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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
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Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
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週報巻頭言
週報巻頭言 : 伝承と継承 出エジプト記12章24-28節
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2020-08-30 09:16:46 (28 ヒット)
週報巻頭言

 戦後75年の夏は、「アベ政治」と表現された政治に幕が降りる夏になりました。「アベ政治」とは、首相官邸に権限を集中させることによって国会の立法機能を最小限に縮小し、「閣議決定が優先、国会は事後承認」で物事を決めていくシステムでした。また官邸が各省庁や司法当局の人事権を掌握することで行政・司法をコントロールしようとする支配政治でした。その中身はというと、理念無き米国追従、富裕層にまみ見返りが戻る経済成長、医療・福祉の自己責任化、公文書その他の情報の隠匿、日本会議の掲げる歴史観・皇国史観の復興、教育勅語の人間観に基づく教育の再編、これらを強引に進める政治でした。
 一昨日の辞任記者会見の質疑で、読売新聞の記者から「7年8ヶ月の政権の成果、レガシーと思われるものは何」と聞かれ「レガシーは、国民の皆さんと歴史が判断する」と語りながら安倍首相はいくつかのことを、他の質問に対するよりは饒舌に語りました。私はその阿(おもね)りの混じったやりとりに少なからず嫌悪感を感じましたが、「レガシー・遺産・・・そうか、そうかもしれない」と思いました。もともと「自分の政権において『憲法改正』をなんとしても実現する」と語ってきたように、日本政治史にレガシーを遺すこと、自らがレガシーとなることを欲望して政権の座に着いた人物、それが安倍晋三という人でした。
 きっと彼は「自分は確かに歴史に大きな偉業を遺した」と感じているので「レガシー」という言葉に滑らかに反応したのだと思います。しかし、いみじくも「国民と歴史が判断する」と彼が語ったように、歴史は必ず、この7年8ヶ月の間に壊されてしまったものが何であったのか、それら負の遺産の代償がどれほど日本とそこに暮らす人々にとって大きいものであったかを明らかにしていくことでしょう。
 戦後75年というこの夏は、あの戦争の悲劇、原爆の惨劇を語り継ぐ人々の圧倒的な減少と風化に、改めて危機感をもった夏でもありました。新コロナの影響を受け、証言を語る場、証言を聞く空間が封じられて行ったことも「焦り」の気持ちを強く感じさせました。継承しなければならないことの大きさと多さ、にもかかわらずその難しさに頭をもたげてしまう夏でした。しかし、伝え聞かねばならないこと、伝え送らねばならないこと、その狭間にあって、受けとめる受信器としての自己の有り様と、伝える発信器としての自己の有り様とに改めて大事な役割を問われています。2020年の夏という「平和の継承」の季節の感慨を、「アベ政治」の幕引きと共に、きちんと記憶していきたいと思います。

 先週は出エジプト記6章後半から7章の前半のテキストで関執事が宣教くださいました。たじろぐモーセにアロンという助け手が備えられる場面でした。その後、モーセとアロンはエジプト王ファラオと何度となく対決・攻防を繰り返します。どうあってもイスラエルをエジプトから解放させることの無いファラオに対して、神ヤーウェは、すべての初子・長子を撃たれる(死なせる)という「最後の災い」を通してエジプトのかたくなさに報いられていきます。その出来事を記録しているのが12章です。その恐ろしい「災い」を「回避」する方法を神さまから告げられ、まさにその災いがイスラエルの上を過ぎ越しエジプトに打撃を与えていった出来事の経緯と意味、この「信仰体験」を記憶し、後々までも繰り返し記念するようにと神はモーセとアロンに命じるのです。
  
 「信仰体験」と申しますと、ある面、個人的・主観的なもののように思われるかもしれません。信仰体験は個々の心の問題、一人ひとりの主観的な心情なのだと。しかし、宗教的経験というものは、必ずしも個々人の内面の問題だけなのではなく、常に同時に、とても客観的、共同体的な経験であります。「神と人間」「人間と人生」ということに関する個人体験を共同経験にしていくのです。もちろん「良い体験」の事ばかりでありません。「失敗」や「間違い」や「悔い改め」そしてそれらを「修正」していく姿をも共有していくのです。そのような共同作業を通して、より客観的、より普遍的な世界観や歴史観・人生観を描き直して確認していくのです。「共同体形成」とはそういうこと。この共同の世界観や人生観のもとで、一人ひとりの個人を見守る。そして、その個人は、自分の信仰体験を味わいながら、再び、自分の個人的体験を共同体に還元していく。こういう循環によってその共同体は歴史をつくっていくわけであります。
 私たちの時代、この社会には、個人主義、私主義が蔓延しています。そこでの問題の一つは、「他人に感心が無い」ということです。私のことしか関心が無い。私の感覚、私の好き嫌いが中心であって、「人間にとって何が大切か」とか「社会はどうあるべきか」という共に生きる場づくりのことについて無関心になってしまうということです。
 たとえば、相模原事件などもそうですが、考えられないような衝撃的な事件が起こる。それを巡って、みんなが懸命に考える。「何故なのだろうか。いったい何が起こっていたのだろうか」。その事件の遠因を探り、その出来事が投げかけている恐ろしさとか悲しさとか破壊力とかを掘り下げていく。社会の様々な分野の人たちがそれぞれのリソースを傾けてそれぞれが掘り下げて考える。そういう掘り下げが、幾重にも組み合わされ、丁寧に分析したり検討したりしていく中で、二度と繰り返さないための道のりや、未然の防御策や修復と癒やしの力を社会全体として獲得していくわけです。様々な分野の人たちが、自分の分野でこれから何をするべきなのかという応答が組み合わされて更に社会をつくっていく。こういう作用を「社会形成的なコミュニケーション」と言うのだと思います。事件でなくてもいいです。共同体において一つの新しい出来事に、たとえば今般の「新コロナパニック」の事態のような新しい難問に直面しながら、聖書を読んで考え、祈って感じ、その考え、感じたことを個人的な所感で終わらせずにわかちあっていく。共同体の経験の言葉にしていく。そのような「共同体形成のコミュニケーション」がきっと、いま、この時に必要なのです。
 さて、イスラエルにとって、時代が進み、世代が重なり、記憶がどんどん遠くなっていくことは、「共同体形成のコミュニケーション」が途絶え、やがては「共同体そのもの」が崩れていくことを意味していました。出エジプトを果たし、カナンの地に入植し、農耕をおぼえ、蓄えの技術を手にし、毎日のパンには事欠かなくなった時代の子どもたちが、「食べる」ということ、「食べることができる」ということについて無関心になり、「自分が労働して得た穀物なのだから自分のもの」「効率よく労働した人間はたくさん蓄えて当たり前」というような「産物の資産化・商品化」を起こしていくわけです。資産の保護と流通の拡大のために大きな国をつくり王をかつぎ軍事力を強めようとする。
 すると、もはや「生きることは神の恵みの賜物である」ということ、「いのちは神さまが養ってくださる」という根源のことがおとぎ話になっていきます。「ものを大切にする」ということが「なんで」ということになるし、「分かち合う」ということが「なんで」ということになってくるでしょう。「私の食べ物はここにある」「あなたの食べ物はどこかにあるんでしょ。それはあなたの問題」という、個人的な経済論、主観的な人生論に陥ってしまう。もはや共同体の破壊されていきます。実際、イスラエルは「バビロン捕囚」という共同体の破滅を経験していくのですが、それは、人間のおごり高ぶり、神に養われ導かれる民という共同体の経験やアイデンティティーを保つ力が空っぽになり、「個々人の生活の問題」に分散されていき、拝金主義と個人主義と主観主義がイスラエルを包んでしまったことに起因していたと思えます。『出エジプト記』は、このようなバビロン捕囚を経て、そのような崩壊の歴史を深く反省しながら編集されています。 
 イスラエルにとって、「過ぎ越し」の事件を物語ること。それは民族の過去の体験を無感動に復唱することではなく、「私たちは何ものなのか」という本来のこと、根源のことを考え、そして「今の生き方はこれでよいのか」と再吟味することを意味していました。次の世代に対し、変な言い方ですが「身体で伝える・身体に伝える」と言いましょうか。種入れぬパン、つまり酵母の入っていないパリパリもしくはペタペタのパンと苦い菜っ葉を7日間食べさせながら、額に腕に律法を記した布の入った小箱をひもでくくりつけて、実に身体的に違和感を感じさせながら、身体で感触で実感させながら、「本来」のこと、「根源」のことを伝えようとする教育の業でありました。
 神が恵みをもって私たちの必要を満たしてくださり、神の憐れみによって私たちは生かされているのであり、だから、生かされている私たちは、また隣人を生かし、隣人と共に生きなければならないという「共同体の原理と原則」「生きかたのかたち」を、子どもたち・若者たちにぶつけていくわけです。子どもたちは、最初はどこか首をかしげながら、断食をしたり、ぺちゃんこのパンを7日間も食べたり、律法の反復学習をしたりしながら成長していきます。しかし、やがて自ら鍬を持ち鎌をもって収穫にあたりはじめる、そのときに、太陽の照り加減一つ、雨の降り加減一つに大きく左右されながら収穫がもたらされていくこと。人間の労力が穀物や野菜の成長に加える力はほんのわずかなものであって、絶大なる天の恵みによって、この産物が育てられていることを知るようになります。また、こうした産物の収穫を、もし独り占めしようなどとしたならば、共同体全体がぐちゃぐちゃになってしまい、みなが長く苦しんでしまうこと、などを体験しながら、結果として、聞いてきたところの「神の養いを憶えなさい」「分かち合いなさい」という教えが、如何に真実であるかということを悟るのです。これが歴史的・客観的な真理(共同体の経験)を個人的に追体験し、継承していくという出来事なのです。

 「信仰の継承」ということがよく言われます。教会共同体、信仰共同体などが将来・未来を講じるときに必ず重要課題としてあげるテーマです。しかし、そこには明確な峻別が必要です。すなわち「継承」は若者たちがすることであり、大人たちにできることはあくまでも「伝承」なのだという理解です。大人たちは社会や歴史を形成するために大切なことを「伝承」しようと努力し、若者たちは自分たちの時代にあって生きることや社会をつくることに直面しながら「継承」すべきものを選び取っていきます。大人たちは「伝承」に責任を負い、若者たちは「継承」に招かれていくのです。
 ところで、子どもたち・若者たちが「継承」するもの(したくなるもの)とは何でしょう。それは「真実なるもの」のみです。大人たちが「伝承」しようとしたもの全てを受け入れる訳ではありません。大人が熱意を込めて語っていた経験の言葉、あるいは個人の体験でありながら人間に共通した大事な経験なのだと言葉化(客観化・普遍化)して「真理」として伝えようとしてきた事柄について、若者たちは、自身で生きてみながら「これは真理にまつわる真実のことがらだ」と感じ取ったものについて受け取り、自分なりに追体験していくのです。このようにして「伝承」したものが「継承」されます。
 平和の伝承。孫の創亮に「平和を継承してほしい」と願う私は、自分が平和を継承し平和を伝承する人間であらねばならない。そして、この子どもたちの前で、平和を崩す生き方を改め、真剣に誠実に悔い改め、生き方を修正しなければならないと思います。 
 
 記憶と記念。これは単に過去のことを憶えるためにするのではありません。過去ではなく「本来」のことを心に刻む行為です。歴史をおぼえること、とりわけ戦争と破綻の経験を記憶することによって、いのちというものにとって、ほんとうに大切なこと、社会というものにとってはずしてはならないことを受け取り、そのことから現在(いま)と自分を照らしていく行為。それが記憶と記念です。実はその記憶と記念が未来をつくるのです。ですから記憶は決して過去のものではなく、未来のもの、「未来の記憶」なのです。


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