
わたしが牧師として歩み始めた最初の赴任地、兵庫県の伊丹教会には小さな幼稚園がありました。こひつじ園といいます。そこで22歳のわたしは、なんと園長先生をつとめることになりました。とはいえ、園長としてなすべきことなどほとんどわからず、まずは毎朝、こどもたちを門に立って迎えることと、登園してしばらくの自由遊びの時間を、とにかくたっぷりと一緒に遊ぶことが日課でした。
こひつじ園の年長さんに、筋ジストロフィーの詫間直樹くんがいました。腰のあたりから婉曲した足でようやく立ち上がり、数歩自分で歩いてはぺたんとしゃがみこんでしまう子どもでした。好きな絵本を自分でとっては、ホールの隅にしゃがみこんで床に絵本を開いてじっと見ている。時々、みんながホールで遊んでいる姿を、自分もニコニコしながら見ている、そんな風景でした。他の子どもたちも、直樹くんが座り込んでいるところをじょうずによけながら遊ぶのです。
丁度そのころ、大縄がブームになっていました。「郵便屋さん、おはいんなさい。ひろってあげましょ、一枚、二枚・・・」長い縄跳びを回しながらくぐるんですね。子どもたちが、きゃーきゃー言いながら飛んだりひっかかったりして遊んでいる。その片一方の縄を回している先生の足下に座って、直樹くんは首をくるくる回しながらみんなを見て、にこにこしているんです。
自由遊びの時間が終わりますと礼拝の時間があります。小さなイスに子どもたちが輪になって座っている前で、園長先生がお話をするのです。
その日、わたしは天国の話を子どもたちにしたいと思いました。そして子どもたちに、「なあみんな天国ってどんなとこやと思いますか?」って聞きました。
「いーっぱいお花があるところ。」「お花畑みたいなとこ。」
「うん、そうかもしれんなあ」「ほかには?」
かっちゃんという男の子が言いました。
「あんな、イエスさまがおんねん。」
「おおかっちゃん、そやな、イエス様がいるなあ」
「ほんでな、ぼくらみーんなで大縄しとんねんけどな、直ちゃんもな、いっしょに大縄し てんねん。」
かっちゃんはそう言いました。子どもたちの前に立っていたぼくでしたけど、頭をハンマーでガーンとなぐられたような衝撃を受けました。そしてもうお話ができなくなりました。そのあとのお話はしどろもどろになってしまいました。何もしゃべらないほうが良かったのに。
天国ってどんなところ。「直ちゃんもいっしょに大縄してるようなところ」。子どものかっちゃんがとっさに心に描いた、この天国のイメージの前に、わたしは打ち砕かれてしまいました。イエスさまの招き、すべてを包む招き、そして苦しみや障害からの解き放ち、共に平和にすごす場、そのすべてが内包されたイメージでした。何という子どもの感性、感受性。子どもってすごいなぁ、と思いました。そして「子どものように神の国を受け入れる」ということがどういうことかを学んだように思います。
かっちゃんはそのように天国を受け入れ、かっちゃんも直ちゃんもそのようにして天国に受け入れられているのです。目の前にいるのは、天のこどもたちでした。
かっちゃも直樹くんも卒園してからも教会学校に通うようになりました。
かっちゃんは教会学校が大好きでした。日曜日だけではありません。かっちゃんは教会が幼稚園が大好きでした。学校から帰ってくると、しょっちゅう教会の玄関にやってきました。「園長先生、遊べる〜。」「ごめん、今から家庭集会やねん。」「ほんだら奥やんいる〜。」妻と結婚する前でして、東八幡教会の奥田牧師が当時神学生で牧師館に居候していっしょに暮らしてたんです。かっちゃんは「奥やん、奥やん」って、後ろをついて回っていたんです。奥やんも、ほんとうにまめにかっちゃんたちと遊んでくれていました。かっちゃんは奥やんが大好きで、夏休みには奥田神学生の滋賀県の実家に夏休みに泊まりにいったこともあるくらいでした。伊丹教会・こひつじ園の敷地に、かっちゃんの声の聞こえない日はなかったくらいです。
かっちゃんが3年生になるとき、かっちゃんのお父さんとお母さんがそろって教会にやってきました。「園長先生、これまで勝彦がおせわになりました。でも教会学校もこれでやめさせてもらいます。先生に習っていたピアノもやめさせてください。うちの子には「灘中(灘中学)」に行ってもらいたいんです。それで浜学園に通わそうと思います。もう、今から気ぃ入れて勉強していかんと「灘中」無理なんです。ぜったいに「灘中・灘高」でいかせたいんです。」
かっちゃんの顔が街の公園から消えました。ちょっと甲高い張りのある声で、「園長せんせ〜、奥や〜ん」と呼んでくれたかっちゃんの声は、それから聞けなくなりました。
いちど、夕方に浜学園に通うところのかっちゃんと阪急電車の改札ですれちがいそうになったので、「かっちゃん、いまから浜学園?がんばってるみたいやな」と声をかけましたが、無言でうなずいて改札の中に入っていきました。わたしは、心の中で、「あのかっちゃんがなあ、さびしいなぁ」「ああ、かっちゃんをかえせ〜」と心の中で叫んでしまいました。そんなこと思ってはいけないのかもしれません。でも大事なものを失った淋しさを感じてしまったのでした。
筋ジストロフィーの詫間直樹くんはお母さんに抱っこされて教会に通いました。直樹くんの筋ジスは年をおって悪くなりましたが、お母さんは下の子を背中に背負って、直樹くんを車から降ろしては抱きかかえて教会に通いました。今思えば、当時バリアフリーではなかった二階の礼拝堂に、直ちゃんを抱いてあがるのは大変だったことでしょう。お母さんは、直樹くん(直ちゃん)が2年生になった年のクリスマスにバプテスマを受けられました。直樹くんもお母さんといっしょに教会にずっと連れられてきました。直樹くんは養護学校の中学生になったとき、もう全身が動かなくなっていましたが、その春のイースターにバプテスマを受けました。そして、まもなくして教会員たちと養護の仲間たち、障害を持った子どもたちのサークルの仲間たちに祈られ見守られながら天に召されました。『花、夢、ぼく。みんな大好き』という詩集を遺して、神さまのところに行きました。
「なあみんな。天国とはどんなところ?。」
わたしは今でも、「直ちゃんがいるところ」というフレーズが心をよぎります。
たとえば、赤ちゃんが生まれますともう大騒ぎになります。「じぃじ・ばぁば」がやってきます。親戚もやってきます。友だちがやってきます。その度に、赤ちゃんは、かわるがわるに抱っこされ、揺りあやされ、「いないなばぁ」を見せられ、「ほーら高い高い」をさせられ、しまいにはほっぺにチューまでされてしまいます。赤ちゃんは、なされるままです。可愛がられるままに可愛がられている。まるで、愛されること、祝福されることの受け皿のようです。
大人になると、なかなかそうはできません。祝福される場所に招かれていても、「わたしなんぞは、そんなもんじゃありません」と言って遠慮したり辞退したりします。心の中では「祝福して欲しいことはこっちで決める!から」とか、「これしきのことで祝福せんでくれ!」なんて思ってたりします。
けれども、神の国の祝福とは、実におさなごが一方的に抱かれ、包まれ、愛されてしまうほどに神の御手の中で起こることです。それを受け入れることです。受け入れるということは、まるまる神さまに受け入れられることです。私たち人間が考えている「祝福に値する状態」とか「祝福されようのない人間だ」なんて、ほんとうに神さまは考えておられるのでしょうか?
私たちは、神さまに祝福されてしまうのです。このままのわたしを喜び、祝福してくださろうとしている神さまの御手から逃げようとせず、身をまかせてはいかがでしょう。
神さまを受け入れようとしない、神さまに受け入れられようとしない、そんな頑なな私たちを神の子にするために、神さまはイエス様をくださいました。それほどまでに、神さまの恵みと慈しみによって私たちは愛されています。だから、私たちは、こんな私たちが、やがて神の国で、神の国にふさわしい姿とされて、豊かな交わりをいただいて生きるようになるのだと信じ、神さまの愛を受け入れてしまってはいかがでしょうか。
そうです。すっかり、神さまに愛されてしまってはいかがでしょう。
「子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そして、子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福された。」
今日は、子どもたちを祝福する礼拝。ごいっしょに幼子たちを受け入れましょう。幼子たちと一緒に神さまの祝福を受け入れましょう。そして私たちこそ幼子たちと一緒に、神さまに受け入れられましょう。
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