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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
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週報巻頭言
週報巻頭言 : 天と飯、共に食う飯 マタイ福音書6章11-13節
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2020-08-02 15:31:11 (86 ヒット)
週報巻頭言

「主の祈り」を教えてくださる際に、イエスは倒錯してしまった祈りの姿を指し示されました。それは、人に見せるために人通りで祈る姿であり、長々くどくどとこちらの願い事を並べる姿のことでした。「しかし、あなたがたは、こう祈りなさい」と言ってイエスは「主の祈り」へと導いてくださったのです。
 その「主の祈り」の特徴の一つは「我ら・私たち」の祈りであるということです。上記の祈りの姿はあくまでも「私を」とか「私に」という焦点を持っていますが、そうではなく、「我ら」の「我」として自分をとらえ、共に生きる中にのみ生かされている「我」であることを日々おぼえることが「人間」の基本的な姿だと言うのです。
 「日用の糧」、それは一日分の必要、一日分の生の支えのことです。この一日分で生きる「ひとり」としての私は、このひとりの一日の背後に、たくさんの人々との命のつながりがいただいています。「我ら」による「今日の私」なのです。また、誰も昨日を生きられず、誰も明日を生きられない。誰も他人を生きられず、誰も他人なしに一人で生きられない。決して、私が満ちたから「私たち」に行くというのでもありません。「私たち」こそが「私」なのでもあり、昨日の今日であり、明日の今日であり、今日の明日が来る。そのどこでも「私たち」なのです。祈りは「我ら」を祈るものであり、祈りは「我ら」で祈るものなのです。
 韓国民主化闘争の激しい弾圧の中で、金芝河(キム・ジハ)が歌った詩は、若かりし日の私の胸に突き刺さって離れません。今は変節してしまった金芝河ですが、イエスから受けたあの日のインスピレーション、「飯が天である」、このラディカルにして明快な信仰的宣言を、私は失いたくないし、自分の祈りにしていきたいと思っています。
  飯が天です / 天を独りでは支えられぬように
  飯はたがいに分かち合って食べるもの
飯が天です / 天の星を共に見るように
飯はみんなで一緒に食べるもの
飯が天です / 飯が口に入るとき 天を身体に迎えます
飯が天です / ああ 飯はみんながたがいに分かち食べるもの 【吉高 叶】


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