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新共同訳聖書から引用しています。
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週報巻頭言
週報巻頭言 : くる朝ごとに招かれる マタイ福音書20章1-16節
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2020-10-25 17:38:08 (45 ヒット)
週報巻頭言

 一緒に並んでいる仲間たちの中で、自分が朝一番に雇われたとき、この労働者はどんなに嬉しかったことでしょうか。仕事にありついたのです。そして、今日は日当をもらうことができるのです。心からほっとしたのでした。
 日雇い労働者たちは、毎朝大変厳しい競争にさらされます。朝、求人が集まる寄せ場と呼ばれるところに出向いて待ち、その日の日雇い労働の求人を待つのです。そして、「手配師」とか「人夫出し」と呼ばれる仲介人が差し出す仕事内容と条件とに折り合いをつけて、現場に向かうのです。昨日仕事にありつけたからといって、今日も仕事があるとは限らないのです。朝、仕事が決まるまでは、緊張と不安とでいっぱいです。「明暗を分ける」という言い方がありますが、朝、仕事にありついた人たちは満面の笑顔です。一方、仕事にあぶれた人たちは、ほんとうにがっくりと肩を落として、どこか途方に暮れたようになります。そして、今日一日をどう過ごすか、明日からどうなるのか、という不安に呑み込まれてしまいます。まさに明暗が分かれるのです。それが朝の寄せ場の風景です。
 そんな中にあって、朝一番に雇われたこの男は、その朝、その時、どんなに嬉しく、どんなに喜んだことでしょうか。良い仕事、良い人夫出し、良い雇い主に出会った、と、嬉しく感じ、「よし、今日は一日、ばりばりやるぞ」と張り切ったに違いありません。

 けれども、現場で働いているうち、この労働者にとって気になることが起こり始めました。午前中に一度、そして正午ごろに一度、三時ごろに一度、そして夕方になってまた一度、と、現場に労働者がやってくるのです。「妙だな」と感じました。「どういうことだ」と不思議に思いました。なんだか、雇用主に対して腹が立ってきました。「こんなことなら、最初から雇えばいいじゃないか。」と思ったのでした。そう思い始めると全てに腹が立ってきました。遅れてきた労働者たちを見て、「自分が朝からならしてやった仕事のうえで、ちんたらやりやがって」「今頃、涼しくなってから、なに、のこのことやってきてやがる。」そう思ったかもしれません。でも、思い直すことにしました。自分で自分を納得させようともしたのです。「まあ、当然、それだけ賃金に差がでるんだから、良しとしよう。あんな連中、いくらにもなりゃしねえだろうよ」・・・、そう信じて。
 仕事が終わりました。並んで日当を受け取ります。自分の前に、後から来た連中が並んでいます。「おっ、連中はいくらもらうんだろうか」こっそり見ています。すると、1デナリもらってるじゃないですか。カチンときました。「冗談じゃねえよ」と。でも自分を励まします。「ということは、俺たちはもっと弾んでくれるってことか」と。
 ところが信じられないことになりました。自分に手渡されたのも1デナリだったからです。これには、ぶち切れました。「そんな道理があるか」。「そんな馬鹿なことがあるか」。彼は、即刻、主人にくってかかります。「朝一番からここで働いた俺たちと、昼めし時とか、おやつ時とか、終わる頃になってやって来た連中とが、何で同じ日当なんだ!!」。
 おおよそ、彼がぶち切れてしまった感情は理解できます。彼がそう文句を言いたくなるのはかなり「もっともだ」と思えます。どう見ても「つじつま」が合わないように思えます。でも、合わないはずの「つじつま」が、この主人の一言の前には、合っているのです。そして、この主人の言い分は明快です。
「友よ、わたしはあなたに対して不正をしてはいない。あなたはわたしと1デナリの約束をしたではないか。自分の賃金をもらって行きなさい。わたしはこの最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。」(13節)
 この言葉の前に、彼は立ち尽くすしかありませんでした。彼は、今朝、約束をした、あの恵みの瞬間に、たち戻されてしまうのでした。
 
 朝一番に雇われた男は、実にラッキーな男でした。仕事を取り付けた瞬間、「立ちんぼ」をしている他の誰よりも弾む笑顔を見せることができました。日雇い労働者にとって、仕事がつながるというのは、生活がつながり、いのちがつながることです。彼は、その朝、他の誰よりも「つながった」という「幸運」を感じました。けれども、働いているうちに、彼は自分が幸運だとは思えなくなっていきました。自分が後から来た連中より「不運だ」と思えるようになりました。朝、持っていた笑顔とやる気は、夕方には、不満と怒りに変貌していました。彼の心の中は、「俺は一日働いた。」「俺が一日働いたんだ。」という強い自負と、「それなのになんだ」という激しい怒りが合わさって、悔しさが固まりのようになっているのです。日暮れを迎え、今、彼の心の中からは、忘れてはならなかったはずのいくつもの大事な事柄が吹っ飛んでしまっています。大切なものが、消え去ってしまい、忘れ去られてしまっているのです。それはどんなことでしょうか。
 第一に、今日の朝、自分は「雇われる」「雇われた」という恵みに預かったということをです。そしてそれはとても「嬉しかった」はずだった。「ありがたかった」はずだったということをです。
 二つめのこと、それは、自分は今朝、この「一日の仕事」を聞かされて、そして1デナリで働くことを良しとしたし、その日当に感謝もしたし、楽しみに働いてもいたのではなかったか、ということです。
 三つ目のこと、これも大切なことです。それは、明日の朝になれば、再び自分は寄せ場に「立ちんぼ」をしなければならず、明日の朝も確実に自分が雇われるかどうかはわからないのだ、ということをです。
 しかし、今、彼の心は、「自分は一日働いた。」「自分が働いたのだ」でいっぱいです。自分が恵まれて雇われたことと、明日はまた明日で、この恵みに預かれなければ、働くことさえできない自分なのだということを忘れています。そして残念なことに、「一日よく働いた」という事実が、どうにも、自分の喜びにはならず、不満と怒りの種になってしまっているのです。「よく働き、よくがんばり、よくやった」。人間のその素晴らしい労働・労力が、なぜか喜びにならない。だとすれば、それはとても残念なことです。
「朝一番に!」「朝一番から!」 思えば、自分に注がれた抜群の恵みなのに、その同じ恵みが、後から遅れて来た誰かに注がれているのを知ると、喜びは不満に変わり、感謝が怒りに変わる・・・。明日の朝になれば、緊張と不安を抱えて、再び声をかけてもらうのを待つしかない自分であるという事実が、どこかに吹っ飛んでしまい、「今の不満」に理を探し、「今の怒り」に筋を通そうとする、そうした倒錯は、わたしたちの中にも、しょっちゅう起こっていることがらではないでしょうか。そのような「恵みの忘却」は、私たちの中にも起こり続けているのではないでしょうか。

「それとも、わたしの気前のよさを、ねたむのか」(15節)。 主人は彼に向かって、そう言います。この男の、あたかも正当な言い分の中にうごめいている「ねたみ」を、主人は感じ取っているのです。
「ねたみ」は、人間関係にとってはもちろんのこと、今日の人間世界にとって深刻な影をもたらしている人間感情の一つであろうと思いますが、そうした「ねたみ」とは、今日、自分が憐れみと恵みを受けてここに存在していることを忘れ、また、くる朝ごとに招かれて生きているという素朴な事実から離れ、「自分の力」「自分の業」をことさらに強調したり、絶対化したりするところに生まれるものなのかもしれませんね。自分の正しさ、自分を少しでも高く見積もりたいと思う気持ちと「ねたみ」とは、とても深い関係にあるのです。
 そして、もしかしたら、理が通っているということで安心してきた自分たちの言葉や行動の中にも、こうした「ねたみ」の感情や「優越意識」が渦巻いていることが多分にあるのではないか、そのことを改めて省みてみたいと思わされています。そうしないと、「ねたみ」に裏打ちされた感情は、反発となり、怒りとなり、敵意となり、争いへと人間通しを回していくのではないでしょうか。「自分の正しさ、他人のだらしなさ。」「自国の正しさ、他国の問題性。」そこに、れっきとした優劣、善悪の決着をつけなければならない、と怒りに身もだえている、今日の世界は、そこに一つの根を持つようにして、混乱を来しているとは言えないでしょうか。

「この最後のものにもあなたと同様に払ってやりたいのだ」(14節)と心を配る、この主人に例えながらイエス様があらわしてくださっている神さまの心につながっていたいと思います。私たちも、そして誰もが、神さまの目には、すべてが憐れむべきものとして映り、それでいて、すべてが尊く、大切に映されているのではないでしょうか。災害で被災した人たち、新コロナに罹患して闘病する人々のいのちが何より慈しまれており、でも、同時に、同様に、私たちのいのちと生活もとても大切にしてくださっています。今、この、同じ時にです。私たち元気なものも、今、ぺしゃんこになっていて助けを必要としている人も、実のところは、くる朝ごとに、いのちに招かれ、くる朝ごとに、恵みをいただいて生きている、等しい仲間なのではないでしょうか。そのことを忘れると、「自分たちが働いた」という意識とその事実から、妙なものが生まれ始めるのではないでしょうか。
 今日、こうして礼拝を捧げ、一緒に労することができて、良い一日としましょう。きっと豊かな一日となるでしょう。そして、また、明日を迎えることでしょう。今日の充実が、しかし、明日の充実につながるかどうかはわからないでしょう。明日、もしかしたら、今日、こんなに晴れ晴れと過ごすことができたのに、一転して、何らかの重荷に押しつぶされそうになり、あるいは問題に直面するのかもしれません。けれども、私たちの主は、夕方になってもなお、わたしたちのところに、わたしたちを探しに、繰り返し来てくださることでしょう。「あなたたちも、ぶどう園に行きなさい」。「わたしはあなたたちに、一日働いたひとたちと同様に払ってやりたいのだから。」


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