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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
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週報巻頭言
週報巻頭言 : 主の祈りに生きる マタイ福音書6章9節−13節
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2020-07-12 07:09:50 (41 ヒット)
週報巻頭言

 「祈りができないとき、祈りの言葉が口をついて出てこないとき、私はやっとの思いで『主の祈り』を祈ります。」という声を聞いたことがあります。心から同感です。わたしたちの中から、ほんとうにふさわしい思いや言葉がうまれない、たとえば、心がささくれだっているときや混乱している時などがそのような時かもしれませんが、そうした時にも、主イエスが「こう祈りなさい」とて教えてくださった「主の祈り」が傍らにある、これは私たちにとって、ほんとうに幸いなことだと思います。

◆イエス様が教えてくださった「主の祈り」は、祈りのお手本とか、祈りの一例というようなものではありません。ここには、「祈りのすべて」があります。祈りの中で人は何を祈れば良いのか。何を祈るべきなのか。逆に、何を祈ってしまってはならないのか。それが映し込まれています。
 祈りとは、その本質において「神の声を聴くこと」「神の想いを聞き取ること」です。
 生活の中に私たちの「思い煩い」は果てしなく沸いてきます。気になること、しなければならないこと、それらが次々と心のアクセルを踏み込ませ、手を動かし、身体を動かしてしまうのです。けれど、ほんらい「祈り」は、そのような思い煩いの「断念」の時です。祈りの時には、それまで動かしていた手を止めます。そして手と手を合わせます。動くこと、働くことを断念し、中断するのです。そして、自分の思いや自分の必要から時間や仕事をつくるのではなく、神の心を聴こうとする時間を「そこに」いただくのです。

◆人間には、生きる上で決して見失ってはならない根源的な事実があります。それは、「人間は神ではない。そして自分にはその人間としての限界がある。どんなに思い煩ってみてもどうしようもないことがある。そして決して、人間としての限界を踏み越えていこうとしてはならない」ということです。
 人間が自らの限界を忘れ、強引にそれを踏み越えようとすると、自らを滅ぼしてしまうのです。これは、ほんとうのことです。信仰を持つ持たないにかかわらず、この事実は、誰にもあてはまるのです。しかし、神と向かわない限り、なかなかその「人間は限りある存在である」というところに思いが至りません。「自分がなんとかしなければならない」「自分で全部やりとげていかねばならない」「自分が白黒をつけなければならない」その思いにかられて、無理なこと、無茶なこと、そして余計なことをしているものです。後の事に対して混乱を増し、禍根を残す。無くても良かったこと、しなけりゃ良かったことをたくさん生み出していきます。
「神さまが神さまである」ということと「私は限界をもった存在である」ということ。「主の祈り」の前半と後半は、まさに、このことではないでしょうか。天の神(父)よ、「御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が地にも行われますように。」この三つは、「神さまが神さま」の、心です。
 後半の三つ、すなわち、「必要な糧を今日与えてください。」「わたしたちの負い目を赦してください。」「悪いものからお救いください。」これは、人間の弱さと限界を受けとめながら、「自分でその命の範囲を超えられませんから、どうかあなたの恵と憐れみによってこの私を精いっぱい生かしてください」という祈りです。「神さまが神さま。私は限りをもった命。」これが主の祈りを祈る時の基礎にあるシンプルな前提でありまぎれもない事実、大切な真理です。
 この6つの祈りは、そのまま、「人が何を祈って生きる存在か」を教えてくれています。「主の祈り」は、決して「人間の志」を祈っていません。人間の気高い精神や理想の生き方を祈っていません。人間の頼りなく脆い事実を知りながら、神の御業の満ちた大きな世界を求めるのです。ここにこそ、人が何を祈るべきかの全てがあります。
 「神さまの御名(神さまの思い)がみんなの喜びとなりますように。神さまの国が来ますように。神さまの心を映すわたし、神さまの心を受け取る世界、となりますように。あなたの養い、赦し、守りがわたしを包んでいてくださることを忘れませんように。」
 わたしたちは、主イエスから、何を祈るべきかの「すべて」を教えていただいています。そして、それは、わたしたちの命の範囲、神さまの前で生きる者の命の姿を形作られていくための祈り(いのちの祈り)だと言うことができます。

◆「すべて」というからには、逆に言えば、主の祈りを越えた祈りはしてはならないのでしょうか。そうです、「してはならない」と思います。「してはならない」というより「できない」というべきでしょう。
 「神さまの御名などではなく、わたしの名、わたしの思いがすべてを支配しますように」と祈ることはできません。「神さまの御心に反した世界でありますように」と神さまに祈ることはできません。「神さまの国などとは無関係にこの世の国が繁栄しますように」とは祈ることはできません。
「わたしに必要なものなら、明日の分も、他人の分も、わたしに回してください」と祈ることはできません。そして「いつまでも生きられるようにしてください」と祈ることはできません。「わたしの負債を赦してください。でもわたしの憎いあの人の事は決して赦さず、こらしめてください」と祈ることはできません。「わたしが、たとえ神さまから離れて悪人になったとしても、富み栄えることができるようにしてください」と祈ることはできません。
 このように「主の祈り」の「逆」を祈るなら、あるいは「主の祈り」の範囲を超えて祈るなら、そこには欲望と憎しみと傲慢と、そしてどこまでも暴力的な世界が広がっていきます。それは、きっと荒野でイエスを誘惑したサタンの声、「サタンの祈り」です。そう、確かにこの世は、このサタンの祈りの誘惑に引っ張られ続けているとも言えますが。

◆主イエスは、弟子たちに「主の祈り」を教えられました。世に遣わしていく人々にこの祈りを授けたのです。それは、この祈りが「世の祈り」となるようにとの主ご自身の宣教でもありました。何より、主イエスがその祈りを生きられました。自らの名が崇められることではなく、この世にご自身の国を打ち建てることでもありませんでした。それゆえに多くの人びとの失望と怒りの的となり、捨てられ殺されました。人々は、繁栄と永遠のパンを欲しがったのです。石をパンに変える「凄い力」を欲しがったのです。しかし、イエスは石をパンに変えず、「人は神の言葉で生きるのだ」とおっしゃって、命を支えるまことの糧の宣教に徹しられました。ゲッセマネの悶絶の末に、主は「御心のままに」と苦い杯を受け取られました。十字架の痛みの中で「父よ彼らをおゆるし下さい」と祈られました。「そこから降りてきてみろ、そうしたら信じてやる」。神を試みる誘惑の中で、苦しみの誘惑の中で、イエスは十字架に張りつけられたままとなり、「成し遂げられた」と言って「十字架上で」息を引き取られました。
 「御国がきますように。御心の天になるごとく地にもなりますように」。主イエスの命はまさにこの祈りに向けられていました。主イエスの生涯は「主の祈り」であり、「主の祈り」は主イエスの生そのものでした。十字架の死もまた「主の祈り」でした。
 初代教会の宣教は「主の祈り」と共にありました。十字架と復活の主イエスの命は「主の祈り」に重なりながら、これを祈り生きる者たちの人生を造り、支えて行ったのです。主イエスの想いを動かす聖霊がこの祈りを祈る人々を興し、この祈りを合わせる交わりを育て、この祈りを響かせる世界を創ろうと働き続けていったのです。

◆「主の祈り」は世界史に注がれた一滴の水のようでした。しかしそれはやがて世界の隅々に流れ出していきます。今日まで2000年の時代を貫き、あらゆる地域を越えて人間に問いかけ、招き、動かそうとしています。主の祈りをあざ笑う世界、サタンの祈りに冒される世界の中に、「主の祈り」を祈る人々が立てられています。「主の祈り」を祈れない世界に、主の祈りを祈る人々が遣わされています。わたしたちもまた、この世にあって、「主の祈り」を超えない命として立てられています。「主の祈り」を祈る者として生きています。「主の祈り」に素朴に、つまり真っ直ぐ向かい合うとき、私たちはつくり変えられていくでしょう。「養われているゆえにわかちあい」「赦されているゆえに赦しあい」「守られているゆえに支え合う」ことを学び、つくり変えられていくでしょう。「主の祈り」は生の道しるべ、祝福された世界のビジョンです。主の祈りを生きる。それが「宣教の焦点」でもあります。

◆もちろん、わたしたちは、日々の生活の中で、自分の様々な思いから湧き出てくる願いがあります。求めがあります。それらは祈ってはいけないというのですか。いいえ、祈っていいのです。それらの求めは、「主の祈り」を越えた祈りではなく、主の祈りに支えられ助けられています。渇き苦しむ時には、なおさら、叫びのような言葉が口をついて出てくるでしょう。求めてやまない呻きが嗚咽のように出てくるでしょう。それでいいのです。それらの心からあふれる言葉が、あなたに寄り添う主イエスの御霊に支えられ、そして主イエスの御名という道をとおって、神さまに聞かれ、神さまの御心と養いと赦しと守りがあなたのもとに帰されてきます。
 主の祈り。神さまは神さま。そして人は人。自らの弱さの中から、大きな愛と人知を越えた御心を求めて祈る祈りは、渇きの中から、呻きの中から、苦しみの中から、祈っていけば良いのです。神さまの御心は、主イエスをあなたに共ならせる事の中に決定的に示されています。「あなたを愛している。あなたが損なわれることを神は望んでおられない」ということです。そして「あなたを神の国のものとしたい」のだと。
 主の祈りに支えられながら、日々の祈りを祈るとき、私たちは、この神の声を聴き取らせていただくのだと思います。
                              


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