はじめての方へ
メニュー


このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The
Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
週報巻頭言
週報巻頭言 : 「苦しむ神」マタイによる福音書6 章9 節
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2020-07-26 14:35:34 (111 ヒット)
週報巻頭言

だから、こう祈りなさい。「天におられるわたしたちの父よ、
御名が崇められますように。(マタ6:9)
聖書の証する神は人格的な交わりの神です。といってもピンと来ないかもしれません。
交通安全の神とか無病息災の神・・・という人間の願望の先にある神や、○○山の神とか
○○池の神・・・という場所の主(ぬし)などは、いわゆる人格的関係や交わりの神ではあり
ません。では聖書の神の人格的交わりをどう捉えればよいのでしょうか。それはずばり
「苦しむ神」だということです。「私の苦しみを苦しまれる神」である、と。
キリスト教の神は「愛の神」だというのはよく知られています。でも何かしら善いこ
とや麗しいことの源泉のようなイメージで「愛の神」と理解していないでしょうか。し
かし、愛するとは、共に苦しみ、共に痛むこと抜きにあり得ません。が、そうであるな
らば、神は「苦しんでしまう方」ということになります。神がどんなことでもお出来に
なる「全能の神」であるならば、「決して苦しまない」こともお出来になるはずです。で
も、神は「苦しまないことができない」のです。私のために、私と苦しむ関係者になる
ことゆえに、神はもう、「全能の神」という姿を保てなくなってしまうのです。神はそれ
を選ばれるのです。「全能の神」は、全能ではないご自身であられたという逆説をここに
見ます。私は、イエスが神を「アバ(おとうちゃん)」と親しげに呼んだことは、それま
で人間が考えてきた神の全能性、神の絶対的な威厳や権威をひっくりかえすような、全
能ではないけれども人格的な神と人の関係の新しい「入り口」に立つことだと理解して
います。ですから「おとうちゃん」でなくてもいいし、「父」である必要はありません。
さて、D.ボンヘッファーは獄中書簡『抵抗と信従』の中の一節をご紹介します。
「神はご自身をこの世から十字架へと追いやり給う。神はこの世においては無力で弱い。
そして神はまさにそのようにして、しかもそのようにしてのみ、僕たちのもとにおり、
また僕たちを助け給うのである。キリストは彼の全能によってではなく、彼の弱さと彼
の苦難によって僕たちに助けを与え給うということは、マタイ8:17 に全く明瞭である。
この点に、あらゆる宗教に対する決定的な相違がある。人間の宗教性は、人間が困難
におちいった時にこの世における神の力を示す。その時、神は機械仕掛けの神である。
聖書は、人間に神の無力と苦難とを示す。苦しみ給う神のみが助けを与えることができ
るのだ。」『抵抗と信従』253 頁1944 年7 月16 日―ある友人への手紙―(新教出版社)


印刷用ページ 

市川八幡キリスト教会 千葉県市川市八幡2-1-10 電話047-332-5197
Theme Desinged by 工房ヒラム