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このサイトは日本聖書協会発行の
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週報巻頭言
週報巻頭言 : キリストの命が重なる ローマ人への手紙6章1-5節
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2020-09-06 11:51:04 (16 ヒット)
週報巻頭言

 おはようございます。先ほど、嶋田英一郎さんの「信仰告白」を共にお聞きしました。嶋田さんは1945年生まれですから、戦後の日本の年月(75年)を生きて来られました。まぎれもなく神が嶋田英一郎さんという命をおつくりになりこの世に生を与えられ、その人生に共にいてくださいました。嶋田さんは75年を歩んできた今日、その神さまのインマヌエルの事実を自分の存在の事実として受け入れられ、告白されたのです。受領し、告白してもしなくても、嶋田さんが神さまに愛され、イエス・キリストの恵みによって救われていたという事実は変わりません。しかし、嶋田さんは、自分が神さまに愛され、イエス・キリストによって救われた自分なのだ、ということを認められました。それを受け入れた者として生きる、そこには新しい生、新しい生き方が生み出されていきます。新生していくのです。みなさん、モーセが80歳になってホレブの山で神の召命を受けたことを驚かれましたね。しかし、それは驚くに値しません。嶋田さんもまた75歳という高齢期にあって新生を経験されていくのです。人は新しく生まれることができるのです。この後、バプテスマ式をします。死んで葬られ、三日目によみがえらされたイエス・キリストの命が嶋田さんの命と重なっている新生の徴・バプテスマ式です。嶋田さんが経験しているこの事実は、私たち市川八幡教会の共同体の経験でもあります。私たちも共に、バプテスマの恵みに与って参りましょう。

 さて、今日は、私が敬愛する信仰の先輩、鈴木怜子さんから伺った話を紹介します。鈴木怜子さんとおっしゃる方は、日本キリスト教団の戦争責任告白をした鈴木正久教団議長の娘さんで、永らく日本YWCAで働かれ、1990年代にYWCAの総幹事を務められた後、2000年に、女性では初のNCC日本キリスト教協議会の議長になられた方です。私は彼女の元で副議長を3年間勤め、9.11同時多発テロやイラク攻撃の緊張の中、報復の連鎖に呑み込まれていく戦争状況を、いかに世界のキリスト者や市民との連携のもとで食い止めていくか、という課題に向けてご一緒に汗をかきました。その鈴木怜子さんが、語ってくださった印象深いお話、彼女が、東松山市の丸木美術館に行かれたときの話です。
 私も、一時期は夏になると毎年巡礼のように出かけたこともありました。一昨年の夏も、谷本仰牧師をご案内して妻と三人で出かけました。丸木美術館は、何度出かけても、突き動かされ、見る者を圧倒してきます。
 もうお二人とも亡くなられましたけれど、丸木位里さんと丸木俊さん、このお二人は「原爆の図」をライフワークとして描き続けた画家・画伯であります。その作品のすべてにはお二人の執念、悔恨と平和への熱意が宿っています。九部からなる原爆の図、そして沖縄戦、南京大虐殺、アウシュヴィッツ。それら一連の作品の最後に丸木位里・俊さんは「地獄の絵」に取り組まれました。人間の罪深さ、人間のもたらす悲惨とをそこに描き込んでいきました。さらには、その人間の浅はかさ・罪深さ、人間の引き起こす悲惨に自らどっぷりと浸かり込み、それを見逃し続けてきた自分、まさに「地獄行き」に値する「罪人」である自分たちのことも、その地獄の場に描き込まねばならない!! そう言って、「地獄の絵」の完成間際に、位里さんが俊さんを描き入れ、俊さんが位里さんを描き込んだ。その「地獄の絵」が完成した直後に、鈴木怜子さんは丸木美術館を訪れ、丸木夫妻からその説明を受けられたのですが、鈴木さんはそれを聞いた後、丸木夫妻にこうおっしゃったんだそうです。
「確かに私たちは、丸木さんが捉えたような地獄行きの人間そのものだと思います。けれども私たちが信じているキリスト。このキリストであるイエスさまという方は『黄泉にくだり』、つまり自らも死んでその地獄に行き、その罪の報いにのたうち回るしかない世界に置かれたのです。しかし、そこからよみがえらされ、再びいのちを与えられ、いのちの中に、滅びるばかりの人々をいっしょに連れ出してくださったんです」。
 その話を聞いた丸木位里さんは、しばらく絶句した後、「すごい話だ」とおっしゃって、再び黙り込んでしまわれたのだそうです。
 私は鈴木怜子さんからその話を伺ったとき、お二人の「そのやりとり」こそ「すごい話だ」と思いました。
 丸木位里さん・俊さんが人生を賭して自らを含める人間に向けて告発している罪、自ら告白している罪、その罪が引き起こす一つの地獄の姿が、あまりにも凄いものであるが故に、そこに重なっていく(鈴木怜子さんの語る)イエス・キリストの「死んで葬られ、黄泉にくだり、死人の内よりよみがえる」話が、とてつもなく「すごい話」に思えてきます。丸木位里さんが黙り込んだその時、イエスはいったいどのような場所に放り込まれていたのでしょうか。そして、また、そこから再び命を与えられ、人々をそこから伴い、連れ出していくのだということを、丸木位里さんはどのように頭で思い描いたのでありましょうか。丸木さんの絵の描写の世界、原爆の地獄の現実をあてはめるならば、まさに爆風と熱線と放射能とで無に帰した、広島、長崎のがれきの街に、キリストは皮膚を垂らして横たわり、渇きの中に死に絶え、そこから尚立ち上がらされ、そこに累々と横たわった苦しみの命を連れて立ち上がっていく、ということなのかもしれません。いえ、それを引き起こした自覚、無自覚の人間たちの浅はかさが迎えねばならない地獄の報いのただ中に埋め込まれ、放り込まれる救い主の命。しかし、そこから再び引き起こされて歩み出す人間が新しく帯びていく責任と使命。「よみがえらされる」ということは、どれほど凄いこと、凄い話でありましょうか。

 わたしたちは、イエス・キリストのくださる「すごい出来事」に与っています。
 教会で初めてバプテスマ式をごらんになった方は、礼拝後に「びっくりしました」とおっしゃいます。あんなとこに水槽があって、礼拝の途中にザブンってやるんですからね、と。あの「ザブン」は一つには「罪の洗い流し」「罪のきよめ」を象徴していますが、単に「洗い流し」ではなく、一度キリストと共に死ぬことをあらわしています。しかし、その葬られた死の淵の中から再び引き上げられるのです。(途中でとめません。引き上げます!)。そして新生・新しい生、新しく生きる「私」がそこに生まれているのです。
 その新しい生は、まったく罪人でなくなったというものではありませんが、イエス・キリストの愛(苦しみ喘ぐ者を慈しみ、共に苦しみ、共に歩む力)が私の命の中に入れられて、「キリストのいのちが重なっているいのち」へと再生されていくのです。
 ですから、私たちはキリストの愛(苦しみ喘ぐ者を慈しみ、その解放のために自分も懸命に生きてみる生き方)を、自分の生活と思想の中に戴いて生きるしかできないものとされたのです。「罪の中に生きるべきではない」のではなく、2節にあるように「罪の中に生きておれない」人間として、悔い改めながら、神の赦しを求めつづけながら生きるものとされていくのです。
 私たちは、まぎれもなく、神さまの思いのこもった創造の業によってつくられ、イエスさまの力一杯の「捜し出し」によって助け出されている命です。わたしが虚無の力や絶望の力に呑み込まれてしまわないために、そして死んでしまわないために、イエス・キリストは全力を尽くされています。
 99匹の正しい人々を野原においてでも、迷い苦しみ不安におののく1匹の羊であるこの私を捕えに来てくださった。あの羊飼いがもし1000匹の羊を飼っていたのなら、999匹を野に残して、私を捜し出してくださったのです。それがこの私の存在の掛け値なしの比重なのです。神の目には「私」はほんとうに尊いのです。そして私は、いまもなおその羊飼いに抱かれたままの羊でしかない。ですから、この私の命は、この良き羊飼いの愛が重なっている命であり、この方によって方向付けられた新しい命なのです。主イエスが、罪に死ぬとき私も罪ゆえに罪の中に死んだ。しかし、その罪の報いの淵からイエス・キリストはよみがえらされ、ふたたび立ち上がっていかれるのですから、私たちもまた、古い自分としてではなく、キリストのいのちが重なり、イエスの言葉と歩みとに方向付けられた新しい命なのです。
 嶋田英一郎さんとご一緒に、私たちも新しい命の重なりを、今日覚え直したいと思います。 


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