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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
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週報巻頭言
週報巻頭言 : ふろしきの中身は不純で多彩 使徒言行録10章9-16節
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2020-06-07 09:14:29 (39 ヒット)
週報巻頭言

  ジョージ・フロイドさんが手錠をされた上に、白人警官から膝で踏みつけられ、「I can't breathe / 息ができない」と呻きながら、まるで虫けらのように殺されていった米国ミネアポリスでの事件を発端に、全米で人種差別へのプロテストデモが勃発しています。黒人たちは、いまほんとうに怒っています。繰り返し繰り返し、あちらこちらで、ただ黒人という属性にあるというだけで、いたずらに危険視され、非人間的に取り扱われ、暴力を振るわれ続けていく。いつ、誰が、黒人だというだけで、白人では無いという理由だけで、道端で踏みつけられ、殺されるかわからない。「もうじゅうぶんだ。もうまっぴらだ。もはやジョージ・フロイドの事件ではない。一人の白人警官の事件ではない。アメリカ社会の事件だ。すべての黒人とすべての白人の事件なのだ。」そのような叫びがうねりとなり、黒人たちだけではなく、その怒りに共感をおぼえる人々を、何より多くの若者たちを駆り立てています。その痛みと叫びの共感、自分のこととして自分自身を奮い立たせながら連結されていく人々の魂の波を、トランプ氏は「暴動」と呼び「暴徒」と呼び「略奪者」と呼んで侮辱し、敵視し、それらを武力・暴力で鎮圧・制圧する自分への支持を得ようと、わざわざ由緒ある聖ヨハネ教会の前にテレビを連れていき、その教会の前で聖書を掲げて正統性を誇示しようとしました。稚拙で愚かしい行為だと思いますが、トランプさんがそのようにしようとしたのは、それまでアメリカ社会は、神の名を持ちだして自己正当化することに成功してきたのです。
 ベトナム戦争に突入するときにも、湾岸戦争を始めるときにも、そしてアフガニスタンやイラクを攻撃を開始するときにも、アメリカの大統領は大衆の面前で祈って見せました。テレビの前で祈って見せました。そして、「アメリカ」は感動し、そこに「御心」と「正義」と「大義」を確信し、無残な殺戮へと進んでいきました。「ゴッド・ブレス・アメリカ」アメリカこそが神の御心の国であると、いつもそれを背に、世界の戦争にいつも必ず首を突っ込み続けてきました。その責任の一端が、そうした大統領の祈りのパフォーマンスにあるとするならば、後の世に対して、なんと罪深い祈りが捧げられてきたことでしょうか。そしてこの祈りは、ほんとうに神とつながる祈りであったのでしょうか。それとも聖霊を冒涜する行為であったのでしょうか。
 福音派の人々は、特に南部バプティスト派の人々は、アメリカの白人至上主義や男性至上主義に固執し、あるいは銃の所持の規制には徹底して反対し、国際的にはイスラム勢力と対峙することに常に賛成をしてきたのです。排外的かつ暴力的な社会の形成に拍車をかけてきました。そもそも南北戦争とは奴隷制度を改めようとする北部と、あくまでも奴隷所有を続けようとする南部とに別れて争った戦争ですが、その南部側のキリスト者勢力、福音派と呼ばれる勢力の中心に、いつも(わたしたち日本バプテスト連盟の伝道母体となった)米国南部バプテスト連盟は位置してきました。南部バプテスト連盟は、今なお、女性が牧師や宣教師となって信仰を導くポジションに就くことを禁じ、性的マイノリテイーの存在を忌避し、教会の中に存在することを拒んでいます。
 そのような南部バプテスト連盟でさえ、今回のトランプ氏の「教会の政治利用」についてはさすがにあきれ、「同意できない」との声明を出し、また「人種差別は改められなければならない」と表明しています。しかし、いったい差別というもののどこまでがだめで、どこからは良いと言っているのでしょうか。黒人差別はだめだけれども、女性の地位は男性ほどに高められてはならないというなら、性的マイノリティーは絶対に認められないというなら、その境目に何があるのでしょうか。その境目にこびりついているものの中に、その信仰体系の本音があるように思えてなりません。潮目の悪いトランプ氏に「見切りをつけること」は、決して悔い改めることではありません。それは不利な要素を切り捨てて自分たちは安全な場所に逃げていくことです。そうだとしたら、「人種差別は許されない」と福音派が表明したとて、それはトランプさんがしてしまった「世論操作」へのすり寄りと本質的には変わらないのではないでしょうか。
 いったい、いま、アメリカ社会は、何を、どこから、どこまで戻って問い直すことを求められているのでしょうか。いいえ、これはアメリカ合衆国にかぎったことではありません。「他山の石」ではないのです。人種差別、民族差別、障がい者差別、貧困者差別、性の違いによる差別はこのわたしたちの日本社会の中にはびこっていて、今回の新コロナ禍でもそうですが、社会にストレスが加わるととたんに「境目」を剥きだしてきます。やっぱり社会的弱者や貧困者は感染のリスクが高いですし、支援からも遠いのです。沖縄の人たちは、どうしてああも顧みられないで放置され続けるのでしょうか。3月末には岐阜でホームレスの老人が5人の若者たちによって殺されましたが報道されませんでした。なぜ放置されるのでしょうか。わたしたちは、わたしたち教会は、「アメリカ」と共に、どこまで遡って自らを問い直し、悔い改め(変革へと向き直る)ていくべきでしょうか。聖霊は、誰に、どこに風を送っているでしょうか。誰が、その風を受けて動き出していくのでしょうか。
 
 ペトロが見た幻はかなり「えげつない」幻でした。神さまの御心、聖霊がペトロに見せた幻は天からふろしきが降りてくるシチュエーションでした。空腹を覚えながら眠りに落ちてしまったものですから、食べることに関係した幻を見てしまったのでしょう。天からふろしきが降りてきて開いてみると、そこにはユダヤ人が律法で食べることを禁じられている動物、地と海と空のあらゆる動物が入っていて、「それを料理して食べなさい」との声が聞こえたのじてす。「私はまかりなりにもユダヤ人です。そんな汚れたもの、卑しいものは食べられません。」と答えると、「誰が汚れを決めるのか。誰が卑しいと決めているのか。神が清いとするものを、神が素敵だとすることを、あなたが勝手に毛嫌いしてはならない」と、そのように叱られる幻です。
 これは、ペトロに、どこから問い直させている幻でしょうか。「好き嫌いをやめなさい」という話でしょうか。嫌だと思うものもがまんして食べられるようにならないと外国人とおつきあいできないよ」という話でしょうか。「外国人の食文化に理解と配慮をしないと外国人観光客が来てくれませんよ」という話でしょうか。そんな上から目線で他人を認めてあげる変化、他人のためにがまんしたり配慮しよう社交儀礼の話でしょうか。そうではないと思います。もっと根本的な捉え直し、抜本的な変革の話です。ペトロ、あなたの、その異邦人に対する先入観はいったい誰がいつおまえに教えたのか。なぜそんなふうに学んでしまったのか。どうして自分を清いと思いたいがために他者を不純だと考えようとするのか。自分の中にある純・不純のものさし、善と悪のものさし、清い・汚れてる、普通・おかしいのものさし、それそのものを全部取っ払ってみなさい。そして、聖霊が起こしてくださる出会いを、まさに出会いとして、その都度、そこでイエス・キリストの心を尋ねて、新しく、大胆に、生きていけるようになりなさい。そのために、いつも自分は不純でしかないと知りなさい。どのみち、人間は誰もが不純なのであって、純粋というものをどこかに決め込み、純然たるものを自分が手にしているかのごとくに間違ってはならないのだ。みな純粋ではない。不純で不完全だ。そして複雑でもある。誰一人として同じ人はおらず、実に多彩だ。同じ単純な言葉やパスコードで言い表せる存在ではない。だからこそ出会い、つながることで、お互いの色彩が広がったり重なったりして、新たな色合いを出すのだ。その出会いと重なりの中で「予期せぬ発見」をしていくというところに、まさに驚くべき恵みが立ち現れてくるのだから、そして、聖霊はそれを、これからペトロ、あなたに引き起こしていくのだから、出会いを楽しめ。そうだ、世界は神さまのふろしきだ。あなたの人生もまたこの神さまのふろしきの中にある。そのふろしきの中身は、あなただけが入っているのではない。あなたがあなたのままずっと変わらず保たれていける世界でもない。あなたは大切な存在だけれど、同時にあなた以外の人々も神の前に尊くかけがえのない存在で、その違うけれども尊い者同士が、出会って、一緒に生き、一緒に存在しながら、神さまの世界を生き生きといけることができるように、ふろしきは、そのような広がりを持ち、ふろしきはそのような包み込みをする。「神さまのふろしきの中身は不純で多彩で豊かなんだよ。」幻はそう言っているのだと思います。

 ジョージ・フロイドさんは「I can't breathe 息が出来ない」と呻きながら、その呻きを繰り返しながら息絶えていきました。新コロナのせいで息が出来なかったのではありません。もっと恐ろしいウィルス、人種差別というパンデミックによって、息ができずに死んでいったのです。
 聖霊は風です。聖霊は息のようです。わたしたちに平安な息、「安息」をもたらせようとする神の息です。わたしたちは一緒に安らかな息を吸って吐いて生きていくために結ばれていこうとしているはずなのです。
 もし誰かが、「わたしは、ここでは、息苦しいです。ここでは、息ができません」と言っていないかどうか。わたしたちのこの社会で、そして教会ででも、誰かが息苦しくなっていないかどうか。そしてその声を聴いたならば、「わたしたちは息苦しいです We can't breath」と感じることができるかどうか。「息をあわせる」「息をあわせてみようとすること」、その「息づかい」は、聖霊を受け、聖霊に導かれて生きていきたいと願っているわたしたちにとって、とても大切なことなのではないでしょうか。
                                了


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