はじめての方へ
メニュー


このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The
Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
週報巻頭言
週報巻頭言 : 復活のイエス、ただ愛に招く ヨハネ福音書21:15-17
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2020-04-19 08:29:05 (55 ヒット)
週報巻頭言

 (全文掲載)

◆閉ざした部屋の中で、復活の主に出会った弟子たちは、部屋の扉を開け、外に出ました。おずおずとではありましたが歩き出しました。ペトロは他の6人の弟子たちとガリラヤに戻りました。そこで、再びよみがえりの主と出会うのです。獲った魚を岸辺で焼いて、一緒に食べる。そんな主イエスとのリアルな交わり、主の復活を実感するうれしい湖畔の朝でした。しかし、食事の後のイエスとの対話は、ペトロにとってとても辛いものとなりました。おそらくは、彼の人生を貫いて、主の復活の証人として生涯を歩むことになったペトロの通奏低音ともなっていく信仰理解・自己理解が、この朝の主イエスとの対話でありました。
 よみがえられた主は、食事の後、ペトロに「わたしを愛するか」と尋ねられます。しかも三度繰り返して尋ねられます。ペトロにとって、この三度の問いはきつかったと思います。最初の勇ましさとは裏腹に、あっけなく「主を知らない」と否認してしまった、しかも忘れもしない、三度、否定を繰り返したこととの関係を感じざるを得なかったでしょう。
 ペトロが初代教会のリーダーであるということを示唆する大事な場面の記事であるにもかかわらず、そこには、ペトロの適格性を力強く謳ったトーンはまるでありません。むしろ弱々しすぎます。しかし、そうであるからこそ、主を証しする仕事に召されるとはどういうことなのかについて、じっくりと考えさせられもします。
◆それにしても、何度も確認されると、辛いものです。三度重ねられたらほんとうにへこんでしまいます。
 このやりとり、「愛する」という言葉を原語どおりで読んでみると次のようになります。
・イエスは私を「アガパオー」するかとペトロに尋ねます。
 主よ、わたしがあなたを「フィリオ」していることはあなたがご存じです、と答えます。
・ふたたび、イエスはペトロに問います。あなたはわたしをアガパオーするか。ペトロは答えます。主よ、わたしがあなたをフィリオしていることはあなたがご存じです。
・三度目にイエスはペトロに尋ねます。しかし今度は、ペトロ、あなたは、わたしを「フィリオ」するか、と言葉をペトロに合わせて尋ねます。ペトロは心を痛めて答えます。わたしがあなたを「フィリオ」していることは、あなたがご存じです。
となります。このように、アガペーという愛(無償の愛)とフィリアという愛(友情・友愛)とが交差しながら、変化していくのです。
 このやりとりには、引け目を負うペトロの気持ち、強くまっすぐ正面を見据えることのできない気持ち、「アガパオー」すると堂々と言えない心理がにじみ出ています。うしろめたさを隠せないペトロの現実です。しかも、「フィリオします」と直裁に言えずに、わたしが「フィリオしていることはあなたがご存じです」と控えめです。このペトロの答えはとても歯切れの悪いものです。しかし、考えてみれば、こと人間の神への愛は、何度訊かれても「上昇」などしない、できないのものなのではないでしょうか。むしろ、訊かれれば訊かれるほど、言葉に詰まり始めていく。それが私たちの神への信仰の偽らざる現実ではないでしょうか。ですから、私たちの信仰告白のそのような現実を、この日のペトロがよく映してくれていると、私は感じています。
◆そして、この弱々しく歯切れの悪い告白が、ペトロの現実であり、私たちの現実であるからこそ、主の呼びかけは繰り返されていくのです。しかも、それは決して意地悪な確認などではありませんし、「三回否定したから、三回誓い直せ」という帳消しの儀式でもありません。ここにあるのは、「ただ、愛への招き」だと思います。「愛するか。」そう問われるたびに、「はい愛します」と力強く答えることができない、それを繰り返し続ける私たち。しかし、そこに、主は赦しを加えてくださっている。そこに主は慈しみと憐れみを加え続けてくださっています。そして寄り添ってこられます。
 そうです。私の、私たちの、一度っきりの力強い宣誓によってなどではなく、繰り返される赦しと、繰り返される招きとによって、私たちは主の羊の群れとして養われ整えられていくのだと思います。繰り返し私たちを赦しつつ、繰り返し私たちを招き続けてくれている主イエスは、「アガパオーします」と言い切れない私たちに、アガペーの愛、十字架の愛で、私たちに寄り添い続けてくださるのです。そして、主は、ただ愛へと私たちを招き続けます。
「私を愛するか。」愛する力。それは、ペトロが「岩」(ペトラ)からニックネームをつけられたことを思うとき、それは岩のような硬さ・強さを連想しますが、決して「愛する力の強さ」のことではないのだと思います。愛する力は、岩のような強さからは生まれないのです。人を愛することができるとするならば、そこには、その愛のためにどれほど自分が愛されなければならないか。そのことを知る必要があります。「愛する。」それは知識の豊富さからは生まれません。それは精神力の強さから生まれません。愛すること。それはむしろ、人間の弱さから滲み出てくるものです。砕かれた心の傷跡から流れ出すものなのです。人間が、弱さと脆さを自らの中に知り、その痛みと悲しみを覚えながらでなくては、他者を受け入れ、愛する「ことば」も「おこない」もおそらく現すことはできないでしょう。砕かれ、赦され、愛された者に、愛する力が備えられていきます。
 そう考える時、主イエスがペトロに、「私を愛するか」と問いながら知って欲しかったことは、「愛しうる力強さ」のことではなく、どんなに自分の破れと惨めさに苛まれても、それを受け入れ愛している「私の愛」の上に足をつけて生きてきなさい、と呼びかけておられたのだと思います。三度の問いは、確認ではなく、呼びかけであり、招きでした。主イエスは、このペトロを用いるために、これからも、三度と言わず繰り返し何度でもペトロをあわれみ、赦し、立て直し、用いていくことを、主イエスご自身が、ご自身の心の中にしっかりと定めながら、ペトロへの招きを重ねているのです。
◆私たちは、ただ愛に招かれて生きる者なのです。私たちは、繰り返し招かれながら、愛へと導かれるばかりなのです。
 この弱い私たちが、傷を負う私たちが、愛へと招かれている、繰り返し招かれている、キリストが絶えず傍らで愛へと招いている、このことが「岩・ペトラ」の本当の意味なのではないでしょうか。私たちは、この岩の上に教会・そして交わりを建てていきたいと思います。ただ、愛へと招き続けてくださる復活の主の事実の上に、希望の根拠を置いて、ご一緒に歩んでまいりたいと思います。今は、互いが離ればなれになっていますが、私たちは主に養われ、主に寄り添われ、主に招かれている、共なる群れなのです


印刷用ページ 

市川八幡キリスト教会 千葉県市川市八幡2-1-10 電話047-332-5197
Theme Desinged by 工房ヒラム