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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
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週報巻頭言
週報巻頭言 : 聖霊と共に呻くとき ローマの信徒への手紙8章18-26節
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2020-06-21 13:03:43 (146 ヒット)
週報巻頭言

 「新コロナショック」によって、私たちは思わぬ打撃と揺さぶりを受けました。仕事上、生活上、学業上の異変を強いられ、心身に得も言われぬダメージを被っています。抱えている不安の所在も輪郭も判然としないまま霧の中を歩んでいるようでもあります。
 しかし、そのような中、私たちは改めて明確に捉えるべきテーマをいくつも届けられているようにも思えるのです。
 その内の一つのことが、「私たちは今回のことを通して『人間や社会の安全保障』について考え直さなければならない」ということです。全世界に急速に新コロナウィルスが広がり、いわゆる「先進国」が軒並み機能不全に陥っていく過程を見つめながら、これまで莫大な予算を投じて配備してきたものが、この危機・このパンデミックに対してなんの役にも立たないものでしかないことを知りました。端的に言えば「武力防衛・武力装備」のことです。他方、この予算拡大・獲得のために削りに削ってきた医療インフラや人員削減、その結果として民衆が被った苦しみ・痛みは計り知れないものでした。また、そもそも今日・この世界の対立を深める原因となってきた「新自由主義」が、かなり脆(もろ)いシステムだということも、「マスクがなぜなくなるのか」というとても身近な事実から知らされたのでした。新自由主義も防衛戦略も、どちらも「だめ」でした。
 大切なことは、みんなが同時的に直面したこの事実をきっかけに、大災害や新型疫病の脅威に向き合う時代の「安全保障」を地に足をつけて考え直すことです。できれば、地域レベルの発想、人間の生活と日常活動の視点で考え直していくべきでしょう。国家や国防という次元になると、「わざわざ対立を煽り、事を難しくしておいて、対策に巨費を投じるような茶番劇的な悪循環」が起こってしまうのですが、そのような構造に、民衆・主権者たちの大切な財や能力を搾取され投下されてしまってはなりませんし、未来を創る力を削がれてしまってはならないのです。むしろ地方区域(地域)の中で機能する医療、地域の人間が地域の中で力を奮える福祉(扶助・共助)、地域の中で生産し提供し分かち合える「職や食」、地域の中で災害に備える防災・避難システム、それらを大きく保障していく国家の役割。「安全保障」というものを地域の再創造のビジョンから捉え直していくために、できるところから方向転換していったほうが良いと思います。
 「イージス・アショア」という肝いりの防衛計画が頓挫しました。危険を回避できず、採算に合わず、装備しても役に立ちそうにないから、という理由からです。与党内から撤回を求められても安倍首相が断念に踏み切るくらいですから、「無用の長物」さ加減が甚だしかったのでしょう。「日米安保の中身は要するに武器の『爆買い』なのだ」というお粗末な内容です。しかし、それはこれまでの「原発」事業という国策にも言えることでした。そして辺野古基地建設にも同様のことが言えます。
 軍港としての機能と3000メートル級の二本の滑走路を併せ持つ「本格的・恒久的な米軍基地」を辺野古につくるという計画は、とうの昔、1955年代には既に米軍のマスタープランの中にあり、1966年の海軍及び海兵隊の基地計画書の中には明記されています。それは隠されていましたけれども。1995年に「アメリカ兵少女暴行事件」をきっかけに沖縄県全域で県民全体が沸騰するかのように起こった基地撤去運動を受け、橋本政権とクリントン政権による合意事項として普天間基地の返還が決められましたが、それは代替基地の県内移設を条件とするものでありましたし、その移設先として、既に辺野古は決定済みでした。辺野古は貧しい、辺野古はベトナム戦争の頃の賑わいを取り戻したがっていると米軍は踏んでいました。しかし、辺野古住民を始め名護市・沖縄県民は何度も反対の民意を示し、辺野古基地建設のストップを公約にした玉城デニーさんが県知事当選を果たした直後の2018年12月より強引な埋め立て工事が始まったのです。ところが、埋め立てを始めからわかったことですが、辺野古沖の海底の土壌はマヨネーズのように柔らかく、7万7千本の杭を打ち込んでも70メートルまでしか届かない(軟弱地盤は海面下90メートルあります)不安定なものであることが調査でわかりました。それゆえ基地建設の工期は予定をはるかに超え、また莫大な追加予算を投じても確証のつかない建造物となります。「イージス・アショア」どころではありません。取り返しの付かない泥沼に入り込み、未来に対して、ぬぐうことの出来ない汚物を沖縄の海に残してしまうことになります。今は、まだ工事全行程の2%です。「もう始まってしまった」ではなく、「今なら傷を修復できる」。その今のうちにこの無意味な工事を断念し中止すべきです。
 報道はこの辺野古の海の土壌を「軟弱地盤」と表現しています。しかしそれは、「巨大な基地を建築する」という物差しで語るから「軟弱」と語るのであって、ちっとも悪いことではありません。「軟弱」なのではない。優しい地盤なのです。珊瑚の層を柔らかく支えている優しい土壌なのです。その珊瑚の浅瀬の海をジュゴンが泳ぐ暖かい地盤なのです。そしていま、その土壌、その地盤が、呻いているのです。「基地はいやです」と。「戦争のためにこの海を使わないでくれ。」「戦争や基地を、この海は受け止められない」と、そう言っているのです。
 今日読ませていただいた聖書ロマ書8章には、被造物の呻き、被造世界の苦しみのことが記されています。虚無に服しそうな、滅びへの道に隷属させられる自然世界が呻いているのだと。悪い力に利用させられ、神の祝福の姿を傷つけられている被造物世界がうめき声を上げているのだと。しかし、神の天地創造の思いを吹き込もうとする聖霊が、またキリストの愛と癒やしの思いを吹き込もうとする聖霊が、その被造物の呻きを共に呻き、その解放と回復のために一緒に呻きながら働いていてくださるというのです。「聖霊が共に呻いているとき」なのです。優しく柔らかく暖かい辺野古の海の地盤の呻きを聴き、その呻きと共に触れあって鳴いている聖霊の呻き声を私たちは、心に聴いていくべきではないでしょうか。
 神さまの御業を宣教できるのは人間だけだという思い違いをしないで、この自然世界、被造物世界そのものが神さまの御業を宣教していることに、私たち人間はもっと謙遜になって気づいているべきです。神さまの御業を証する大地や海は、時に呻くのです。時に叫ぶのです。大地そのものが、海そのものが、人間の不正義というか傲慢のために呻いていて、神に叫んでいるのだと。今日は、そのことを心に留めたいと思います。沖縄の海、辺野古の海のことを、私たちは、政治的なテーマのもとで見つめるのではなくて、神さまの創造の思い、聖霊の働き、そして神の御業の証、神の祝福の未来への継承のテーマとして見つめていくことが大切なことだと思います。
 新コロナの悩みに閉ざされる中で、私があたらためて大切なこととして知らされたことの一つに、この苦しみを共感し、互いにその痛さや痛みの裾野を慮り、共感していこうとする「共感力」の大切さだったと思います。このパンデミックの中に、奪われていくものの多さに、閉ざされていく事柄の大きさに、手が出せずどうにもならない不透明さに、私たちの誰もが悩み、不安に包まれ、またダメージを受けてきました。医療従事者の苦闘はテーマ化されましたけれども、実は誰もが苦闘を強いられていたのです。仕事と住まいとの両方をあわせて失っていく人々は、これから加速的に増えていくと思われます。「あなたは何が痛かったのですか。」「あなたはどのようにお辛かったですか。」その一つ一つの痛みに共感する力が、これから私たちがコロナ後の社会を創造していく上で、大切に身につけたい「能力」であると思います。
 相手の苦しい様子を聴いて「辛いね」と言葉をかける。沖縄の島言葉では、そのようなときに「ちむぐりさ(ちむぐるさ)」と言います。とくに沖縄のおばぁたちがよく口になさいます。漢字にすれば「肝苦しい」です。意味は「他人の苦しみ哀しみを知ったときに、自分の肝(きも・ちむ)・はらわたもその人と同じように苦しくなる」という感じです。沖縄の島言葉には、このように「感覚」を他人と共有しあう言葉がたくさんあります。
「肝・ちむ」「心の奥底」が振動するのです。標準語の「肝に銘じる」も沖縄口(うちなーぐち)では「肝に染みゆん(ちむにすみゆん)」と言います。心に刻みつけるのではなく、心を染めてしまうのです。「意識的にそうする」のではなく「自然とそうなる」のです。こういう共鳴、共振、共感が自然と染みるように伝わる感受性を暖かく育ててきた文化が沖縄・琉球にはあるのだと思います。しかし、そこにある悲しい歴史も理由の一つではないでしょうか。琉球王国は、歴史的に常に大国の狭間にあって脅され、略奪されながら生きて行かざるを得なかったのです。傷つけられ続けた人々の持つ痛み、痛んできたからこそ湧き出てくる優しさがあると思います。痛みを知るものが中から注ぎ出す共感力のようなものです。聖霊は、そのような痛みと呻きを捉える息吹です。
 イエス・キリストの心を映す聖霊は、強い方から弱い方に吹く風ではありません。主イエスがいつもそうであったように、ガリラヤからエルサレムへ、貧しい者から富んでいる者へ、虐げられた者から権力者へと吹き上げていく霊です。聖霊の風上には痛んでいる者から癒やしを送る風なのです。ジョージ・フロイドさんのことで全米で吹いている風もまた聖霊の呻き、聖霊の風道です。
 「命どぅ宝」。命がなにより大切。それは、神さまの創られた命を取り戻し、もういちど美しく再生しようとする聖霊の風の呼び声です。命を優先させなさい。命のために呻いている聖霊と共に、命のためにあなたも祈り、歩きなさい、そのような風に吹かれているのではないでしょうか。                               了


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