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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
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週報巻頭言
週報巻頭言 : 祝福の風景 ゼカリヤ書8章3-5節
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2020-09-13 14:47:55 (11 ヒット)
週報巻頭言

◇待望する人 招詞のルカのテキストから
 シメオンとアンナが、誕生後間もないイエスと神殿で遭遇する出来事をまず礼拝の招詞でお読みしました。シメオンとアンナはそれぞれ随分と年をとった老人でありつつ、クリスマスの重要な本質を指し示している脇役であります。
 シメオンもアンナも、共に「待望する存在」でした。「待望」に生きる人としての人生像を示してくれています。シメオンとアンナの老後は、一つの焦点を持っていました。すなわち「救い主が与えられるという希望」に集約されて、礼拝所でひたすら待っていたということです。
 一般的に、若い人や溌剌とした人を見ると「希望があっていいなあ」「自分のように年をとってくると希望もなくて」とつぶやくことがあります。身体的(フィジカル)な事や、与えられている時間という意味で語る言葉なのかもしれませんが、「希望」とは身体的な強さに担保されるものではありません。特に現代は、若者=希望に満ちているとは言えない時代でもあります。そう、「希望」とは決して人間の能力、人間の成長の可能性の延長線上にもたらされるものではなく、聖書を生きる人々の世界では、「希望」とは「神のみわざの出現」のことを指していますし、「神のみこころの成就」のことを指しているのです。それゆえ、希望する心・待望する心は、自己の衰え、弱さに反比例して強まってくるのです。
 シメオンやアンナは、自己自身の高齢化とともに、ますます、待望することに集中していった姿を見せてくれており、すなわち、人間の老いや身体的衰えには、むしろ待望する能力と希望へと集中していく能力があることを教えてくれています。
 クリスマス物語で言えば、マタイ福音書では異邦の博士たちが、ずっと待っていた救い主誕生の知らせの星を見いだして、はるばるやってきたことが記録されていますが、そこには、ルカ福音書のシメオンやアンナと同様、「待望していた人々」という共通のモティーフが響いているのです。ですから、高齢者たちは、クリスマス・すなわち神の救いの御業の物語の主役であると言えます。そして今も、神が最も必要としている人々こそ、希望する人々、待望する人々です。人間は神を忘れていることができるほど強く、たくましく、自分自身の輪郭や将来がはっきりしている人のことを素晴らしがるのかもしれませんが、神さまが求めているのは、神のみ旨、神のみ業を待望する人々です。
 私たちの社会は、現在のところ、年金制度の関係もあるのでしょうが、65歳以上の人々を「引退者」と見なしていますけれど、決して人生に「引退」するわけではありません。「引退者」とか「余生」というような枠組みを勝手にはめられてはならないです。むしろ、いよいよ神が求めている人間像に本当に入っていく、つまり希望ということへ向けて人間性と人生を整えていく新しい自分の時代に入っていくのだということを教えられるのです。
 そしてそのような待望者こそが、神のみ旨、み業を見抜く力を持っているし、待望してきたことが成就していく瞬間を人間の最大の喜びとして受け止めることができるのです。
 希望は、ますます高齢者の業です。高齢者方には、神の祝福を、地上の出来事と結びつけて祝い「人間にとって喜びとは何か」を、証する働きが託されていると言えます。

◇This is the first day of the rest of your life.(今日という日は、あなたの生涯の残された第一の日である)
 これは、単に流れて行く歴史の中の一日ということではありません。主にあって生かされて歩む信仰の歩みにおける第一日ということだと思います。私たちは、速さの異なる二つの時間を生きているのではないでしょうか。慌ただしく過ぎていく毎日の時間を生きています。しかし、同時に、私たちは、信仰によって永遠につらなるもう一つの時を生きることが許されているのではないでしょうか。短い限られた過ぎゆく時を生きながら、同時に永遠に続く信仰によって歩む時を、生きることが許されているのではないでしょうか。その意味で、今日というこの日は、自分に残された人生の歩みの第一日、初日なのだと思います。そう、今日が一番若い日なのです。

◇祝福の風景
 バビロニア捕囚の後、イスラエルに対してエルサレムへの帰還が赦され、民は神殿建築に取りかかりますが、町の復興も神殿の再建も思うようにいかず、自暴自棄になっていきました。ゼカリヤという預言者はそのような時代に民に語りかけました。
「復興とは、神がそこに住んでくださるということだ。また再生とは人間が生き方を改めることなのだ。私たち人間は『生ける神の宮』として恵みの受け皿になり、立派な町・頑丈な建物ではなく、神に誠実な社会となること。そのとき、神が共に住まう風景、すなわち『神の祝福の風景』をあなたたちは見るであろう。『エルサレムの広場には再び老爺、老婆が座るようになり、都の広場はわらべとおとめに溢れ、笑いさざめく』であろう」と。高齢者と子どもたちが安心してそこに座り、笑い、歌い、交わる広場、これが神の共に住む町の風景、「神の祝福の風景」だというのです。

 日の出とともに農場で働き、日没とともに家に帰り、親子三代の家族が大きな机を囲んで夜の時間を過ごす。そうした農夫の家族が、一年に一度「家族写真」を撮っていました。祖父母を真ん中にして、家族がぐるっと囲んで写っている写真。それがずっと変わらぬ家族写真の構図でした。やがて、工場がつくられ都市が形成されました。農夫たちの家族も、都市へと移り住んでいきました。合理化された工場で、父が働き、兄が働きました。収入は安定しました。でも、一年に一度撮り続ける写真の構図は明らかに変わったのです。父が真ん中、そして母と兄。その周りを子どもたちが囲み、はしっこに祖父母が写るようになっていったといいます。
 機能性、生産性の価値観を真ん中に置けば、中心は「いま稼いでいる者」が陣取り、その周りを「やがて稼ぎはじめる者」が占め、「余生を生きる者」が端っこになります。現役・予備軍・引退者という枠組みが人間社会に嵌めこまれます。「真ん中」に誰を置くか、そのことによって周辺・周縁が決められていきます。「元気であること」を真ん中に仰ぐ社会は、常に成長、回復、再建のスローガンを振り回し、「元気」な者や「産み出せる」者を叱咤激励するのですが、やがて全ての人が老い衰え、周縁化されていきます。
 しかし、私たちは希望に向けて人生を理解します。ですから、高齢者たちは、信仰共同体形成の主役(真ん中)だと言えます。人生の悲喜こもごもを味わい、それゆえに主への待望を深くしている人を真ん中にして集まり、幼子から高齢者までが、通り道にいて戯れ、広場でふれ合っている風景、それこそが神が共にいてくださっている神の祝福の風景なのです。


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