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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
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週報巻頭言
週報巻頭言 : リマット河畔での祈り マルコ福音書4章35節
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2020-04-26 09:10:18 (32 ヒット)
週報巻頭言

(全文掲載)

みなさま。おはようございます。世の中はいま「ステイホーム週間」なのだそうです。感染リスクを抑えていくためにお互い十分に注意をしながら過ごしたいものです。
ところで、ステイホームという言葉を聞くときとても大切と思われる視点を共に確認しておきたいと思います。
 私たち市川八幡教会はホームレス・困窮者支援ガンバの会のそもそもの運動母体となった教会であり、いまなお深いつながりをもって歩んでいます。ホームレス支援の働きを続ける中で考えさせられたことは、まさしくこのホームレスという概念についてでありました。それは決してハウスレスではない。住む家が無い、住むためのお金が無いというだけの問題ではなく、人と人とのつながりや絆としてのホームが無い。私たちがそうしたホームレスの方々に届けていくのはアパートなのではなく、つながりなのだ。ということへの気づきだったと思います。ホームとはつながりや絆のことである、と。
 そう考える時、いま推奨されているステイホームについても、単にステイハウス、ステイルームという意味だけでは無い、つながりを忘れないで、ということを十分に考えて過ごしたいと思います。礼拝に来られた方も、いまここに来ることを控えておられる方々も、つながり続けるホームを共に心に留めたいと思います。 

 さて、私は、昨年5月、この教会の牧師に着任する直前に、スイスのチューリッヒ、ベルン、バーゼルなどを訪ねる機会をいただきました。日本とドイツとスイスの教会代表者による協議会が開催されたからです。集まった代表者たちは、そのほとんどがルーテル教会と改革派教会の牧師や神学者たちでした。ちなみに、ルーテル教会はドイツの、改革派教会はスイスの「国教会」であり、国民から徴収する宗教税(所得の9%)によって運営されている国営の教会で、それらの教会では、教会のディアコニア(社会奉仕)部門がたいへん盛ん(盛ん、というより行政の働きを請け負っている)なのですが、今回は「教会のディアコニア性、その実際と課題」とをテーマとする協議会でした。そのような中、ただ一人、私だけがバプテスト派の人間でした。ところで、この協議会の準備段階の中で、日本からの派遣代表者の中に「バプテスト」が混じっていることが少々話題となったようです。それは、こういうことでした。
 折しも、チューリッヒは「宗教改革500年」に沸き返っていました。改革指導者ツヴィングリの映画がつくられ、また彼の肖像を刻んだ貨幣や記念切手も発行されています。そのような宗教改革の熱狂のさなか、水をさすようなことですが、ある歴史的な出来事が想起されてしまいました。それは500年前のあの時代に、宗教改革の拠点となったグロスミュンスター聖堂の下を流れるリマット川で、改革派の指導者たちが、再洗礼派(バプテストの先祖)の人々を籠に閉じ込め川に沈めて殺害した、という歴史的事実のことです。当時、「異端」と断罪された人々は「火あぶり刑」で殺されるのですが、全身を水に浸めて再洗礼をしていたバプテストたちは「浸められて本望だろう」と溺死させられていきました。
 さて、今回問題となった点は、「『宗教改革』を記念する企画として『教会のディアコニア性』の課題や可能性を考えよう」という趣旨で開催される今回の協議会を、バプテストからの参加者がいるにも関わらず、あの迫害事件の史実に触れぬまま実施して良いのか、という事でした。事前協議の結果、チューリッヒのリマット川河畔で、和解の祈祷会を開催することとなり、私がそのスピーチと祈祷を担うこととなったわけです。
 当教会では本日、この後定期総会をいたします。いったん延期された総会ですが、この総会に合わせて礼拝のメッセージでは、リマット河畔でのスピーチと祈りの全文を紹介し、今という時代に「バプテスト」として生きる意味について共に考えていきたいと思っていましたので、新コロナ一色の状況の中ではありますが、あえてかねてからの思い通りに、このスピーチを紹介させていただきたいと思います。プリントもご覧ください。

◆リマット河畔でのスピーチと祈り◆
 私は、自分のことを「バプティスト」と称するとき、いつも「私は、ほんとうに、日々新たな人間として生きているか」「決まってしまわないで、決めてしまわないで、変えられることに開かれているか」と自問します。
 バプティストの「イスト」とは、ピアニストとかバイオリニストとかアーティストと言うように、現在進行形で「それに取り組んでいる者」のことだと思いますし、バプテスマとは、「人が新たに生まれる事実」を意味しているからです。バプティストとは、まさに固定された教理やパラダイムに安住する生き方ではなく、日々、自分が砕かれ、変えられていく生き方だと思います。
 ところが、私は、私の中から出てくるもので変わることはできません。新しくなることは難しいのです。しかし、神が日々届けて下さる「他者との出会い」によって、とりわけ、痛みや悲しみ、叫びや求めと共に私に向かってくる他者との出会いの中で、私は変えられ、それまで自分では気づかなかった「私のなすべきこと」へと導かれます。
 その変化の道すがら、時に聖書の読み方を変えることを要求されることがあります。
いま、この人にとって、この文脈の中で、聖書をそのように読むことが、果たして許されるのだろうか、と。そのような時に、命の解放と、人生の希望のためにこそ聖書を読む勇気を持ちたいと思います。聖書を活き活きと読むために、私には、身近な、最も小さくされた人々の手助けが必要なのです。
 日本バプテスト連盟の中で、今、女性牧師の数が次第に増加しています。それは、喜ばしきことです。それだけでなく、性的マイノリティーの人々への理解や共に生きる道が、提唱されています。しかし、一部のコンサバティブな牧師たちによって、それらの動きへの拒否や嫌悪が示され、またフェミニズム神学の柔軟かつ鋭い観点に対して、「それは異端である」と誹謗がなされる現象も起こっています。
 自ら、歴史の中で「異端」と呼ばれて来た先祖たちの事を、「過酷ではあったが見事な生き方」として記念するバプテストが、自分たちの内部に生きる少数者を「異端」と呼んで排除し、自分たちの依拠している枠組みを守ろうとするのです。皮肉な現象ではありますが、ある種の恐怖心に起因したこうした排除行動は、目をこらせば、今なお、あちらこちらで目撃することです。教会でも、学校でも、町内でも、そしてこの社会や民族間で常に起こっていることです。
 500年近く前に、このリマット川で沈められた人々は、今日、いったい誰なのでしょうか。今は、誰が沈められているのでしょうか。そして、今日、「異質な人々」を川に沈めたがっている人々は、今日、私を含め、何を恐れ、何にしがみついているのでしょうか。
 日本では、今日の人々の心の闇を映し出すような事件が日々起こっています。とりわけ、2016年7月に、相模原で起こった大規模な障害者施設殺傷事件は、入所している障害者を「生きる価値の無い人間」と呼んで次々と刺殺しました。19名が死亡し、26名が負傷する大量殺人事件でした。しかし、それは相模原の事件ではなく、日本社会の事件であったと思います。
 「生きる価値の無い人間」「殺されても仕方のない人間」がいるのだ、という「優生思想」は決して容認できるものではありませんが、私たち教会の中にある「正統」と「異端」という二分法はそれにつながる可能性を大いに含んでいます。そのことを、ここで心に刻みたいと思います。
 歴史はいつも、見つめるべき大切な本質と、闘うべきものの正体を教えてくれます。また、歴史は、今と今からを生きる生き方を教えてくれます。聖書を活き活きと読むために、私は、今日も歴史の手助けを必要としています。
 リマット河畔で、今、私は、真の意味でバプテストとして、もとよりキリスト者として生きることを問い直しています。この場所に、来ることができて幸せでした。この場所に、みなさんが共にいてくださったことはとても幸いでした。このような機会を与えてくださったことに心から感謝を申し上げます。
【祈り】
 主なる神さま。私たちは、あなたの大きな御旨を知り得ず、自分の生きる歴史の中で、正しさと間違いをつくりあげ、優れているものと劣っているものに物事を分けていこうとします。
 主よ、どうぞ、分裂と分断の虜となってしまう道から、私たちを救い出してください。お互いの中に、違いを見たとき、違いがわかり始めたとき、その違いに、必ず豊かさがあることを信じる信仰と、その豊かさを理解するまでその違いに向かい合う忍耐力をお与えください。私たちを、あなたの平和と和解の道具としてお用いください。
 お互い、国も、言語も、文化も、習慣も、信仰的立場も違う私たちの、唯一なる主にして、共通の命の道であられるイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
(2019.4/29-5/6日独瑞教会協議会)

 以上です。私たちの教会が、違いを受け入れ、人の弱さを力とする教会となっていけますように祈りつつ、定期総会に臨んでまいりましょう。
−主なる神さま。主は、いつも向こう岸を目指されました。人々の忌み嫌う場所を向こう岸となされ、悲しむ人々、痛んでいる人々、病に苛まれ、不安に怯えて生きる人々の場所へとこぎ出されました。主よ、向こう岸へ渡って行かれる主イエスに伴い行く私たちとしてください。いま、私たちは皆が部屋に閉じこもり、自分の岸辺に立ち止まっているかのように思わされている時ではありますが、向こう岸にあるもの、向こう岸に生きる人々を豊かに想像し、祈りによって渡っていけるものとしてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン −


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