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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
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週報巻頭言
週報巻頭言 : 収穫の主に集められる マタイ福音書9章35節〜10章4節
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2020-10-18 16:17:50 (46 ヒット)
週報巻頭言

 おはようございます。しばらく旧約聖書から聞いてきましたので、今日はイエス様の風景を見つめたいと思います。また秋が深まる季節であり、収穫豊かな時でありますので、収穫に因んだ黙想をしてみたいと思い、本日のテキストを選ばせていただきました。ごいっしょにイエス様の眼差しに触れていきたいと思います。

 イエス様は、自分のもとに集まってくる群衆を見られて「飼い主のない羊」のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て深く憐れまれました。そして弟子たちにおっしゃったのです「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」と。
「収穫は多いが、働き人が少ない」。
 この言葉は普通どのような場面で語られる言葉でしょうか。見わたす限りに穀物がたわわに実り穂を垂れている、それなのに農夫がいない時、そんな時の言葉です。あるいは、漁に出た。すると鰯の大群に出会った。こんな大群は見たことがない。それなのに今日は漁師の数が少ない。そういう時の言葉です。明らかに収穫が多いと見て取れる時の言葉なのです。それなら、とても話は簡単です。
 しかしこの時、主イエス様が見ていたものは全く逆で、「飼う者の無い羊のように弱り果てて、倒れている者さえいる群衆の姿」だったのです。
 いったい「収穫」とは何のことだったのでしょうか。イエス様の目に映った「収穫」とは、私たちが往々にして考えてしまう、すぐ目に映る、見ればすぐわかるような「景気のよい出来事」ではないのです。人間で言うならば、元気な人、即戦力として使えそうな「人材」が溢れているというような状況のことではなかったのです。むしろその逆であって、もはや抜き差しならないような苦悩を背負い込み、あるいは不正や偽りに喘ぎ、貧しさにがんじがらめにされ、生きにくさ、生き苦しさを抱え込み、癒しを、助けを、一縷の希望を必要としている弱り果てた人々だったのです。そうコイノス(汚れ)を身に帯びているからと蔑まれていた人々でした。その人々がこんなにもたくさん集まっている様子を見つめながら、主は深くあわれまれ、この人々の癒されること、この人々が交わりに加えられること、この人々が教えられていくこと、この人々が死に呑み込まれないで信じて生きるものとなることのために、それを伝え、それに関わる働き人の必要を感じられたのです。そして、コイノニア、そう交わりの必要をとても強く感じられたのです。そしてイエス様は12弟子を呼び寄せられ、立てていかれたのです。
 イエス様のこの眼差し、この言葉から、私たち教会の働きをはっきりと受け取っていなければなりません。「収穫」とは、自分自身を満たすことができる何ものかのことではなく、自分自身を届け、捧げるべき何ものかのことなのだ、ということです。そしてその収穫は多いのだと。
 イエス様は、「不毛」と呼ばれるところに意味といのちを吹き込もうとされています。さまよい倒れるいのちに、喜びと「めあて」とを注ごうとされています。

 私たちの生きてきた日本社会は、伝道が難しい国だ、そして今は伝道が難しい時代だとずっと言われて来ました。それは普通の感覚だと「収穫の少ない時代だ」という言葉で言い換えられてしまいそうなことなのですが、イエス様の眼差しは別のことを語っていると思います。これほど、人々が侮られ、貧しく放置されている時代があるだろうか。これほど、人々が疲れている時代があるだろうか。こんなにも多くの人々が自ら命を絶っている社会があるだろうか。これほど放射能だウィルスだと、見えない脅威に脅かされ人間同士が疑心暗鬼にされている時代があるだろうか。
 イエス様は、心を憐れみの涙でいっぱいにされて語られたのだと思います。「収穫は多い」と。それは悲しみと慈しみ、共苦と断腸の言葉なのです。「だから収穫の主に願って、働き手を送ってもらいなさい。」そう「助けたい」「支えたい」「守りたい」という神の想い、そこに収穫の意味があり、収穫の主・神様の願いがあるのです。
 私たちは、私たちの人間的な思いで、人々を集めたり、自ら集まったりするのではなく、収穫の主である神さまのみこころをよくわきまえていたいと思います。ですから、私たち教会のこれからの「人材」としての働き手を望むのではなく、私たちの生きるこの同時代の地続きの社会で苦悩している人々の救いにたずさわるものとしての働き手を望み、願い、自らそこに加わって歩んでいきたい、そのことを祈られねばならないのだと思います。
 そもそも、私たち自身が、主の眼差しの中で、打ちひしがれ弱っているものとして捉えられた一人一人なのです。しかし、主のまなざしには、大切な「働き手」としても捉えられていたのです。私たちは、イエスさまと共に収穫を見つめる「見つめ手」とされ、働き人を更に加えてくださるようにと願う「願い手」とされているのです。

 戦後、この日本社会に改めて蒔かれたキリスト教の種は、芽を出し育ちながら次第に伝道の使命を帯びて行きました。しかし、その時、つまり「伝道」と語る時に、常に「手にしたい・身につけたい」と思ってしまったのは発信器の方でした。こちらにある素晴らしい教えを伝える「発信力」、どうすれば力強く、広く発信できるか、良い発信器としての教会の成長を願いました。そしていま、教会の発信力が弱くなったとか、発信しても聞いてもらえない時代になった、伝道が難しい時代だと嘆いています。問題の理解の仕方が実は転倒していたのです。私たちが身につけなければならなかったのは、発信器ではなく受信器の方ではなかったのでしょうか。問題は、発信するこちらのための「働き手」なのでなく、生きるのに苦悩している群衆のための「働き手」なのであり、それらの人々の痛みや苦しみを聴き、理解し、いっしょに困り果てながらも希望を探し合って行こうとする受信器としての教会の姿ではなかったでしょうか。こちらに既に解決のための答えがあって、それを発信しなければと考えるのではなく、人々の痛みの中にこそ癒やしの窓口があり、人々の渇きの中にこそまた主イエスが下さる潤いの意味がある。それを知らされていく。受信する教会、教えられる教会。知らされ、学び、癒やされていく教会。そのために集められ、そのために交わっていく教会をもっとイメージすべきではなかったでしょうか。

 集められた12弟子は、みな無名で弱き人々でした。この12弟子は、誰一人として「他の誰かではいけない」というほどの人たちではありませんでした。ペテロでなくてはならないことはなく、またヤコブでなければならないという、「特待生」的な選びではありませんでした。けれども、彼らは主の憐れみの中に捉えられ、確かに、ペテロとして愛され、ヤコブとして祝福されたのです。それは、これらの一人一人が、みな憐れみの中に捉えられながら、働き手となっていく、収穫の主の不思議な招きと「すなどり」の業の中に置かれたということなのです。弟子達はせっかく集められながらも、誤解を繰り返し、たくさん失敗もしました。でもその誤解を通して、主が見つめられていた「収穫」の意味を理解していくことになります。最初は、エルサレムに行ってイエス様が王様になったら自分たちは大臣になるぐらいのことを「人生の収穫」だと勘違いしていた彼らも、後に人生に苦しむ人々に自分を注ぎだし、「金銀は私には無い。しかし私にあるものをあげよう。主イエスの名によって立ち上がりなさい」と語る者とされていきました。人間にとっての価値、人生の収穫というものが転換させられた姿で生きる人々となります。この、彼らの「収穫の主に働き人を願う祈りに」聖霊は応えてくださり、日々多くの人々を集めてくださったというのです。それが使徒言行録の証言です。
 12弟子が、選ばれたとき、彼らは十分な使徒たちではありませんでした。しかし、いやだからこそ、やがて主の目に映る収穫に存分にたずさわることのできる可能性に満たされていたのです。私たち市川八幡教会も、こうして集められていながら、今なお、収穫の意味をはき違え、働き手として胸の張ることの恥ずかしいものでありますが、しかし、収穫の可能性は常に私たちに託されています。私たちは、まぎれもなく、収穫の主に呼び寄せられた一人ひとりなのです。
 私たちが、その収穫を得るためにはどうしたらよいでしょうか。イエス様の眼差しを私たちのものにしていくこと。そのことを祈り求めることしかないのだと思います。
 この時代の中で、イエス様が何を見て収穫と感じておられるか。イエスさまが収穫のために誰のところにどのようになさろうとしているのか。そのことを真剣に祈り求めるものでありたいと思います。


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市川八幡キリスト教会 千葉県市川市八幡2-1-10 電話047-332-5197
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