネ福音書は、イエスが十字架の死の直前に語った「私は渇く」という言を記録 しています。イエスは十字架の上で人間の朽ち果てるしかない肉の姿の限界を、身を もって体現されました。福音書は「人間の虚無」とはいかなるものかを十字架のイエ スの叫びを通して描いています。それは「父よ、彼らをお赦しください。自分が何を しているのか知らないのです」(ルカ 23:34)と語り、また「わが神、わが神、なぜわ たしをお見捨てになったのですか」(マルコ 15:34)と叫ぶのです。“何をしているのか がわからない存在”としての悲惨さ、“神から見捨てられる”という孤独、そして“ わたしは渇く”という空疎さ。イエスご自身が、これら人間の背負う苦悩をその身に 背負って死に(滅び)、その「滅び」自体を滅ぼすこととして復活させられていった。 これがキリスト教信仰のとても大切な核心です。 主イエスは、人々のかしましく悪意に満ちた「あいつは誰だ」論争の中に、神の祝 福と養いから離れ、人間の秤で自分を救わねばならなくなってしまった人間の渇きを 見つめ、その「砂漠」の真ん中(仮庵の祭りの日)にて叫ばれ(宣言された)ました。 「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、 その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」と。 私たちは、「渇き」をごまかして生きているのかもしれません。実は渇いているの に。渇かされているのに。主イエスは叫んでおられます。「渇くものは来たれ。渇く ものよ来たれ。」と、十字架を背負って叫んでおられます。私たちは主イエスに向か って叫びます。「主よ、渇いています、ここに、います」と。 吉 叶


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