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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
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Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
週報巻頭言
週報巻頭言 : 主イエスの御名によって 使徒言行録 3 章 1-10 節
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2020-05-17 09:07:45 (19 ヒット)
週報巻頭言

◇エルサレムに、生まれながらにして足の不自由な男がいました。家族親戚の者たちは、 彼を毎日人通りの多いエルサレム神殿の参道に置きに来ました。そして、物乞いをさせま した。言うなれば、彼もそれなりに「稼ぎ手」なのです。というより、ただ寝ていること を許されなかったのだろうと思います。そんな男をいつも目にしていたエルサレムの住人 たちは、もうほとんど彼に見向きもしなかったでしょうが、初めてエルサレムに巡礼に訪 れた人々などは、気の毒に思って金をめぐんでいたのでしょう。一瞬の同情心、あるいは 憐憫の思い、その反面、なんとなく感じとしまう負い目の気持ちとを、金をめぐむことに よって荷を下ろすようにやり過ごす。そのように、この両者の間に「金銭」という割り切 るための道具が挟み込まれているのです。声を掛ける代わりに、金で済ます。語り合う代 わりに、金で済ます。知り合いになる代わりに、金で済ます。独特のディスタンス(無関 係であるための関係)。日々、そのディスタンスに実を置かれることを通して、この座り 込んだ男は、茶碗に金が投げ込まれる音を聞く「幸福」(しあわせ)を、魂に刷り込まれ続 けていたのではなかったでしょうか。それが自分なのだ、と。 日々、多くの人々が彼のことを見ています。目にしています。でも、彼を「見つめる」 人はいなかったのです。人々の往来の中に置かれていながら、人間の関わりは遮断されて いる。そういう関係、そういう存在なのです。 ここには、「人間の孤独」というテーマが横たわっており、また日々の習慣や習性の中 で真の自分を見失っていく「自己喪失」の問題が潜んでおり、そして人間と人間の関係の 間に金銀・金銭が介入し、人間のつながりを実態のないものにしてしまう「関係阻害」の 実相が如実に示されていると思います。こうした人間同士の「無縁性」の問題は、地域社 会が崩壊し、格差によって人間が分断されている今日の日本社会にとって、「無縁社会」 とさえ呼ぶことのできる今日の日本社会のにあって、かなり身近で、つまりかなりの人に とって(足が不自由かどうかは別として)身近な問題であり、深刻な問題であるといえるの ではないでしょうか。 ◇さて、その日、ペトロとヨハネが神殿で祈ろうとしてやって来て、この人のそばを通り かかります。この男は、いつも、どの通行人に対してもするように施しを乞いました。 「数 打ちゃ当たる」ではありませんが、うまくいけばそのあと「チャリーン」という音が返っ てくることを期待しました。しかし思ってもみなかったことでしたが、返ってきたのは呼 び掛けの声でした。「わたしたちを見なさい」。驚いて顔を上げますと、その二人が自分 をじっと見つめています。「いったい何がもらえるのだろうか」。すると一人の男がこう 言ったのです。 「あいにくわたしには金銀はないのだ。しかし、持っているものをあなたにさしあげよう。 ナザレ人イエス・キリストの名だ。彼の力を帯びて、さあ立ち上がり、歩いていきなさい。」 呆気に取られました。思いもかけない言葉、思いもしない関わりがぶつかってきました。 見つめられているではありませんか。呼び掛けられているではありませんか。そんなこと、初めてだったのです。
◇募金、カンパ、支援金。多くの活動は、そうした人々の志や協力によって確かに成り立っています。
状況を改善、打破していくためのプログラムや運動についての資金的な参加ですから、われわれ市民が
参加する活動を展開するための有効な方法でもあろうと思います。しかし匿名性をも持つそのような行
為の中には、他方で、お金を届けることでそれ以上の関わりを免罪させていただく、という、ある意味
では「無縁性の継続」「無縁性の連続」もはらんでいくことも事実であります。「せめてできることをさ
せていただきます」という思いと、「これ以上の関わりは申し訳ないです」という両方のことはどうして
も人々の中に起こってしまいます。あるいは「格差社会の構造の問題として問題はよくわかりますが、
具体的な一人に対して具体的な私一人ではどうすることもできないのです」という感想も、まさにそう
なのかもしれません。支援すること、カンパすること、そこにはそうしたジレンマをも含まれているこ
とを(この際)心に留めておきたいと思います。 ◇そうした複雑な社会構造の問題をかなり剥ぎ取り、直裁な姿で「人間の関係」を見つめ 直させてくれるのが、ペトロとヨハネとこの男性の出会いの出来事だと思います。 この男は、常に、「施しの金をいただきます。しかし、それ以上の『ご縁』をどなたさ まからも受けようとはいたしません」という孤独の枠の中に閉じこめられて生きていたの です。そんな彼の中に、いままで聴いたことの無い言葉が飛び込んでくるのです。「私た ちを見なさい」という言葉です。「えっ」と聞き直したくなる言葉だったと思うのです。 そして彼が顔を上げたとき、その声の主がすでに自分をじっと見ていたのでした。 ペトロは、この男のことをじっと見つめました。彼を知っていこうとしたのですね。そ して彼と生きていこうとしたのですね。彼を生かすことに関わりたいと思ったのですね。 ですから、「わたしたちを見なさい」と言うのです。自分も彼を見つめながら。 すぐさまに、ペテロは言います。「わたしには金貨や銀貨はない。けれども私たちにあ るものをあなたにあげよう。キリストであるナザレのイエスを身に受け、立ち上がり、歩 きなさい。」テキスト本文は、「キリストの名によって」と訳されています。これは、「こ のイエス・キリストという名前は奇跡を起こすための呪文だ」と言いたいのではありませ ん。ナザレのイエス、この人は、あなたを慈しむ。この方はあなたに語りかける。この方 はあなたを立ち起こさずにはいない。あなたに救い主であるナザレのイエスを知って欲し い。そう言っているのです。 「ナザレのイエスという方。この方は、あなたが抱えてきたような孤独、あなた自身がも しかしたら麻痺してしまっているかもしれない悲しみ、その深みにいつも突き進み、じっ と見て、その手で触れられて、心に届いて行かれて、悲しみや苦しみと共に闘って、そし てそれらの人々を立ち上がらせて行かれた。私たちはそんな人を知っている。その人は、 いま、ここに生きていて、いまあなたを愛おしみ、あなたに接近している。そうだ。彼が あなたに関わるので、そして彼の名をここで呼び合う私たちもあなたに関わりたいのだか ら、あなたはもはや誰とも無縁なものではない。キリストと共に生きよう、またナザレの イエスの名のもとで私たちとあなたは共に生きよう。」 ペトロとヨハネは、彼にそう呼び掛けたのです。そう呼び掛けて生きる人に、すでに変 えられてしまったのです。 「私にあるものはこれだ。私たちに残されたものはこれなのだ。主イエスからの断固とし た縁結びなのだ。十字架さえをも引き受けてくださった縁結び。その主イエスはよみがえり、私たちを引き離す力を打ち破り、どんな壁も突き抜けて、共にいてくださる。私には、 金銀はないし、また金貨や銀貨であなたとの関係を済ませてしまおうと思わない。ナザレ 人イエス様を身に受けて一緒に生きよう。」ペトロとヨハネが、この日この男に語りかけ た言葉にはそのようなメッセージがあったのです。 ◇人間が立ち上がる力は「やはりここにある」と信じたいのです。一昨日のガンバの会の パトロールで、コルトン前で出会った女性に鹿島さんが声をかけると「お金ならもらう。 お金以外はいらない」と言われたと、しょんぼりと話してくださいましたが、冷めすぎて しまった心がどのような言葉を表面的に語らせていたとしても、人間が立ち上がる力は「つ ながり」にあると信じていきたいと思います。 人が人から見つめられ、見つめ返す人ができる。人が人から必要とされ、「一緒に生き ていこう」と言ってもらえる。そういう繋がりがあるときに、人は立ち上がることができ るのであり、またそういうものが断たれてしまったところでは、人間は立ち上がることが できないのではないでしょうか。やはり、そうなのではないでしょうか。 長い間、この物乞いの男は、暗示にかかり、忘れてきただけなのです。本当に欲しかっ たものについて。彼は、ほんとうは小銭が欲しかったのではないのです。自分を見つめて くれるまなざし、愛されてみることで魂が動くこと、何より自分が生きてきたことの価値 を知らせてくれる祝福の言葉を何年も何年も待ち続けていたのではないでしょうか。 人間というものが立ちあがったり、起きあがったり、歩み始めたり、これは足の筋肉、 股関節やくるぶしの問題である以上に、魂の問題なのではないでしょうか。魂の問題は、 関係の問題。魂の問題は交わりの問題。きっとそうなのです。 でも、このような魂の交わりをすること。このような人を見つめて「一緒に生きよう」 と語り抜いていく力は、残念ながら、弱い私たちの中からは出てこないです。特に自分が へこたれているときには、自分のことだけで精一杯です。時々、へこたれてしまう自分で あることもみんな自覚しています。でも、ただ一人、主イエスさまは、私を見つめ続ける ことのために、ゲッセマネで杯を受け、ゴルゴタに歩まれ、十字架で死なれました。どの ような苦しみや悲しみの中にあるときにも、上からではなく、同じ場所からわたしを見つ めることができるために、彼が背負われた苦しみであり悲しみであったのです。その主イ エスの私へのまなざし、それだけでなく「私を見てご覧なさい」とおっしゃってくださる 呼び掛け。この言葉によって、私たちはまず自分自身立ち上がることができるものとされ ていきたいのです。 私たちは、この 1 〜 2 ヶ月の逼塞状況を見に受けて、人間の言葉、人間の行為(かかわ り)のあまりの無力さを思い知らされています。ばらばらにされ、閉じこめられながら、 何にもできない自分の弱さに直面させられています。でも、かろうじて、私が仲間たちに 届けることのできる言葉があるとしたならば、「イエスさまの名によって元気でいてくだ さいと祈ります」という言葉です。「インマヌエル、神共にいます、この名を持つイエス さまがどうかあなたと共にいてくださいますように」という挨拶です。そして、教会が何 もできていない時だけれど、私たちは「イエス・キリストの御名によって、私たちは結ば れています。」という信頼です。 私たちはいま改めて知らされています。主イエスの御名だけが、私たちに「ある」もの なのです。


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