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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
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週報巻頭言
週報巻頭言 : 「イエスを踏んで生きる」ヨハネによる福音書 13 章 1-15 節
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2020-03-01 19:45:27 (48 ヒット)
週報巻頭言

「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりも ないことになる」 (ヨハネ 13:8)
ペテロはずっとイエスに従って歩んできました。「先生」と仰いで教えを聴き取ろうと し、 「主」と言い表して期待してついてきました。 「先生」はいつも前を歩いていました。 「先生」はいつも向かいに座っていました。自分も群衆と一緒に座って話を聞くときは、 「主」を見上げました。まぶしいまなざしで。ペテロはいつも後ろから、いつも下から イエスを見つめてきました。向かい合っている時でも下から見上げるようでした。 けれどもイエスと歩む最後の夜になってペテロはイエスを見下ろすことになってしま いました。自分の足下にしゃがみ込んで、このわたしの足を洗っているイエス。自分の 足下からわたしを見上げているイエスの表情がペテロに焼き付いてしまいました。ペテ ロのその後の人生に刻印されたイエスの姿でした。 舗装の無い道を誰もがサンダル履きで生きていた当時、足の汚れは「生きる上で避け られない汚れ」でした。「誰にも避けられない汚れ」でした。生きる者が、生きることで 背負っていく痛みであり、苦悩であり、恥じている何かであり、抱えている弱さでもあ ります。でも足を汚さないで生きることなどはできない、まさに「わたしがわたしであ ること」のどうしようもない事実なのです。イエスは終にはそれに触れてきます。「あな つい たのそれに触れそれを洗うためにこそわたしは来た。もし、あなたがわたしにそれを洗 、、 、、 、、、 わせてくれなければ、わたしとあなたの関係は無くなる」とさえおっしゃって。 イエスがわたしを、そのように丸ごと受け入れてくださっている。その事実を通して、 わたしはようやくわたし自身を受け入れ始めることができるのではないでしょうか。「汚 れ」を抱え込んでいるそのままの自分を「わたし」として。 もしイエスが食事の時には上座に座り、素晴らしい教えを語り聴かせてくれるばっか りの人だったなら。もしイエスが十字架にかからずに、むしろ人々の望みどおりエルサ レムの王になっておられたなら。どんなに主イエスを尊敬し、主イエス教えに感銘を受 け、イエスの後を追いかけることに充実を感じたとしても、自分の悲しみと弱さをいつ になっても受け入れることはできていないのかもしれません。イエスがこよなく愛して くださっている。それは、もちろんイエスがわたしを受け入れてくださることなのです が、同時に、わたしが自分自身のこのままの姿を愛することができるようにしてくださ ったということなのではないでしょうか。 吉 叶


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