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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
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Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
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週報巻頭言
週報巻頭言 : 未来の故郷 ヘブライ人への手紙11章1-2、13-16節
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2020-05-10 09:28:11 (23 ヒット)
週報巻頭言

◇今年もまた召天者記念礼拝を迎えました。教会が歴史を重ね、時を刻んでいく、というのは、愛する家族や兄弟姉妹、共に信仰生活を育んだ仲間たちを天に送っていくという、この厳粛な事実を教会という共同体の中に引き受け、それを積み重ねていくことを意味しています。そのことを通して、教会は観念的にではなく、現実の悲しみ、別離の痛みを共に経験させられながら、だからこそ、また現実の慰めや交わりの深みを共に与えられ、「生ける者と死ねる者との神」を一緒に仰ぎ見る教会となっていくのです。これら「先に天に召された方々」の信仰と人生をいただきながら、私たちは共に「生ける者と死ねる者の神」と触れあい、教会が決して生ける者によってのみつくられている交わりではなく、天に召された者によってもまたつくられてきた群であることを知らされるのです。すなわち、教会は、「生ける者と死にて主に委ねられたる者」による教会なのであります。
 本日は、改めて「生ける者と死せる者との神」の前で一つの市川八幡教会であることをおぼえ、感謝をもって礼拝を捧げたいと思います。

◇ふつう「故郷」とか「ふるさと」と言うとき、私たちは過去の経験や場所のことを想いみるのです。しかし聖書は、「ふるさと」は未来にあると教えてくれます。私は、マイノリティ宣教センターにお関わりし、「エスニックマイノリティー」すなわち外国籍住民として日本社会に生きている方々と向かい合う機会を多く与えられています。それらの方々とお関わりする中で、いつもそれらの方々の深い悲しみとなっているのが祖国の問題・故郷への想いだと感じさせられています。また、ガンバの会が出会っていくホームレスの方々、元ホームレスの方々の深い喪失体験として「ふるさと喪失」「家族喪失」という問題があることも存じています。「ふるさと」「故郷」をめぐる想いは、人間にとってもとても大切なテーマであり、また人間の悲しみや痛みの要因の中には、ふるさととかアイデンティティーへの苦悩があるのだろうと感じさせられています。人間はそのように自らのルーツに想いをよせ、場所ないしは過去の経験としての「ふるさと」に想いを寄せ、場合によっては、その過去の経験と闘いながら生きることもあります。

◇「過去に目を閉じる者は現在が見えなくなる」と語ったのはドイツのヴァイツゼッカー元大統領でした。それは人間にとって大変重要な真理です。しかし、私はこの言葉を借りながらもう一つのことを聖書から聴き取りたいと思うのです。それは「将来に目を閉じる者は現在が見えなくなる」というもう一つの真理についてです。
 ヴァイツゼッカーさんが言うように過去と現在の関係について目を開かれることは大変重要なことです。それは歴史に学ぼうとする大切な姿勢です。しかし過去と現在の関係に目を開かれた人も、将来と現在の関係については極めて無関心であるという姿勢では不十分なのです。宗教、特にキリスト教が人間に問いかけているのは、「将来や未来と現在の関係に目を開かれよ」ということなのだと思います。過去をいろいろと問題視して因果・因縁をとかく扱う宗教がありますが、私は、宗教の大切な役割とは将来を語るものであって、未来を語らなくなった宗教はもはやその命が失われて行くに違いないと思うのです。 キリスト教信仰の核心の一つは、希望にあり、約束にあります。招詞の黙示録で聞きましたように、神はこの世界を新しく装ってくださる。苦しみも悲しみも痛みも、そこでは完全に癒され意味づけ直される。神さまのご支配のもとで「いのち」が扱われ、人間が苦しんできたあらゆる分裂や分断が和解させられていく。そういう結末、そういう完成の時がある。神がそのように約束してくださった。この包括的な救いの約束に聴きながら、生きるという生き方が「キリスト教的生」なのです。終末論的な生き方といいます。
 つまり、聖書が私たちに呼びかけてくれている人生の生き方や物事の捉え方は、「あなたのふるさとが未来にある」、そのような者として生きて行きなさいということです。

◇本日の聖書・ヘブライ人への手紙11章は、聖書の登場人物たちを「更にまさった故郷を求めて歩いた人々」だと言い表します。父祖アブラハムも神ヤーウェの召しだしを聞いて出発に出発を重ねた人でしたし、出エジプトを率いたモーセもそうです。「荒野の40年」という出エジプトの歴史の本質は、真にたどり着くべき「ふるさと」を未来に探し求めた旅にあります。出てきたところではなくて、更にまさった(もっと良い)ふるさとを探して進んでいくのです。アブラハムもモーセもそれを探したのです。そして聖書はこのような姿を信仰と呼んでいます。だからといって、その「真のふるさと」に生きていてたどりつくことができるかどうかはわからないのです。
 たとえば、モーセの場合、彼は結局「約束の地」に入っていくことは叶えられませんでした。しかし、モーセは、ヨルダン川の手前にあるビスガの頂に登って、約束の地を眺めた。そして約束の地を見て生きてきた自分を主に委ね、感謝してこの世の生を終えていきます。
 M.Lキング牧師。キング牧師といえば、あの歴史的なワシントン行進での演説が有名です。「わたしには夢がある。いつかジョージアの赤い丘で奴隷の子孫と奴隷所有者の子孫が同じテーブルにつくという夢が」という演説をしましたが、あのワシントン行進の前夜に行われたバプテスト教会の礼拝説教で「私は、既に山頂に登り、約束の地を見ました」と語っています。黒人差別は暗然としてアメリカ社会にはびこっており、またキング牧師への恐喝と暴行とはひっきりなしに続いていました。その中で語られる「既に山頂に登り、約束の地を見ました」という言葉は、まさにイエス・キリストがうち立ててくださる真実があるから、その未来の約束とそこに立つ真理を知っているので、あたかもそれで十分であるかのようにして、今をその真理によって生きようとした者の姿だったのではないでしょうか。
「I have a dream・私には夢がある」。それは、彼キング氏の個人的な夢なのではなく、神のみこころと神の真理の完成のことを語っているのであり、それこそがキング牧師のふるさとであり、虐げられている黒人たちも、虐げている白人たちも、やがて共に迎えられていくべき「ふるさと」であったのです。ふるさとは真の和解の場であるとも言えます。
 その「ふるさと」はまだ見ぬものでした。しかし、「信仰とは望んでいることを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」とあるように、見ていないものを「見たもの」として生きることであり、そして見えるものに目を奪われない生き方のことです。そして全ての事柄の背後に神を見、あるいは全ての事柄の先に(未来に)神を見ること、これが信仰だというのです。これが求めるべきふるさとであり、探すべきふるさとであり、進むべきふるさとなのです。
ふるさとは神の約束にあります。そして、アブラハムもモーセもまた例えばキング牧師も、未来に約束されているふるさとを求めることを通して、人生の頂にたってその約束を眺めることを通して、現在を見る眼に大きな変化を与えられた人々、今を生きる生き方に重大な変化をもたらされた人々であったのです。

◇本日、私たちが追悼する先達・先輩たちも、ふるさとを未来に探す信仰によって、生き方を変えられて行った人々だったのだと思います。
「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。」私たちがよく知る汽灰螢鵐13章は、私たちにとって永遠のものであり、人間を支え続ける大切な力が三つあることを教えています。これらは、人間の現在の在り方や生き方を変えてくれる力でもあるのです。
 信仰を持つことができないと、見えなくなる今のことがあります。信仰によって見えてくる今、信じることによって変えられる今があるのです。
 希望が見えなくなったときに、見えなくなる今のことがあります。希望によって見えてくる今、希望によって変えられてくる今があるのです。
 愛が冷えてしまうと、見えなくなる今のことがあります。愛によって見えてくる今、愛によって引き起こされる今があるのです。
 そして私たちは、この信仰と希望と愛を与えられていくためにイエス・キリストを仰ぎ見なければならないのです。イエス・キリストをよく見つめる時にのみ、信仰と希望と愛とは私たちの中に知らされ、宿らされていくのです。イエスのことば、イエスの業、イエス・キリストの愛と約束こそが、わたしたちの真のふるさとに関わりがあります。
 私たちは、いま・ここを生きているものです。しかし、いま・ここを生きる歩みの道は未来の故郷につながる道、未来からつながり込んでいる道なのです。
        


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市川八幡キリスト教会 千葉県市川市八幡2-1-10 電話047-332-5197
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