はじめての方へ
メニュー


このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The
Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
週報巻頭言
週報巻頭言 : インマヌエル・どこまでも マタイ福音書1:18-25
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2020-12-13 14:18:27 (65 ヒット)
週報巻頭言

 アドベント第三主日を迎えました。このアドベントは、ラテン語のアドベントゥス・「到来」「到着」とかを意味する言葉からきています。また、アドベントールというと「訪問者」「客人」を意味します。来訪者を迎える。客を迎える。その準備、その喜びの時というニュアンスになりますね。
 客というキーワードでピンとくるのが、イエスさまがエリコの町に暮らす徴税人の頭のザアカイに、木の下で出会い、「ザアカイ、今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」と語りかけるところです(ルカ19:1-1-0)。徴税人の頭の家に泊まるということを聴いた町の人々は、口々に「こいつはダメだ。罪深い男の家に入って客になった。」とつぶやいてイエスを蔑み、みんな離れていきました。あの出来事などは、イエス・キリストのアドベントゥス、アドベントールの性質をよく現しています。まさに、クリスマスは、「罪深い人間」と呼ばれるような人の客人として、つまり、その時代に排除されている人々のところを救い主は訪ねておられる出来事なのだということです。
 ヨハネ黙示録3章20節には次のように書かれています。
「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまたわたしと共に食事をするであろう。」
 わたし達が、救い主を迎えにいく、探しに行くというのではなく、救い主が到来するのです。到着し、戸口をたたいてくるのです。資格のない者であるにもかかわらず選んでくださり、探し出し、名を呼びながら戸口をたたいてくださる。私が悩み多き者であり、罪深い人間であれば尚のこと、この私のところに救い主は到着され、わたしの客となってくださるのです。心の扉を開いてこの客人を迎える、それがクリスマスです。
 アドベントというと、もう一つの大事な意味合いをも思い浮かべます。英語のアドベンチャー、そう冒険と訳されている意味合いです。危険を冒して驚くばかりの場所・場面に出向くような行為ですが、もともとは異質なものと出会う意味合いを持っている言葉です。
 それと知られた人を通してではなく、誰もがなるほどとうなずけるシチュエーションでもない。救い主の誕生の場所として家畜小屋を定め、救い主の活動の場所を旅空に導き、救い主の命の極みを十字架に据えられる、その神さまの御心は冒険に満ちています。かなりの人間が見落とし、かなりの場面が見過ごされる冒険に満ちています。しかし、家畜小屋のような場所にうずくまり、難民のような暮らしを強いられ、不条理な死の場面に直面する人々が出会うことのできる神の業となって、今も神の業は動いています。
 そうした神の業の胎動の証でもあるクリスマスを祝うということは、私たちのまなざしをどこに向けるようにと招いているのでしょうか。
 また私という人間がクリスマスを迎えることはどういうことなのでしょうか。神は私の優れたところを求めているのではなく、私の美しい部分を求めているのでもないのです。いま抱えている苦悩、もがいたりあがいたりしている事実、不安に包まれている状態、それに触れ、そこに光を灯すために、この私の客人となってくださっています。冒険のような神の関わりが今年もあなたの痛みに迫っています。

 本日はマタイ福音書を読みました。マリアのいいなずけヨセフへの知らせです。救い主の到来にとって、ヨセフの正しさや優しさはあまり役にたちませんでした。彼の正しさと優しさは、決定的な役を果たせなかったということです。ヨセフは正しい人でした。ですから、律法の戒めにしたがって結婚前に懐妊したいいなずけマリヤとは別れなければならないと考えたのです。彼は、妊娠の事実を聞かされたとき苦しんだはずです。何日も眠れず考え続けていたんだろう。「恐れるな」といわれているように、ほんとうに恐れおののき怯えもしたことでしょう。そして彼は、正しい人だから、戒めを守ろうとした。マリアへの愛情より戒めを選ぶことにした。愛情を制御する義をもっていたというか、それで「縁を切ること」を決心しました。
 けれども、同時にやさしい人でした。だから、彼女が辱めを受けないように秘かに縁を切ることを決心し、その方法を考えていた。彼の正しさと優しさは精一杯融合して、秘かな縁切り・・・という、悲しいけれども、それ以上はどうしようもない結論を彼は得ていました。正しく、かつ優しい人間としては、それが精一杯だったのです。でも考えれば、この世におこなわれているさまざまな「縁切り話」「関係を断つ」話は、多くの場合、それらしい正しさやよかれと思ってやったのだというそれなりの理屈を装っています。しかし、縁を切るな、関わりを断つなとやはり神は私たちに信じてかかわり、信じて繋がる道を示しているのかもしれません。
 救い主を迎えるという出来事は、そのような正しさと優しさを突き抜けて、恐れないで相手を伴侶として迎え、生まれる命、生まれる出来事の父となり母となり、その名付け親となりなさいと命じているのかもしれません。
 
 その生まれ出る命は「インマヌエル」と呼ばれます。神はわれらと共にいる。神の救いの意味、神の救いの仕方は、インマヌエル、わたし達と共にいてくださる方となったということです。
 恋人たちがいっしょにいることをアベックとかペアーとかツーショットといいますが、このインマヌエルというのは、仲の良いふたりが並んでいる様子、そんなイメージで共にいるのではなくて、もともと別のもの、一体にはならないものが全く一つに重なっているイメージです。
 天の神が助けの手を伸ばされたとか、同情をもってみつめてくださったとかとは違います。ヨハネ福音書では「言葉は肉体となり、わたし達のうちに宿った。」「宿る」とは中に入り込むということです。人間の中に入って、人間のすべてを味わい尽くされるのです。横を歩いてくれるというイメージでなくて、私の持ついっさいの労苦、悲しみ、痛み、悔しさ、恐れをそのままわたしと一緒に経験し、味わい、背負ってくださり、その労苦と悲しみと痛みと恐れの中に愛をもたらし、信仰をもたらし、希望を生み出してくださる、そんな中から命を生み出す方となってくださる。それがインマヌエルという姿です。
 そしてその神さまの思いとして世に現れたイエスさまの地上の御生涯は、わたし達と共にいる神さまのインマヌエルの想いの印です。神はどこまでも共にいるのです。
 わが子を亡くし、半狂乱で泣き続ける母親の悲しみを味わい、共にいて・インマヌエルされました。
 治らない病に財産を使い果たして絶望しかかっている女性の切なさを味わい、共にいて・インマヌエルされました。
 心病んでしまって、狂人と呼ばれ、村はずれに鎖で繋がれていた男の、その苦しみを味わい、共にいて・インマヌエルされました。
 38年も寝たきりで、生きる目当てを失い無気力になっている人の、その渇きを味わい共にいて・インマヌエルなさいました。
 姦淫の罪だと糾弾され、取り押さえられ、見せしめのために石打の刑にされてしまいそうな女性の、その哀れと、悲しみを味わい、共にひざまずいて・インマヌエルされました。
 犯罪を犯し、裁かれ、死刑という死を受けながら人生を悔やんでいる犯罪人のその悔恨を知り、悲しみを味わい、彼は共にいて・インマヌエルされました。
 イエス・キリストの御生涯は、どのような人のどのような場面にも共にいてくださった御生涯でした。彼は何よりも、「共にいる」ということから始められた方です。「共にいる」。共にその苦しみを味わい、あなたを知る。そのことから新しい何かを生み出された救い主でした。「共にいないでいいから、何かをくれ」という人たちには、最後まで彼の力が見えなかったでしょう。でも「共にいる誰か」を求めている人々にとっては彼ははっきりと見えたのです。
 北村薫さんの小節『ひとがた流し』の中に素敵な言葉があります。
 乳ガンになって闘病する過酷な試練に見舞われている主人公の千波が、親友美々(ミミ)の娘に語るセリフです。
「人が生きていくとき、力になるのは、“自分が生きていることを切実に願う誰かが、いるかどうかなのよ」という言葉です。
「わたしが生きる、ということを、切実に願ってくれる誰かが、わたしの人生にはいるのだろうか」。先ほどたどった福音書の登場人物たちの求めはそこにあったと思います。そんな人々が出会ったのがイエスでした。そして、イエスさまは、そのような出会いをなさいました。そして、イエスさまはこの私の悲しみや痛みの事実にインマヌエルしながら、切実にわたしの生命を求めてくださっているのです。わたしの中に、彼の愛と信仰と希望とを注ぎ込んでくださろうとしているのです。
 イエスさまのインマヌエルの歩みはとどまることがありませんでした。理解されない苦しみ。あざけられる辛さ。裏切られる悔しさ。鞭打たれる痛み。大衆の中を犯罪人として引き回される恥ずかしさ。肉体の渇き。木に釘で打ち付けられる激痛。死がだんだんと肉体を包んでいく恐怖。
 わたし達がおおよそ味わうことがないでありましょうそのようなみすぼらしさ、そのような悲惨まで、この救い主は味わいインマヌエルしておられのです。
 イエスさまこそ、インマヌエルと呼ばれる方。インマヌエルの印。神が一緒にいてくだされないところはどこにもないという神の伴いの印なのです。
 この「神共にいます」という神の愛の証・イエスをあなたへの救いの徴、救い主として迎えなさいと呼びかけています。
 神さまがアドベントゥス、客となって、あなたの家を訪れ、あなたの心の扉を叩いています。神さまは、あなたが生きることを切実に願っておられます。あなたにインマヌエル、あなたのどこまでも神は共にいてくださいます。私に、私たちにインマヌエル。神は私たちとインマヌエルしてくださいます。どこまでも。


印刷用ページ 

市川八幡キリスト教会 千葉県市川市八幡2-1-10 電話047-332-5197
Theme Desinged by 工房ヒラム