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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
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週報巻頭言
週報巻頭言 : あなたが生きて、わたしが生きて   サムエル記上20章1-15
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2020-11-15 18:50:15 (23 ヒット)
週報巻頭言

人びとは王を求め続けました。王さえいれば、多く、大きく、強くなれると考えたのです。

この時代を生きているわたしたちも王を求めます。予期せぬ病、災害被害、裏切りに遭い苦しみます。心身はわななき、この痛みから逃れたいと思います。もう死んでしまいたいと思ってしまうこともあるほどです。しかし、同時に「なぜわたしが死なねばならないのか」という悔しさがこみあげます。
「王の思うがまま」にできる社会についてサムエルは預言していました。「息子は兵士に、娘はパン焼き女にされる」と。ジェンダーは強化され、未来が「王の御心」に奪われてしまうと預言していたのです。誰が生き残り、誰が殺されるのかを、王が決めます。
王という言葉を神という言葉に差し替えるとどうでしょうか。誰が生き残り、誰が殺されるのかを、神の御心と言ってしまっていいのでしょうか。わたしは、「ほんとうにそれが神の御心?」と疑問を持ちながら、わからないこと、理不尽なことに対して、肩と肩をよせ合い、ぬくもりを感じる距離で話し合える場所をつくりたいなあという気持ちで、教会の中で聖書を読む係を担わせていただく歩みをさせていただいてきました。しかし、わたしはあまり上手にできなかったと、今、感じています。それでも、やさしさを約束してくれるはずの教会というスペースで「どれが御心なんだろう」と問うていけたらいいなとわたしは願っています。みなさんにとって、教会はどのようなところでしょうか。

ダビデは、サウル王の寵愛を受け、王の娘ミカルと結婚し、王の息子の一人になりました。ダビデはサウルに仕えました。サウルは、深く悩むといつでもダビデを呼びました。ダビデに琴を奏でさせ、慰めを受けたのです。ダビデは従順な僕、そして、息子として服従しました。サウルのために戦い、勝利し、王のために、父のために尽くしてきたのです。
当時の美徳とされる父子関係でした。息子は絶対的権力者のいいなりを喜んで引き受けていました。ところが、サウルの方がこの関係に恐れを感じたのです。王の地位を脅かすものと、ダビデは敵視されてゆきました。サウルはダビデを恐れるあまりに、その権力をふるって憎悪しました。サウルはダビデに槍を投げつけ殺そうとすらしました。
これは現代社会の中で私たちの間で起こっていることでもあるのです。恐れが憎悪となり噴出し、暴力、威嚇、けん制がつねにやりとりされます。
物語に、もうひとりの息子が登場します。ヨナタンはサウルと妻アヒノアムの長男ですから、ダビデの義兄です。彼は、ダビデとは正反対に父に服従をしません。ヨナタンは敵地の蜜を食べました。戦闘中の飲食が禁じられていたのにもかかわらず、蜜に手を伸ばし、精力を回復しました。食べてはならないと言われていたものに手を伸ばしたのです。この件でヨナタンは父から死刑を命じられました。しかし、ヨナタンを慕う人びとは王に恩赦を懇願しヨナタンは生き残ったのです。

「ヨナタンの魂はダビデの魂にむすびつき、ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛した。ダビデと契約を結び、着ていた上着を脱いで与え、自分の装束を剣、弓、帯に至るまで与えた。」(18章2−3節)

キリスト教会の伝統は、ダビデとヨナタンの物語を、どう読んできたでしょうか。両者が息子で、男性であることから、彼らの愛を「友情」と表現してきました。親友、友愛、と。ところが、どう読んでも、ヨナタンのダビデへの熱愛は性愛を表しています。自分の着衣を相手に渡し、剣、弓、帯を与えるのは性愛的な表現です。仲が良かった、意気投合した、という仲間を表す言葉ではありません。
ヨナタンの自由さは、王国にとって危険でした。蜜を食べ、義弟であるダビデを愛すヨナタンのありのままさは、王国の秩序を乱す逸脱です。義兄弟は、王位継承をめぐり、敵同士として競い合い、蹴落とし合い、一人だけが生き残ればいいのです。愛し合い、ふれあい、ぬくもりとやさしさで、両者が抱き合い生き残ってはならないのです。現代のわたしたちの規範的で監視的な社会でも、この触れ合いと抱擁こそが、最も恐れられていることではないかと思います。人と人とが自由に愛すること、性愛を男女間にとどめないこと、性愛を絶対視しないありのままの私たちの在り方こそが、統制する力を崩します。
国家、機構の利益以外のために、人がいのちを助け合うことは邪魔なこととされます。家族規範的慣習を打ち破り、「あなたと私」という関係が築かれることは、混乱と呼ばれます。男と女という二分法でなく、わたしであること、生殖目的以外の性愛が取り交わされたり、されなかったりと、わたしたちが性を私たちに与えられたものとして取り戻すこと、あなたが生きていてよかったと言い合うこと、これらが、王国システムが最も恐れていることです。だから抑圧者に対して、わたしたちは自由に愛し合い続け、ふれあい続け、抱擁を続けることがもっとも効果的な抵抗なのです。

今朝読んでいる箇所では、二人の男たちが、女たちのように振舞っているとわたしは読んでいます。もう少しだけ、二人の話をさせていただきます。
20章1節に、ラマのナヨトからダビデは逃げ帰ってきたとあります。ナヨトの地は、命をねらわれたダビデが避難した場所です。ダビデがその避難所からも逃げた理由は避難所も危険な場となったからです。
教会へ行ったら助かると思ったが、もっと危険だった、わたしはそのような声をたくさん聴いてきました。キリスト教会で、生きづらさが増していくと感じるのは、ほんの一部のマイノリティの特殊な問題ではすまされないと思います。けれども、わたしはこの物語を読んで思うのです。危険を感じたら、また次の場所がある、必ず自分に触れてくれる人がいる、そのことがここに書かれているのではないでしょうか。ダビデにとっては、それは、王国の秩序を逸脱して、上着を脱いだヨナタンのところだったのです。誰かが、わたしのために、あなたのために上着を脱いでくれていたことを思い出したい、そんな気持ちでこの箇所を読みたいと思います。20章で初めてダビデがヨナタンに言葉を発します。
「お父上に対してどのような罪や悪を犯したからといって、私の命を狙われるのでしょうか」。
罪と訳されている語の原意は「反抗する」「抵抗する」です。「わたしが父に反抗しましたか?」と、ダビデは問いました。忠実すぎるほどに仕えてきたはずのわたしが、なぜ、殺されるのか?と。ここまでで、父に対して具体的に反抗したのはヨナタンの方です「父に対して反抗しているのはあなたなのに、殺されるのは、わたしなの?」とダビデは言ったのではないでしょうか。わたしは、このダビデの言葉から、聖書の文字と文字、行と行との間に挟まれ、消されてきた女たちの「声なき声」を聴き出さずにはおれません。
創世記には、実に触れ食べたエバ、エジプト人女性だということで追い出されたハガル、子どもが与えられなかった挙句に最後は出産で死ぬラケル、民数記には裁かれ自分だけが皮膚病を受けるミリアム、士師記には夫から突き出されレイプされた女奴隷、サムエル記には泣いたハンナ‥‥聖書には「なぜわたしが?このしんどさをうけるのは、ほんとうはあなただったのではないの?」という呻きであふれています。わたしたちにも、「御心だから」では割り切れない、「なぜこのような目に遭わされるのか」というもだえ苦しみがあるのではないでしょうか。ダビデも、そういったのです。なんでなの?と。
ヨナタンの心臓に、ダビデのもだえは、どう響いたでしょうか。わたしたちが、町で、職場で、家で、路上で、病院で聞く「なぜ」という言葉は、私たちの心臓にどう響いてきたでしょうか。
ダビデはこう続けました(3節)「死と私との間はただの一歩です」。直訳は、「私と死の間は境界線上です」とするのがよいと思います。一歩と訳されたペシャッハという語は逸脱という語です。この意味にもっと近づいて考えなければなりません。殺されてはならない人が、殺されてしまうなんて、これは、もう超えてしまうことになります!いいの?という意味です。この語は過ぎ越しの祭り、ペサハと同語です。エジプトからの解放の日、死は通り過ぎました。王国の長子のみが死にました。その記憶を持つ人びとにとって、この語は特別でした。王国の長子は、ヨナタンで、あなたが王に背いてきたのに、私がどうして殺されなければならないのですか?と。過ぎ越されるはずのわたしが、死の方へ追いやられ、あなたは生き残るのですか?と。これが、あなたが私にくれた槍、弓、帯なのか?あなたの愛は、王国の制度の中の愛で、いのちといのちの重なり合いなどではないではないか、ダビデは悲嘆、憂いをもってヨナタンに初めて自分から語りかけます。

ダビデが語った「いのちの神は生きている、だからわたしも生きている」ということばは、伝統的な神告白の言葉です。神が生きていて、あなたが生きている、だけどわたしは死んでいくのですか?なぜあなただけが生き残るのですか?なんと鋭く、そしてわたしたちの実存に語り掛けることばでしょうか。あなたが生きて、私が生きている世界はないのですか?あなたが生きて、私が生きていることはどうしてできないのか―この問いを抱いてきた多くの女たち、子どもたち、外国人たち、そして私のすぐ隣にいる人びとの声を、わたしはこのセリフの中に読みたいなあと思って神学研究に従事させていただきました。
どちらかが死ぬ世界では、死の側にならないために服従します。こびへつらい、規定通りのことをこなさねばなりません。大きな身体の一部、パーツになれば生き残ることができます。ヨナタンもまた、いつでもダビデの立場に置かれる境遇です。父に気に入られなければ殺されるのですから。こんな恐怖で明日がない世界での唯一の抵抗は、弱さと弱さの結びつきです。これ以外、これ以上のものはないというのが、キリスト教会が背負ってきた福音のはずです。一番の抵抗は、ふれあい続け抱擁した腕を離さないことです。
ヨナタンは、父への背信を続けました。ヨナタンだけが生き残るのではない、あなたが生きて私が生きる働きを始めます。父に統治される世界から外へ出ていきました。「野に出よう」とダビデを外へと連れ出しました。二人は境界線を越えて目には見えない一線をまたいで外へ出ました。こどもたちは、二人ともが生き残ること、いのちを選択しました。
イエスもそうだったのではありませんか?イエスにはローマ帝国やヘロデを凌駕する力はありませんでした。ただ、彼にできたのは、民衆とつながり続けること、民衆に触れ、抱擁し愛することでした。民衆が殺され続けてゆく中で、イエスも殺されました。あなたが殺され、彼も殺されたのです。これが、打ちひしがれた民とのただひとつ残された連帯の方法だったとしたらなんと悲しいことでしょうか。イエスに語り掛けた女たちは、「なぜあなただけが生きるのか」と問いました。イエスは民衆から「神だけが、王だけが生きるのか?それでいいのか」と問われ続け、その声に結びついていったのです。イエスはこの訴えを引き受け、十字架死させられるまでに、父への、王への抵抗を続けました。連帯の方法が、一緒に死ぬことだなんて本当に悲哀に満ちています。
この悲しみに対して神は立ち上がります。神はもう我慢できないのです。神はいのちへ、いのちへと逸脱の道へとわたしたちを押し出します。「主は生きておられ、あなたも生きる」。あなただけが死ぬなんておかしい、という神の応答が復活です。復活は、もっとも弱くされたものを決して殺さないという神の強い意志、抵抗です。人間がしがみついているシステムに対する逸脱行為を神が、実践したのです。神は、上着をわたしたちに渡し、あなたを愛している、私が生きているとき、あなたも生きてほしい、誰かを殺す世界をわたしはゆるしはしない、さあ、野に出よう、あなたを誰も殺すことはできない、逃げよ、もっと遠くへ、こんなシステムにしがみつくな、とわたしたちをいのちのありかへ、光へ、促しているのです。わたしはこれが、聖書から教えられた福音であると思います。もう、だれも殺されてはならないのです。
あなたがいるからわたしもいきられる、わたしがいるからあなたもいられる、 そんな世界創造のわざに、わたしたちも加わっていこうではありませんか。難しいことではないのです、ただ隣にいる人に「あなたがいてよかった」というだけで、わたしたちは両方ともが生きられるようになるのです。   渡邊さゆり


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