はじめての方へ
メニュー


このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The
Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
週報巻頭言
週報巻頭言 : 聖霊はいつも傍らに ヨハネ福音書16章4b-15節
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2020-05-31 09:18:31 (118 ヒット)
週報巻頭言

 今日はペンテコステです。「聖霊降臨日」です。
 招きの言葉で朗読していただきましたように、主イエスの十字架と復活を経験した弟子たちが、十字架の出来事から50日目に注がれた聖霊を受けて立ち上がり、福音の宣教のために進み始めた転換の日です。この出来事こそが「教会の誕生」だと言えます。
 生前にイエス様が約束していてくださったように、聖霊が弟子たちにくだったとき、弟子たちは思いもよらない変化を与えられました。イエスが十字架につけられていくときには、蜘蛛の子を散らすように逃げていった弟子たちが、復活のイエスによって再び集められ、力づけられ、聖霊の降臨によって堅くされ、立ち上がり出かけていく人々へと変えられました。逮捕の場面では「三度イエスを知らない」と重ねて否定したペテロも、聖霊を与えられることによって堂々と証しを始めています。「ナザレ人イエス、あの方が救い主である。自分はその復活の証人であり、イエスの名によって生きているのだ」と証言するへと変えられていきます。いったい何が起こったのでしょうか。その変化はどのようにしてもたらされたのでしょうか。容貌が変わったのではない。肉体が変化したのでもない。自信がついたというのでもない。いわば霊的に変えられたと言わねばならないのです。それはどういうことなのでしょうか。

 今日は、ヨハネ福音書から聖霊降臨のことを見つめています。ヨハネ福音書は、13章からは、逮捕を間近に控えたイエス様が、読んでいて切なくなるほどに弟子たちを愛され、彼らの足を洗い、心をくだき、思いを尽くして、たくさんの遺言を語られていきます。そしてその「遺す言葉」の中で繰り返し、イエス様は、助け手・聖霊のことを伝えています。まもなく自分はあなたたちの前から取り去られるだろう。それは悲しく寂しいことに思われるだろうが、あなたたちにとって、実は良いことなのだ。目に見える存在としては、あなたたちの前からは取り去られるけれど、わたしが取り去られることによって、弁護者、聖霊の助けがあなたがたのところに来て、あなたがたの目を開き、道を示し、導いてくれるのだ。それは真理の霊だから、わたしのことば、わたしの業の真意を悟ることができるように導いてくれるだろう。そのようにおっしゃったんですね。
 14章16節以下にはこうあります。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は真理の霊である。」
 イエス様は弟子たちに「『弁護者』『助け手』を送ろう。それは真理の御霊である。」とおっしゃいました。ここで「助け手」「弁護者」として訳されている語は、ギリシャ語で「パラクレートス」といいます。言語的ニュアンスは「そばで呼びかけるもの」という意味です。
 そうです。私たちが聖霊をいただくということは、常に私たちが「そばで呼びかけられる何かによって生きていく者にされた」ということを意味しています。これは、人間像といいますか、生き方を考えるときにとても大きな意味を持つように思えます。神様はいつも聖霊を通して人間に呼び掛けていて、人間とは、その呼びかけの声を聞きながら生きる者なのである、ということです。
「自分が自分が」「自分で自分で」と肩をいからせ、自我を発情させて生きるのでなく、また「自分に自分に」「自分を自分を」と利己的に生きるのでなく、常に、私という人間は、そばで呼びかける某かの声に心を開いて、耳を澄まし、感じ、考え、決断し、生きるものとなるのです。人間が霊的であるとはこういうことです。即物的ではなく、唯物的ではなく、利己的ではなく、霊的であるということはこういうことです。霊的であるとは自己陶酔的な生き方をせず、常に隣人性を持ち、関係性を持ち、できるかぎり利他的であるということです。
 聖霊は、イエス様のことばにあるとおり真理の御霊です。イエス様を捧げてくださった神様のみこころの霊ですから「愛の霊」です。ですから、私たちは、聖霊を受けることによって「真理から呼びかけられ」「愛から呼びかけられる」生活に導かれていくというのです。それは、私たちがどのような場面にあっても、その場面の中で真理を呼びかけている何かがそばにあり、どのような時であっても、その時に「愛に生きてみなさい」と呼びかけている何かがあるということです。
 毎日毎日悲惨なニュースに顔を曇らせているわたしたちですが、新コロナウィルスの霧の中に閉じ込められているようなわたしたちですが、そのわたしたちになおも「神さまのみこころを仰ぎなさい」「愛に生きてみなさい」と呼びかけ続けている何かがわたしたちの傍らにはあるのです。聖霊を受けるとはそういうことです。霊的に生きるとはそういうことです。
 今、この時代。こうした人間の傲慢と愚かさが如実に現れている時代、そしてそれにたいしてあまりに弱い自分自身を感じ、歯がゆくてしかたがない現実もあります。しかし、わたしがどうであろうと「傍らにあって呼びかけてくる助け手」を主イエス様が下さるという約束があり、事実ペンテコステを通してそれは私たちに与えられているということを憶えることができることは何と幸いなことでしょうか。私たちには「助け手」がそばに与えられているのです。私たちがどんなに自分に閉塞しようとも、「呼びかけ手」が私たちの人生にはいつもかたわらに居て、私たちを導き続けてくれているのです。

 弟子たちは、ついにペンテコステの日を迎えます。主がおっしゃったとおり、聖霊が降ったとき、弟子たちの目は開かれていきました。弟子たちは知ったのでした。主の十字架の意味・自分自身のために主が命を捨ててくださったという愛の真実のことを。そして、また復活の力について。彼のよみがえりは、自分自身の命がそれに与るものとされた印だということを。そして主イエスがそうであったように、神の国の約束をあらゆる人に伝え、この世の力の支配のもとで人間の尊厳・霊性がないがしろにされている人々に、解放の約束を伝え、交わりの素晴らしさを伝え、神様の愛に支えられ希望を持って一緒に生きよう、と呼びかけていこう。大きな声で語らずとも、人々の心に触れるようなまごころからの言葉で(心の耳元で)ささやこう。弟子たちは、そのように、世界(というかまずは身近な隣人)に目が開かれ、イエス・キリストを宣べ伝える動機を与えられていきました。
 何を信じ、何をなぜ、どう伝えて生きていくか。新しい確信と生き方が示された。それがペンテコステの日に人々に起こった出来事でした。教会の誕生、それは十字架と復活の信仰がはっきりとし、人々の解放のために働く目的がはっきりとし、心が燃え始めた日のことを指しています。
 わたしたちの信仰生活は、そして市川八幡教会の歩みは、わたしたちが始めたのではなく、聖霊によって信仰へと導かれ、聖霊によって生み出されました。わたしも教会も、今も聖霊に助けられ、守られています。聖霊に支えられています。教会は聖霊に呼びかけられ、また、とりなされて福音宣教を進めていきます。イエス様は、今も私たち教会と共にいてくださいます。教会と共にいる、それは福音宣教の業(解放を宣べ伝える出来事)と共にいてくださるということです。わたしたちは、傍らにいつもいてくださる聖霊に呼びかけられながら、この世にあって、そしてコロナの霧の中にあっても、「霊的」に生きていたい、生きていきたいと思います。

                                   了

                         
 
 


印刷用ページ 

市川八幡キリスト教会 千葉県市川市八幡2-1-10 電話047-332-5197
Theme Desinged by 工房ヒラム