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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
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Common Bible Translation
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週報巻頭言
週報巻頭言 : マタイによる福音書27章51-52節   「主の祈り・天の結」 マタイによる福音書6章5-10節
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2020-07-19 07:38:08 (28 ヒット)
週報巻頭言

彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。(マタ6:8)

 私たちは、毎週礼拝の中でイエス様が「こう祈るように」と教えてくださった「主の祈り」を祈っています。暮らしの中でもこの祈りを祈ります。それはとても素敵なことです。「祈り」は私たちの人間性が造られていく場でもあります。私がまず自分を律し整えてから神とやりとりする、というのではありません。祈りの中に、自分の喜びもみじめさも全てがいったん投げ出され、神の目の中に自分がさらされ、そこでもう一度自分がつくられていく、そういう行為や業こそが「祈り」というべきものです。「主の祈り」にはその本質が余すところなく凝縮されています。
 ところで、「主の祈り」の「主の」というとき、「主エスが教えてくださった」という意味合いと共に、「主イエスの祈り」「主イエスご自身が祈られた祈り」という視点も大切です。彼が神と向き合い、神と結びついていた、その神と彼の関係の中に私も招き入れられていくのです。とても人格的で相互関与的な関係性に、私たちは引き込まれているのです。往々にして、私たちが「神」を捉えようとするとき、哲学的思考や宗教的概念を持ち出して、論じたり考えたり対象化して認識しようとします。すると、その神への祈りも、かなり理屈っぽかったり、結論を先取りしたもの(そう、どうみても対話的でないもの)になってしまいます。イエスの時代のユダヤ教宗教家たちがまさにそうでした。彼らの誰もが、それはそれは一生懸命神を認識しようとし、律法を学び、「神の民の形成」するという命題に腐心していました。その結果、「神の民」にふさわしい「祈りの枠組み」を考案し、「18祈願」という伝統モデルをつくり、これを朝昼夕と祈っていました。しかも、人通りに出て、みなに聞かせるように(お手本を見せるように)祈っていました。
 けれども、イエスは「違う」と言います。「天の神に、呼びかけ、飛び込み、包まれ、願いなさい。そう、無防備のまま『お父ちゃん、お母ちゃん』と飛び込んでいって抱いてもらうように」と言うのです。そして教えてくださったのが「主の祈り」でした。彼が神を「父・アッバ(お父ちゃん)」と呼んだのは、一般化されて語られるような神にではなく、「向き合う相手、向かい合う関係者としての神と自分の間柄に入って」という意味です。しかも、主イエスが大切に感じたのは、「あなたの苦しみを苦しむ方、苦しむあなたをいたわろうとする方としての神を感じ、信頼して」ということでした。 吉盂


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