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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
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週報巻頭言
週報巻頭言 : 結び合い、平和を祈る家 詩編122編1-6節
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2020-11-01 17:25:55 (40 ヒット)
週報巻頭言

 昨年11月3日、ちょうど1年前にあたりますが、臨時総会で執事選挙がおなわれました日の夕方、当時の現職執事と選ばれた新執事と牧師とが一同に会して夕食会をいたしました。その際、2020年度以降、どのような宣教姿勢と方針をたててこれから歩んで行くかについて大いに語り合わせていただきました。それらを文書化し、さらに協議して文言を整えていったのが2020年度の活動方針と計画案にまとめられています。
 夕食会の中で盛り上がったのは、永年希望されてきた礼拝堂のフローリング化、老朽化し衛生面でも課題のある絨毯をはがしてフローリングにすること。これを具体的なプランにしていくべきではないか。来年度は「クリスマスを新しい礼拝堂で捧げよう」、2020年は東京オリンピックも開催されるので、ネーミングもフロリンピックなんてどうか。「うわぁ、すてき。でもできるのかなぁ」わいわいと語り合いました。でも、総会に提案していこうということになりました。同時並行で、数年かけて検討してきた、教会学校を礼拝後に移動し、クラスの交わりと対話を強めていく案、そしてあらためて市川八幡教会の中長期のビジョンを語り合う一泊キャンプの実施、この三つを2020年度の三本柱にして歩んで行く計画案を総会に提案し、それが決議されていきました。
 方針案に流れる主たる感性は、ゞ飢颪教える、教会が伝える、教会が出て行くという教会中心の目線をあらためて、社会で懸命に生きている人々、そこで培われているリソースからもっと学び、またこの世に合って社会的に周辺化させられているいわゆる社会的マイノリティーの人たちが安心して集まれる場となれるように、そしてわたしたちも含めてこの同時代を生きる人々が、フラットに出会い、解放されていくための仲間になっていける、そのような場をつくっていこう、ということにありました。2019年度に、礼拝堂やホール、牧師室などの境目を遮ってきた扉にガラスを入れて見通しをよくし、市川八幡ひらかれプロジェクトを続けていこう。それは建物施設のことだけではなく、わたしたちの群れがもっともっと時代や社会に開かれた存在になるために、考え続けていこうということでした。そのために礼拝堂もまた、やがて地域社会の人々がなにがしかのホールとして用いていただけるようになればいい、その一歩としてフローリング化に取り組もう、ということにもなったのでした。
 年度末から思わぬ新コロナウィルスショックにみまわれ、残念ながら、4月からスタートするはずであった新しい体制での教会学校は、いまなお延期を余儀なくされており、また9月初旬に実施予定であった一泊キャンプもできませんでした。けれども、動きをにぶらされているこうした状況の中に、たとえあったとしても「フーリング化工事」は計画を曲げないで取り組もう。そのことを確認し、予定どおり着工し、今日の感謝礼拝を迎えることができました。ですから、この礼拝堂のリニューアルには、「教会がもっと開かれた場所になるためにどうするんだ」という宿題かついています。明るく、響きのよくなった教会に、誰が来て、どんな声を響かせていくのですか、という問いが含まれています。
 今日は、そのことを改めて心に留めていきたいと思います。
 神さまは、わたしたちに必要なものを賜ります。わたしたちは賜りますが、それを私物化してはなりません。賜り物を捧げます。賜り物をまた捧げる。いただいたものは、送りだす。等価価値を交換していくという対価経済ではなく、わたしたちは恵みを常に送りだす循環経済でいきていきます。それはやがてまたわたしたちに思わぬ賜り物として、恵みとして戻ってきます。そのことを信じて、わたしたちはここに集まり、ここで祈りと賛美の家をつくり、また恵みに感謝し、捧げ物をささげ、遣わされていく。この礼拝堂をわたしたちの人生の共通の通過点としながら、それぞれが循環するような生き方をしていきたいと思います。

 巡礼の誘いを受けて喜んでいるこの詩人は、エルサレムに行くということがどんなに嬉しく、また心躍ることであるかを言い表しています。エルサレム巡礼、そして城壁の中で過ごす礼拝と交わりの数日は、日ごろ散らされて生活しているイスラエルの人々にとって、慰めと励ましに満ちた体験となりました。
 エルサレム巡礼は、人々にとっていったい何に気づかせ、どのような嬉しい実感をもたらしたのでしょうか。その第一のことは、エルサレムの城門の中に入ると、「神はわがやぐら、わが避けどころ」ということが実感できるという喜びでした。南北に分断されて、あるいは諸国に散らされて生きている人々の日々の暮らしにとって、「櫓(やぐら)」や「砦(とりで)」はまったく無縁のものでした。日々、拠りどころの見当たらない心細さに囲まれて生きているのです。やっとの事で実現したエルサレム巡礼。城門をくぐったときの感動はひとしおであったことでしょう。「神はわが避けどころ。わが高きやぐら」。この実感が、巡礼を終えて再び散らされていく人々の心の支えとなっていったことでしょう。櫓や砦を持たず、裸一貫で生活を切り開いていくしかない「地の民」らは、しかし、その心に城壁を築き、神の守りを信じて歩んでいったことでしょう。
「エルサレムよ、われらの足はあなたの門の内に立っている。」
 この詩は、城門の中にいる、いないにはかかわらず、わたしたちはどこにいたとしても主の守りの中にいるのだ、という思いなのです。
 市川八幡教会の基本指針は「隔ての壁を除く」歩みをしようということですが、心の内に神の守り(護り)の御手を信じて生きることと、他人との隔ての壁を取り除くことは、決して矛盾することではなく、むしろ響き合っていくものではないでしょうか。
 そうです。城壁の中に入った人々の「嬉しさ」のもう一つの実感は、多くの人々と繋がり、結ばれているという事実、「きょうだいしまい」あるいは「仲間たち」の発見ということだったのだと思います。
 日ごろはどこにも行けず、限られた区域の中で、限られたほんのわずかな人々と過ごす日常を生きています。そこから来て、そこに戻っていきます。けれどもエルサレムで出会いは起こります。他者の人生と出会い、自分以外の人々の暮らしに触れます。自分のつながりの裾野が広がり、視野も広がります。自分のささやかな日常につながる仲間たちの存在、手にするわずかなパンの背後にあるものを想います。神を共に礼拝することを通して、戻っていく自分の小さなエリアの中で唱える祈りが、つなかりの裾野を持ったものに変えられ、平和の祈りが生まれていくのです。
 この詩は、エルサレムとシャロームが対語のように響き合いながら閉じられていきます。
 エルサレム、それは「平和の基」という意味です。実際のエルサレムは争いにまみれています。しかし、主がイエス・キリストの十字架の苦しみで真の意味を刻み込んだエルサレムこそが、平和の基です。このキリストのまなざしにとらえられた多くの人々の命を、わたしたちは発見しながら、できれば結び合わされながら、平和を祈る祈りを捧げて生きて参りましょう。結び合い、平和を祈る家になるために、どうかこの教会が、この礼拝堂が豊かに用いられますように。アーメン


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市川八幡キリスト教会 千葉県市川市八幡2-1-10 電話047-332-5197
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