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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
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週報巻頭言
週報巻頭言 : にぎりしめず、あきらめず コヘレトの言葉11 章1-4,6 節
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2020-11-22 15:28:36 (142 ヒット)
週報巻頭言

コヘレトの言葉は、あまりにも衝撃的な書き出しで始まります。
「コヘレトは言う。なんという空しさ。なんという空しさ。すべては空しい。」
 口語訳聖書では「空の空、空の空、いっさいは空である。」と記されています。
「聖書がこんなこと言っていいのですか」と放り出したくなる人もいるかもしれません。
 そのトーンは、信仰とは人生をポジティブに理解する手助けをするもの、あるいは信仰とは人に希望を与える、信じたならばきっといいことがあるし祝福される、という方程式を求めたがる私たち人間の信仰理解にとって、水を差すような書物であると言えるかもしれません。
 先日の夜何気なく観ていたテレビ番組で、この水を差す機能という概念を改めて知らされました。作家の又吉直樹さんと人気の女性三人組の芸人「ぼる塾」のメンバーたちとが、このコロナの中での同調圧力や右へならえに心が連れて行かれる心情などについて緩やかに語り合っている番組でした。
 その番組の中で紹介されたのがカトリック教会の伝統の「悪魔の代弁者」というシステムについてでした。カトリックでは、ある故人を聖人という聖列に加える話し合いの時に、必ず誰かが「悪魔の代弁者」に指名され、その人は大主教達がどんなに故人を賞賛したり偉業をたたえても、その人だけはその故人の悪いところや問題のあるところを捕まえて、可能な限り非難するのだそうです。それが同調を強いる力を常に相対化する機能を果たしているのだそうです。そして山本七平さんは、「日本には『水を差す』という考え方があって、ちょうどこの『悪魔の代弁者』の機能をはたしている」と語っていることが紹介されました。
 私たちは、「水を差す」というと何か、その場の雰囲気をだいなしにする行為、素直じゃない「あまのじゃく」な行為のように受けとめている節があると思うのですが、むしろ、強い声や大きい声にその場が支配されてしまわないように、また集団心理が人々を呑み込んでしまわないために、とても大切な作用なのだということを感じました。
 そういう意味で、コヘレトの言葉は、聖書全体の中でもしかすると大切な「水を差す」役割を担っているのかもしれないと思います。単純な理解、たとえば信じたら天国、信じなかったら地獄、信じる者には祝福、不信仰者には裁き、といった二元論的な構図は、単純思考な分だけ分かりやすく、その分熱狂しやすいと思うのですが、分断や差別の原因にもなります。このような熱狂的な聖書理解をするものにとって、コヘレトはかなりやっかいです。その熱い信仰心に水が差されてしまいます。大いに水を差されてしまいます。けれども、とても大切な役割です。そして、コヘレトは、確かに人間の現実、人生の中で見聞きする現実を的確に捉えていますし、2000年以上の時間を越えて、思い当たる事柄に満ちています。しかも「それをいっちゃあ元も子もないと思えるのだけれども、でも実際そうだよな」と感じることだらけです。宗教的な熱心が生み出す思考停止や信仰的な妄想が冷まされてしまうのです。それが大事。
 私たちは、聖書を読むことで熱を帯びていきたいと思うことがありますが、時には聖書を読むことで、熱を冷まさなければならないこともあるのではないでしょうか。
 また、人間としての成熟は、水を差されることを受容し、水を差された時点でしっかりと冷静に考えてみる力を身につけることではないでしょうか。教会もまた、「水を差される」ことを大切にできる交わりであれば、と願います。
 柳美里さんの『JR上野駅公園口』が全米図書大賞を受賞しました。彼女はこう言います。コロナの中で、「ステイホーム」と合唱されていく中で、居場所のないホームレスの人々のことを考えることができた人はどれくらいいたのだろうか、と。こういう言葉が「水を差す」言葉なのです。そして私たちは、論調や論調がとかく一色に染め上げられていくコロナ化の中で、大切な論理と、切り分けられて考えられなければならないものの境目を、きちんと見極めていくためにこそ、誰かが「ちがうんじゃないだろうか」と語っている声に「水を差され」ていきたいと思うのです。

 ところで「むなしい」という漢字には「虚しい」と「空しい」とがあり、前者が虚無的であるのに対して、後者は不条理性を表しています。あるいはつかみ取ることのできない「届かなさ」やいつまでも続くわけではない「移ろい」や「はかなさ」をニュアンスとしていると言えます。
 人間は、どんなに知識を誇っても、天体望遠鏡をもってしても、また顕微鏡をのぞいてみても「万象のなりたち」を決して見極めきれない小さな存在にすぎません。これが「空・空しさ」です。どんなに学問を修めても、どんなに経験を踏んでも、真理をつかめきれない乏しい存在にすぎません。これが「空・空しさ」です。そして、人間は生きる上で、説明しようのない「不条理」にさいなまれる弱い存在なのです。これが「空・空しさ」です。たしかに人間の考える辻褄に合わないことが起こりますし、わたしたちの遭遇する出来事のすべてを説明することはできないのです。
 今朝の聖書箇所にありますように、国にどのような災いが起こるかわからないし、雲に水分がいっぱいになれば、たとえ今日が遠足の日でも花火大会でも(昨日からてるてる坊主をつるしていても)雨は降るのです。木がどちらに倒れるか、それは風の方向によるのであって人間の都合とは関係ありません。その総てを心配しつくし、把握しつくしてから作業をしようとするならば、いつになっても作業に取りかかることはできないのです。
 「想定内、想定内」。これはかつて一世を風靡したライブドアのホリエモンさんが連発した言葉であり、経済力による対処力の自負を示した言葉でした。しかし、その後、東日本大震災直後には「想定外」という言葉が国家レベルで弁明されましたね。「想定内」、これはたいへん傲慢な言葉です。説明できない。想定できない。それが被造物の証明です。それがコヘレトの言う「人間らしさ」としての「空・空しさ」です。空しさは、被造物であること、造られた存在であり、かつ全能などではない「弱さ」と直結するのです。
 それゆえに、被造物は創り主と結ばれていくしかないのです。被造物は被造物でしかない。その生において空しさを抱えているからこそ、創り主をおぼえて生きるしかないのです。空しさを知るということは、神を知るということに深く関係があります。
 コヘレトが言う「空しい。とにかく空しい。」それは結論ではないのです。むしろ人生の前提、出発点なのです。生きる上で、わからないことだらけだ。説明できることばかりではない。想定しても想定しても、それは撃ちのめされることがある。それが出発点なのです。そうだからこそ、人間はどこに根を張って生きるべきか。自分の経験か、自分の積み上げた宝か、自分の想定か。そうではない。あなたの創り主を心に留めよ。できれば、あなたの若い日に創り主を憶えよ。そして、神を畏れ、神のいましめ、人生を導くことばに聞き従いなさい。それが「結論」12:13なのであり、明日へ向かって根を張るべきところはそこだ、と「たましいの立ちどころ」を教えています。

 人生の実際は、コヘレトが言うように「空しい」として、さて、われわれはいかに生きていくべきでしょうか。「どうせ空しいなら、どうなるかわからないのなら、自己中心、利己目的、刹那の快楽で生きるしかない!」のでしょうか。いいえ、それこそ、虚しい(「虚無」の虚)姿になってしまいます。それは、創り主から離れてしまう姿となり、私たちには直ちには隠されていて不条理としか思えない出来事をさらに包んでいる永遠なる真理と永遠なる慰めから離れてしまうことなのです。若さを喜び、今を楽しむ生き方。思うがままに生きる生き方。それも有りです。けれども、被造物である私たちは、創り主から離れたら、一切の楽しみは虚無となることを憶えておかねばならないのです。
 コヘレトは、わかりきれない人生、つかみきれない人生を生きているからこそ、二つの生きる態度を私たちに届け、励ましてくれています。
 その一つが「にぎりしめない生き方」を選びなさいということです。
「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい」。わたしのパンとは、わたしに与えられている賜物です。恵みです。生きる糧です。そのパンを水に浮かべて流す(船を送り出すようなニュアンスのことば)、つまり自分のためににぎりしめないで、だれかのために、何かのために、手放して送り出しなさいというのです。7人と8人とすら、そんな身近な人々とさえでよいから、にぎりしめないでわかちあいなさい、というのです。
 市川八幡教会の恒例のバザーを今年は取りやめました。この収益は全て、震災支援や福祉施設に捧げて参りました。今年は、その分を「バザーをやったつもり、バザーで買ったつもり」で献金をしよう、ということで11月いっぱい指定献金を募っています。どうか、ご協力ください。
 人間は、自分のパンを水に浮かべて流すときにほんとうに人間らしい喜びが与えられるし、おたがいの人生と人間性を育むのです。それは月日が経ってから、大きな祝福となって帰ってくるのです。いま、私たち人間は、まさにコヘレトの語る、人間の大切なたたずまい、つまり自分の恵みを水の上に浮かべて流す姿を、(そんなに難しいこととしてでなく)シンプルに呼びかけられているのだと思います。
 今回のコロナのはじまりのころにも見られた光景でしたが、一瞬にしてマスクが消えた、トイレットペーパーがない。今日はカップラーメンが棚にない。今日はパンがとにかく無い。いろいろ心配もあるのでしょうが、必要以上にためこんでいるならば、ためこんで埋めてしまった隙間の分だけ、恵みと祝福はまわってきません。自分がにぎりしめてしまった分だけがその人の分です。レプトン銅貨二枚を、もし彼女が握りしめたなら、手に残っているのはレプトン銅貨二枚だけ。手放したなら、キリストのまなざしが注がれ、想定を超えた恵みが彼女を包むのです。
 もう一つのことは、「今日も種を蒔く」ということです。明日がどうなるかわからないから、種を蒔かないのではなく、明日どうなるかは知らないけれども、明日をあきらめないで、明日を祈って、今日種を蒔くような生き方をするということです。
 先日、夕食前にテレビをつけましたら、今年の熊本での水害の、被害当時の映像が流れていました。出荷できなくなった作物と荒れ果てた畑に呆然と立ち尽くす農家の方のインタビューが流れていました。二人の別々の農家の人でした。一人はこう言いました。「もう、働く気力もなくなりました。やる気にもなりません。補償していただけるものならして欲しいです。」すぐに場面が変わって別の農家に切り替わりました。「せっかく育てたけれどこれ全部、廃棄処分です。でも、種を蒔くのをやめるわけにはいきません。明日から、どうなるかわからないけれど、種を蒔くしかないんです。」やる気が失せてしまう気持ちもほんとうに理解できます。しかし、種を蒔かねば芽はでない。種を蒔かねば、明日の何かは起こりえないのです。明日どうなるかがわからないことと、今日だけで生きることとは違うのです。明日どうなるかわからないけれども、今日、明日のためにつながる種を蒔くのです。明日のためにつながろうとする生き方が、明日とつながっていく。
 私たちも、朝、種を蒔く。夕べにも手当をする。明日を思い煩って、今日をだいなしにするならば明日は実らない。明日を祈りつつ、創り主に委ねつつ、今日を精一杯生きるならば、明日は今日につながった明日として備えられるでしょう。


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