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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
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Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
週報巻頭言
週報巻頭言 : 恵みの戒め 出エジプト記20:2-4
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2020-09-20 13:24:52 (37 ヒット)
週報巻頭言

 400年間にも及ぶエジプトでの奴隷状態にあえぎ、生きる喜びや目標、また生命の根拠を知らず拝するものを持てないそのようなイスラエルの民を、神は悩みの鎖から解き放ち、自ら主を礼拝し人生をかたちづくることができる場へと導き出したのです。
 けれどもそんな信仰共同体・「礼拝する群れ」は一朝一夕(いっせき)につくりあげられたのではありませんでした。神に不満と不平をぶつけつづけ、自分たちの欲しいもののために神を呼び出そうとするこの民の移ろい易さと軽薄は幾度も神の怒りと悲しみを引き起こしました。にもかかわらず、荒れた地面と荒れた民の気持ちを包むように朝毎に降り注がれるマナに養われて、この民は歩んでいきました。イスラエルは、そのようにして年月を過ごし、世代を重ねていきました。私は、この「荒れ野の40年」という経験を通して、決して「世代の違い」という事で忘却することのできないイスラエルにとっての根本問題を、民の一人一人が(それこそ世代を超えて)刻銘に経験していったのだろうと思います。それは、とにもかくにも人間として繰り返してしまう神への背信の追体験です。
「あれがない、これがない」という不満、「神はほんとうにいるのか」という疑い。「もしいるなら○○してみろ」という神への試み。それを大人たちも子どもたちも、必ずどこかで誰もが自分の心に宿し、自分の口から吐いたのです。それを自分の罪として経験し、神に砕かれていったことでしょう。自分自身の不遜な罪との直面、神の赦しとの直面、これが世代を超えてみんなが自分自身に経験したことでした。

 それと共に、イスラエルの人々にとって世代を超えた共通体験が他にもあります。毎日マナを食べたということです。年老いたものも若者も、それを食べて生きた。「じいさんたちの若い頃はマナを食ったらしいね」というのではありません。子どもたちも食べて大きくなった。若いからと威張っても、その若い力でもってしても、荒れ野で何一つ食べ物を生み出すことなどできなかったのです。「生きる」ということの根源を支えているのは、人間の体力や能力ではない、「神の養い」にある、そのことを共通体験として叩き込まれながら、この民は40年を過ごし世代を重ねたのでした。
 市川八幡教会は、設立よりそれ以上の年月を歩んで来ました。そしてここにいる私たち一人一人はここに繋がれた時はそれぞれ違っていますが、自らの罪がここで知らされ、自らの赦しもまたここで知らされ、私たちを養う方をやはりここで知らされた、と、そうした共通経験や共同体験を、ここでいただいているのだ、ということを忘れてはならないのではないでしょうか。

 神は、奴隷の地からの解き放ち・「エジプトからの出発」という目的をもってイスラエルを導き出しましたが、もう一つ「神の民への出発」という目的をもイスラエルに対して抱いておられました。「○○からの自由」ではなく「○○への自由」です。それが、平たく言えば、イスラエルに戒めや教えを与えて、世界(歴史)の中で「祭司の民」のように育てたいと期待していました(出エジ19:5-6)。祭司の働きとは何でしょうか。それは、神を礼拝する仕事です。礼拝に人々を招く仕事です。そして、すべての人々の謙虚な気持ちを集め抱えて、自らが真っ先に神の前にひれ伏し、神の憐れみを求める役目です。さらに、神の赦しと祝福の言葉を、すべての人々に語り聞かせる仕事です。祭司とは神と会衆に使える働きなのです。
 イスラエルが神から選ばれたのは、清く立派な民族だったからではありません。神が、奴隷生活の中で苦しみの叫びをあげている人々の声を聴き、助け出される方であること。武器と富とによって世界をまとめられるような方ではないこと。神の約束を信じ、神の戒めを守って共に生きていくときに、調和した世界と平和とが実現するのだということを、宣べ伝え、自ら実践して生きる、そんな共同体づくりのためにイスラエルは選ばれました。 そのために、神がイスラエルに授けた“道しるべ”が「十戒」であり、イスラエルの民が40年の荒れ野の生活の中で、共通経験として身体でおぼえていったのが、マナと共にこの「十戒」という戒めです。
「十戒」は言うまでもなく旧約聖書の中核にあたるものだと思いますが、新約聖書を重んじるキリスト者にとっても、人生の指標として深く重大な戒めだと思います。「十戒」は、決して、人間がその時代を生きる上で、うまく社会をつくるためのルールとか、時代状況を勘案しその現状に即して整備していくガイドラインのようなものとは違って(そういうものはどんどん変えられたり、増えたりしますけれども)、たとえどのような時代に生きようとも、どのような価値観の社会が訪れようとも、わたし自身が、いろんな鎧や衣をはがし取られたときに(丸裸のようになったときに)、「わたしは何であり、いかに生きるのか」という、わたしが人としてあることの基本形を教えられている「いのちの戒め」だと思います。
 荒れ野というところは、人間の力をどうにも発揮しようもなく、いかんともし難い場所であり、それゆえに人間の罪や弱さが噴出する場所です。また、人間が着飾ってごまかしたりしようのない場所、すなわち、「人間がすぐに丸裸にされる場所」だと言えますが、そのような場所で、「自分自身が神の前で何であり」、また「他者との間で何であるのか」を問うています。前半四つが神との関係に関わることです。生きるということの立ち位置の一つは神の前に生きるということです。あの象徴的な神の問いを思い出しましょう。「あなたはどこにいるのか(禁断の木の実を食べたアダムとエバへの問い)」という端的な問いに示されているように、「神の前に生きているか」という問題です。そして十戒の後半は他者との関係。他者の前に立つ立ち位置のことです。ここでも、あの象徴的な神の問いを思い出しました。「あなたの兄弟はどこにいるのか(弟アベルを殺したカインへの問い)」という踏み込んだ問いに示されているように「あなたのきょうだい、あたの隣人はどこにいるのか」と、関係がまっすぐであるかどうかを問うてきます。こうした、生きる上での基本的な位置と姿とをきっぱりと問いかけてくるのが「十戒」であると言えます。

 「十戒」の原文は独特の否定形が使われていまして、「殺してはならない」「姦淫してはならない」「盗んではならない」と訳されているところも、「あなたは殺さない」「あなたは姦淫しない」「あなたは盗まない」と記されています。原文のニュアンスをもう少し強く出すならば「あなたには殺すことができようか、できない。」「あなたには盗むことができようか、できない」と訳す方が原文の意を汲んでいます。つまり、これは単なる禁止ではなくて神との関係性からくる応答的な戒め、関係的な倫理なのです。単に、人間社会を秩序づけるためのルールとか立派な人間のモデルというのではなく、神との関係の中で、「私がもはやそのようなものとして生きるしかない者」であることを明確に宣言している戒めです。ですから、この戒めには基礎といいますか土台があります。この戒めを受けとる人には前提があってそれに基礎付けられています。それが20章2節の言葉です。 わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」(20:2)
 神がわたしを、奴隷の家、鎖につながれている場所から導き出してくださった。神の恩寵と恵み(解放・贖い)によって私は今を生きている。神が私にしてくださった絶大な救いの働きによってわたしの命は基礎付けられ、わたしの生き方が方向づけられています。それゆえに、「あなたにはわたしをおいて他に神があってはならない」という第一戒からの戒めが始まっていくのです。この2節が、このわたしにもあてはまるのです。

 ところでこの第一戒は「あなたはわたしの顔の横に他のものをならべてはならない」というのが直訳に近いです。生きる上で、私たちにはたくさんの大切なものがあります。自分を支える大切なもの、それは収入を得るための仕事であり、自己実現を果たすための活動であり、愛する家族や恋人であったりします。でも、その大切なものでさえ「神さまの顔の横に並べてはならない」のです。それらが人生にとって大切であることは当然のことですが、それらを「神さまの顔の横に並べてはならない」のです。
 さに「刻んだ像」をつくるな、戒められています。像になにを刻むのでしょう。何を彫るのでしょう。まぎれもなく人間の願望です。私たちの願望、私たちの理想、それを神にしてはならないのです。
 この世には、たくさんの神がいますし、たくさんの教えがあります。それを信じる人たちのことを決して軽蔑してはなりません。決して悪い教えばかりではなく、傾聴に値する内容もたくさんあります。また、宗教・信仰ではなくても、この世には生活を充実させてくれる多彩なプログラムやムーブメント、ボランティア活動などもあります。それらも楽しいものですが、やはり私たちにとっては、それらを「神さまの顔の横に並べてはならない」し、私たちの理想や信念や願望を刻み込んで祭り上げて拝んではならないのです。
 何かの前に別のものを並べる。言い換えれば対置させて相対化する、ということです。一つのことを絶対化しないで、あらゆることを相対的に考える習慣や姿勢はとても大切です。でもどうしても、他のものを持ってきて並べてはならない場所がある。それが神さまです。それをやり始めると、並べてる自分が神になる。そういうあっという間の逆転が起こるのです。私たちはこのことを忘れないでいたいと思います。今日も礼拝の中でご一緒に市川八幡教会の信仰告白を共に告白しますが、この私の命をつくり、この私のために、イエスを届けてくださり、あの命の道をもって私、とりわけ苦しみを抱えて生きる私の生きる痛みを知ってくださり、また私の中にある抜きがたい罪深さを憐れんでくださり、十字架に架けられながら私の存在の赦しのために祈ってくださり、贖い・解放を宣言してくださった、イエス・キリスト。あの主イエスをくださった神はヤハウェ・聖書に証された神だけなのです。それが、わたしの生の土台、わたしの20章2節なのです。
 イスラエルにとっては、エジプトから導き出した神、奴隷から解放してくださった神は「この神・ヤーウェだ」という明確な神の確認、そしてその神との関係がすべての基礎であるのですが、私たちキリスト者にとっては、イエス・キリスト、その一人子を賜うほどにわたしを愛し、わたしを罪の奴隷から贖いだしてくださった父なる神さまとわたしの関係、この関係をわたしの人生の基礎付けにし、この神の前で人々と共に生命をわかちあって生きていくということを人生の方向性にする、それが「十戒」です。十戒と十字架に導かれ、十戒と十字架に貫かれ、十戒と十字架に包まれ、十戒と十字架に助けられて生きるのが私たちです。
  エジプトでのイスラエルの実体は、もちろん奴隷状態にあえいでいたことなのですが、400年の奴隷生活が人間にもたらす果てしない影響、それは、生まれてきた意味や生きることの可能性、喜びや希望を理解できない、人間の尊厳を奪われているゆえに、取り戻さなければならない人間の尊さが何なのかがわからない。そして目標、すなわち生命の根拠と方向性を知らず「崇めるもの、礼拝するものを持てないでうつろになっていた」という問題があります。そのようなイスラエルの民を、神は悩みの鎖から解き放ち、自ら主を礼拝し人生をかたちづくることができる場へと導き出したのです。この神の熱情とも言える愛と恵みを受けた民が、いまその神を拝するものとして生きる。そして共に恵みをわかちあって生きる。神と共に、民と共に生きるいましめとして「十戒」はわたしたちに与えられた恵みの賜物、恵みの戒めなのです。


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