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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The
Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
週報巻頭言
週報巻頭言 : 眺望 申命記34 章1-8 節
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2020-10-04 10:56:15 (20 ヒット)
週報巻頭言

これがあなたの子孫に与えるとわたしが誓った土地である。わたしはあなたがそれ
を自分の目で見るようにした。あなたはしかし、そこに渡っていくことはできない。
(申命記34:4)
1968 年4 月4 日、アメリカ公民権運動(黒人解放運動)の指導者の一人、M.L.キング牧
師は一発の銃弾に倒れた。39 歳になったばかりであった。その前夜、テネシー州メンフ
ィスの教会で語った説教が、結局、キング牧師の最後のメッセージとなった。もちろん
それは、イスラエルの出エジプトを率いて来、いよいよ約束の地・カナンを目前にして、
自分自身の進入を神から禁じられたモーセが、ピスガ山の頂から約束の地を眺望する場
面と自分自身とを重ねてなされた説教であることは言うまでもない。そのメンフィスで
の説教の最終部分を下記に紹介したい。
「メンフィスに着いたら、私が狙われているとか、私を狙う計画があるとか聞かされた。心を病んだ
白人兄弟たちは、私をどうしようというのだろう。いや、私自身、自分の身の上に何が起きるのかは
分からない。これから相当困難な日々が私たちを待ち受けている。でも私はそんなことはもう気に
ならない。私は山の頂に登ってきたからだ。だからもう気にならない。たしかに私も人並みに長生きを
したい。長生きにはそれなりの意味がある。でも今の私には重要なことではない。今はただただ神
の意志を体現したいだけの気持ちで一杯だ。神は私を山の頂まで登らせてくれた。頂きから約束の
地が見えた。私自身は皆さんと一緒には約束の地に行けないかもしれない。でも知ってほしい。私
たちは一つの民として約束の地に行くのだということを。だから私は今うれしい。私はどんなことにも
心が騒がない。どんな人も怖くない。主が栄光の姿で私の前に現れるのをこの目で見ているのだ
から。」(1968.4.3.メンフィス、チャールズ・メイソン記念大聖堂)
信仰による眺望。それは希望の景色、解放の景色を仰ぎ見ることである。信仰者に大
切な作業とは、今日見ている風景を希望の眺望と結び合わせ、約束のもとで今日の自分(の
事実)を再解釈する(受けとめ直す)ことではなかろうか。そのために信仰者は山頂に登る。
山頂とは、神が見せようとする世界を眺める「視座」。たとえば、それはモーセにとって
のホレブ山やピスガ山であり、イエスにとってはゴルゴタの丘であり、弟子たちにとっ
てはガリラヤの山である。眺望する視座、それは目の前の生の厳しさを見つめながら神
の国の祝福から目を離さなかったイエスであり、イエスを復活させた神の御心である。
だから、私たちは、現実という地面に足を取られながらも山に登ることがゆるされてお
り、霧の中に閉ざされながらも眺望することを遮られることはないのだ。吉盂


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