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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
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週報巻頭言
週報巻頭言 : ひらかれていこう 使徒言行録1章6−11節
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2020-05-03 08:37:52 (28 ヒット)
週報巻頭言

(全文掲載)

 生前のイエスの、目に見える姿を共にしているとき、弟子たちは主イエスの圧倒的な存在感と導きにほとんど依存して歩んできました。それでいて、弟子たちはてんでばらばらで、自分の勝手な思いこみに囚われ、目に見える栄光に憧れて生きていました。そして挫折しました。自己破綻を来してしまったのでした。
 そんな、弟子たちがイエスの十字架と復活を経験します。十字架の出来事の直後は、自分たちのふがいなさと、思い違いの恐ろしさにさいなまれ、もう二度と外の世界を生きることができないのではないかとの絶望感を抱えて、部屋の中に引きこもっていた。そんな彼らの、墓穴のような重い扉・ぶ厚い壁を突き抜けて、復活のイエス様があらわれてくださり、もう一度、自分たちを励まし慰め、信頼して押し出してくださったのです。心の中に熱が満ち、炎が燃えるような経験をしたのでした。弟子たちは赦しと愛を知ったのです。
 人が赦しを知ること。人が愛を知ること。それに応えて生きる人生の喜びを知ること。イエスのよみがりは人にそのような新しさをもたらしてくださる。『使徒言行録』は、新しい生き方に招かれた弟子たちが、その実感を分かち合いながら、聖霊に導かれて歩んでいく物語です。「あるがまま」を受け入れてくださった主イエスに、その「あるがままから」従って生きていこうとする弟子たちの新しいステージが始まっていったのです。
 目に見えるイエスがいたのが最初のステージ。あのときは、お互いばらばらのまま、てんで勝手な思い込みのままイエスの後を歩んでいた。けれども、主イエスが目には見えなくなり、手に触れられなくなってからの第二ステージ。彼らはとうとうイエスが望んでおられた生き方へと姿勢を転換し、ベクトルを合わせることができました。そんな弟子たちの新しい様子を、今日は4つのポイントで分かち合いたいと思います。

1)8節には「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたはわたしの証人となる」というイエス様の遺された言葉があり、11節には「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか」という御使いたちの、背中を押すかのような言葉があります。
 弟子たちは、これからは「証人」として生きていく主体となったのでした。「自分が救われる」こと、「自分が祝福される」ことに思いを向けて終わるのではなく、主イエスこそが「私の、そしてあなたの」救い主であること、彼のもとに「私の、そしてあなたの」命の祝福があることを証言して生きること、そのことの証人となって生きること。このことに、新しい人生の使命があるのです。「天を見上げて立っている。」その御使いの言葉は、極めて象徴的です。神さまの力を仰ぎ、求めているのだけれども、自分自身の動きは起こせない。この世にありながら、自分の思いは空中をさまようばかり。神さまがこの世界を完成されるのはいつだろう、何をくださるのだろう、早く来ないかな、と受け身で待っている。そんな姿をとらえています。けれども、御使いたちは言うのです。「天を仰いで立っていないで、あなたたちは生きなさい、この世を歩んで行きなさい」と背中を押しています。人生にはそのような「ステージの転換」「顔の向きを変える場面の転換」があるのだということを使徒言行録は私たちに指し示してくれています。

2)第二の点は、そのステージ、顔を向ける世界は、かぎりなくこの世にひろがっていくのだ、ということです。
「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また地の果てに至るまで、わたしの証人となる」
 イエス様の福音、彼の命への祝福は、いつも超えていくのです。エルサレムのユダヤ人だけでなく、すべてのユダヤ人・そう罪人と呼ばれていた人々にも貧しい人々にも、そのキリストの命への祝福は注がれていく。当時のユダヤ人には考えられなかったことですが、犬猿の仲であったサマリヤの人々にも、そしてユダヤ人にはそもそも視野に映っていなかった異邦人にも、このイエス・キリストの命への祝福・救いの知らせは分かち合われていく。福音そのもの、愛そのものが、自らの力でそれを超えようとする。あなたがたは、世界に出て行くことになるし世界に繋がらなければならない。

3)三つ目のことは、新しいステージでは、私たちは共に生きるということです。
 生前、どこかイエスと自分のつながりに固執していたそれぞれの弟子たち。ペトロのように「わたしは裏切りません」と言ったり、ヤコブやヨハネのように「そのときは私をとりたててください」と言ったり、イスカリオテのユダのように自分の思い込みに固執し、そして絶望したように、「わたし」ということに強い気持ちが向いていた弟子たちが、「私たち」という共同体を作り始め、作り出していく。そこに大きな変化が起こされています。
 彼らは、十字架の前で共に挫折経験をし、けれどもふたたび共に復活体験をし、まさにイエスのからだと血を受け合う主の晩餐にあずかりながら、互いのためにこそ互いの弱さが必要で、互いの証が必要で、互いの支えが必要で、共に祈ることが必要であることを知っていったのです。
「だれでも二人、また三人がわたしの名によって祈るところにはわたしはいる」とイエスが語られましたように、一人ではだめなのです。共に生きる。その共に生きる関係を用いて、イエスは御業を働かされるのです。
 弟子たちは、最初から組織をつくろうと考えもしませんでした。けれども、共に生きる生き方を選びはじめたとたん、そこには共に生きようとする人々が加えられていきました。共同体が出来ていきました。奉仕者を立てるようになりました。そしてさらにキリストの証人として他の地域に伝道していくために派遣や支援の体制を組みました。他の地域とのネットワークが生まれました。行き来して連絡を取り合うようになりました。そのようにして、教会はつくられていったのでした。これが、弟子たちの新しいステージでした。

4)主イエス様が目に見えなくなったいま、初代のクリスチャンたちを支え、勇気づけ、導いたのは、祈りの力でした。
 イエス様の生前の約束どおり、弟子たちには聖霊が与えられました。聖霊は、目に見えません。手でつかめません。思い通りになりません。神さまの生きた働きとして、人間を動かし、出来事を引き起こし、歴史をつくります。この聖霊の導きを受けとめるために、弟子たちは祈るしかありませんでした。聖霊の導きを共に受けとめるために、共に祈らねばなりませんでした。
 共同体が形成されると、いろいろと必要が生じていきます。求めが起こってきます。しかし、それらの必要や求めが「神さまが御心にかなうこと」なのかどうかはわからないのです。動き出せば動き出すほど、私たちは心して、一緒に祈らなければならないのです。祈るとき、握りしめたものを手放さなければなりません。祈るとき、「動きたくとも立ち止まること」が示されるかもしれません。祈るとき、「立ち止まりたくても、進むように」と引っ張られるかもしれません。
 祈りは、神のビジョンを聴く場です。自分たちの計画、自分たちの願望ではありません。神のビジョンです。使徒言行録は、神の不思議なビジョンによって、思いもしない人が宣教者になったり、考えもしなかった地域に伝道していくような出来事が“わんさ”と報告されています。
 わたしたちがもし、「もうこれでいい。だいたいこれで満足」と思うとき、祈りはきっと中断されるでしょう。個人の求めは満たされても、共同体としての祈りは喪われるのです。そこで「証人たちの群れ」としての祈りは消えてしまう。そして共同体の祈りの無い人々のところに、「交わりをつくるために必要な出会いや出来事」は起こらなくなるでしょう。新しい共同経験が起こらない場所は、やがてばらばらになってしまうでしょう。
 初代教会のクリスチャンたちは、他者に、交わりにひらかれていく人々であったと言えます。私たちも、そうありたいのです。
 復活の証人として、この地、この時代を生きる。イエスの十字架と復活の出来事が、人間に起こしてくださる出来事は何か、それを自分の生きている場面で思い起こしていく。イエス・キリストの復活の力は、生き悩んでいる人々にどのような言葉を届けることができるのか。孤独な人々にどのような力なのか。それを探りながら祈り続ける。それが私たちに、この世に顔を向けて生きよ、と押し出されている「召し」であります。新型コロナ渦に社会が、そして人間が呑み込まれていこうとしている、この時代にあって、私たちは改めて召されています。閉ざされていこうとする現実の中で、離ればなれにさせられているこの時の中で、しかし聖霊は私たちを包み、ひらかれていく者としようとしてくださり、祈りによって結び目を再発見し、交わりを保ち、使命を探る道を備えてくださるのです。
 目で見え、手で触れた交わりの時に見えなかったものを、目の前に互いが見えなくなり、手で触れられなくなった今こそ、新たに気づき、受け取り直すことができるように、私たちは、より深い交わりへと招かれ、まだ見ぬ世界へとひらかれていこうとしているのです。 
「主の十字架を思い、主の復活をたたえ、主のみ国を待ち望み、主にあってわれらは生きる。」マラナ・タ 主のみ国が来ますように。
                           


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