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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The
Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
週報巻頭言
週報巻頭言 : まなざしを向けるべきもの テサロニケの信徒への手紙一 5 章 12-22 節
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2020-07-05 12:15:29 (52 ヒット)
週報巻頭言

テサロニケの信徒への手紙から数回メッセージをさせていただきました。今日は、その
最終章 5 章から聴いて参ります。
テサロニケ伝道がどのような状況にあり、テサロニケの人々へのパウロの思いがどのよ
うなものであったのか、を聴きました。
またテモテを派遣し、派遣されたテモテがテサロニケで見たものは何だったのか。想像
力を働かせながら、迫害の中を懸命に生きている人たちの生き様を考えました。
今日の巻頭言の中では、迫害をするテサロニケのユダヤ人たちの「怒りの理由」、その
暴力の「出所」についても少し黙想・連想を書かせていただきました。
テサロニケはマケドニア州の首都、最大の街です。ローマのマケドニア支配の中心地で
あり、ギリシャ文明とローマ支配文化とが融合している街です。パウロたちがフィリピか
ら追い出され、この街に出会い、宣べ伝え始めたとたんに妨害を受け、支配当局に告発さ
れ、弾圧の最中に脱出していく様子が使徒言行録 17 章に記されています。テサロニケの
ユダヤ人たちの妨害と迫害は、かなり激しく執拗で、脱出したパウロたちを追いかけて来
たとさえ書かれています。なぜでしょう。「信仰的な理解」が許せなかったから(宗教的
動機)でしょうか。一概にそうとも言えないのではないか、という連想を巻頭言に書かせ
さいただいた次第です。
往々にして、歴史の中で引き起こされた「迫害」とは、信条の中身ではなく、政治的・
社会的な勢力問題とか利害問題への遺恨が原因です。そして、その背後に、もっと大きな
暴力支配があるので人間はそのように外部からの暴力を内在化させてしまうわけです。「聖
書に記された約束を待ち望んで学んできた人々」が、「聖書の約束の実現を喜んでいる人
々」を迫害するという悲しい矛盾、ローマの暴力が「律法や預言を学んできた人々」の内
部に持ち込まれ、内部の分断、内部の暴力を生み出してしまうのです。
こうした分断の力がうねり狂う世界の中で、福音を伝え、福音で生きようとしたのが初
代教会の人々です。押しつぶさんばかりに迫る圧迫の中で、繋がりをたぐり、結び目を強
くし、手紙を書き、それを読み、生きるための言葉を探し、何を信じればよいのか、何を
尊ぶべきなのか、何を守っていくのか、自分たちの社会の中にあって何を見つめるのか、
まなざしを向けるべきものは何なのか、そして誰に対してどのように働きかけるべきなの
か、を懸命に探りながら、祈りながら生き抜いていた初代クリスチャンたちを想像しなが
ら、聖書を、とりわけ新約聖書の諸文書を読んでいきたいと思うわけです。
本日お読みした 12 節には、「あなたがたの間で労苦し、主に結ばれた者として導き戒め
る人々を重んじ、また、そのように働いてくれるのですから、愛をもって心から尊敬しな
さい」とあります。これはテサロニケ教会の指導者たち、リーダーたちのことだとと考え
られます。指導者たちを重んじ、愛し、尊敬しなさい、と言うわけです。今で言うなら、
牧師を重んじ、愛し、尊びなさい、ということなのでしょうか。牧師、教職者、聖職者、
そういう教会の職制を大事にして、権威に基づく教会秩序を保ちなさい、そんなことを言
っているとは私には思えません。テサロニケにあってこの集団は、聴いたばかり、信じた
ばかり、集まり始めたばかりの信仰共同体です。パウロの証を聴き、聖霊に心動かされ、
イエスの十字架の意味に自分の人生を重ね、復活の福音から自分たちの人生を再解釈しよ
うとし始めた、その「宿った熱」「打ち直された心」に従って、妨害を受けながらも留ま
り続け、証をしていた人々こそが、ここで記されている「主に結ばれた者として導き戒め
る人々」のことです。
テサロニケ。暴力を恐れながらもその暴力支配を内在化させて、他人を力で支配しよう
としている人間の社会。金の力、社会的地位の力に忖度し、利害・損得で生きていこうと
する生き方が蔓延してしまったテサロニケの街。この街にあって、イエスという人の生き
方や言葉が放つ、「人間へのいたわりと寄り添い」「弱さへの慈しみと憐れみ」「いのちへ
の祝福と解放の宣言」によって、誰もが、縛られてきたものから解き放たれていくのだと
いう福音を証しようとする「そのような業」を、重んじ尊んで行きなさいという勧めです。
そう考える時、私たちが、いまこの時代にあって「まなざしを向けるべきものは何か」
「誰のどのような働きを尊ぶべきであるか」を見つめ直してみたいと思うのです。
それは、まさに、いったい、この時代に、誰が、神の創造されたいのちが保たれる用に
と働いているのか。分裂させられそうになっている関係を結び直そうと誰がどんな働きを
しているのだろうか。傷を負うている者が癒やされるために、負債を背負うている者が解
き放たれるために働いている人は誰か。私たちの間で労苦している人たちを見い出し直す。
先々週、「神さまを宣教しているのは人間だけではない。自然のあらゆるものが、たと
えば辺野古の海が、神の創造の尊さを宣教している」と話しましたが、同様に「神を宣教
しているのは教会だけではない。キリスト者だけではない。むしろ、この世にあって、癒
やしと解放、いのち慈しむ業のために労苦している人たちは誰なのか」と問い直す。その
人々、そのような業にしっかりと目を向け、重んじ、尊び、私たちが学んでいく、という
ことを、この 12 節から聴き取り直したいと思うのです。
例えば、新コロナウィルスの感染恐怖のただ中にあって、いのちのために昼夜を徹して
働き続けたとされる医療従事者たちの存在。国際的には、たとえば国境なき医師団のよう
な人々。職と住まいを失っていく人々にとにかく住居をとファンディングを呼び掛ける運
動。辺野古の海を埋め立てさせまいと座り込む人々。人種差別をもうやめようと声を上げ
る人々。いのちの回復や解放、生きることの支援のために、マイナスを背負いながらも携
わっている人たちの業。私たちは、そのような人々の歩みを重んじ、尊び、できれば繋が
っていたいと思います。私が、それを直接できなくても、そこに目を向け、祝福を祈り、
そこに何かを聞き取り学びながら、神の御心を受け止め直す、そのような礼拝を続けるこ
ともまた、私たち教会の業ではないでしょうか。
それゆえに、14 節にある、怠けている者たちを励ますこと、気落ちしている者たちを
励ますこと、弱い者たちを助けることも、問い直しを受けます。この神さまのいのち慈し
む業の前で、怠けてしまうとはどういうことを指しているのかの問い直しです。この時代、
この社会の中、気落ちさせられている人々は誰なのか、なぜそのように人は気落ちさせら
れてしまうのか、弱い者たちはどこにいるだろうか、よく探すように「まなざしを向けて」
いきたいのです。神を尊ぶことを目的とする私たちの礼拝が、同時に、この世にあって(私
たちの間で)労苦している尊ぶべきものにまなざしを向けることとなり、イエス・キリス
トを感謝する礼拝が、同時に、励まされるべき者たち、助けられるべき人々にまなざしを
向けていくものであるような、私たちはそのような礼拝を捧げていきたいと思います。忍
耐強い礼拝とは、まなざしを自分に向けて終わりにすること無く、神と世にまなざしを向
けつづける礼拝のことではないでしょうか。
続いて 15 節に「悪をもって悪に報いることがないように」と諭されています。
この世界は世俗主義、個人主義、物質主義、成果主義ですっかり回っています。イエス
様の教えてくださった天国、神の国の価値観・イメージに対して、「ばからしい」と異を
唱えるイデオロギーや風潮が蔓延しています。
イエス様の招きや約束、イエス様の教えは、福音・良き知らせなのですけれど、偽りや
ごまかし、不公正や差別、独占や抑圧を推し進める勢力にとっては、イエス様の福音は、
むしろ「悪い知らせ」なのです。福音という人間を解放し、関係を変革するメッセージは、
今日の世界にとって「悪しき知らせ」として邪魔者扱いされ、笑われ、退けられ、場合に
よっては妨害を受けるかもしれません。けれども、その悪しき力に対して、私たちはあく
までも、「良い知らせ」の響きに立って、イエス様ならどうなさるだろう、という思い直
しに立ちながら、向かい合っていきたいと願うものです。
悪しき力に良い力で向かい合っていく、そのために 21 節にあるように「すべてを吟味
して、良いものを大事に」しようとしていく努力が大切になってくるように思います。良
いものを吟味するのです。良いものを選び出すためにすべてを吟味するのです。
そのために「吟味する指標・ものさし」を私たちは何事につけても持って行きたいと思
います。たとえば・・・
・そこには権力・宗教的なパワーの乱用が起こっていないだろうか。
・痛みをごまかさせようとする「覆い被し」が起こっていなしだろうか。
・信じることを語ることができる自由があるだろうか。
・本人の自己決定を大切にしようとしているだろうか。
・相手に対する先入観が働きすぎていないだろうか。
・相手をその人の属性で判断し、勝手に解釈しようとしていないだろうか。
・相手をまず尊重しようとする態度が保てているだろうか。
・その「正しさ」は、ほんとうに相手を励ましているだろうか。
・イエス様は、どのように語るだろうか。イエス様は、どのように為さるだろうか。
こうした「吟味のための指標」を学び直していくこととして、私たちは礼拝に参与して
いくのです。まなざしを向けるべきもの、尊ぶべきことと励ますべきものを見いだし、良
きものを吟味するものさしを心に頂くために、私たちは、聖書を読み、礼拝を捧げ続けて
いくのです。


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