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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
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Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
週報巻頭言
週報巻頭言 : 優しくあれ、そして勇気をもて ルカ福音書2章1−7節
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2020-12-20 16:41:05 (77 ヒット)
週報巻頭言

「マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」
 布にくるんで、飼い葉桶の中に・・・。聖書は、救い主のこの世での居場所のことについて、言い換えるならば、この世が救い主のために用意することができた場所のことについて、こんなに短く、こんなに簡単に報告しています。一枚の布と、家畜の餌箱だった、と。
 赤ん坊は小さいです。ですから布は何枚もいりません。小さな寝床があれば十分です。しかし、ここに記されている「布にくるんで飼い葉桶に」この報告の意味していることは、まさしく、あわててその場にあったもので、代用して間に合わせたのです。この仕打ち、この風景が示す端的なメッセージは「この世に余地がない。救い主のために場所はない」ということです。
 コロナ禍にあって、老いも若きも、性別にかかわらず、こんなに暗闇を共有したことがない経験をしています。毎日、朝から晩まで、感染者数、死者数のカウント、飛沫はどう飛ぶか、Go toの是非、停止する、しない、早い、遅い。休業補償はあるかないか。正月はどうするか。ワクチンはいつできるか。たいへん賑やかで騒々しいのですが、救い主の居場所は無いのです。身体の安全は気にしていますが、人間の生き方、命の意味を一緒に問おうとしないのです。教会も、ともすれば、礼拝をするかしないか、するならディスタンスはどれくらいか。大切には違いないのですがそうした配慮に心を一杯にしてしまいがちですが、救い主そのものをどう礼拝するか、人間にとって救いとは何なのか、をほんとうに問うて来られたでしょうか。「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」

 「布にくるんで飼い葉桶に寝かされた。」
 それはキリストの人生、キリストの死、十字架の死と直結しています。
 飼い葉桶とは、キリストが釘づけられた「十字架」と結ばれています。
 くるまれた一枚の布、それはキリストの額にめりこんだ「荊の冠」と繋がっています。 飼い葉桶こそが十字架、十字架こそが飼い葉桶なのです。私たちを背負うようにして十字架を担ぎ、担いできた十字架に釘打たれ、そこから逃げ出すことをなさらないで、極限の苦しみの中で私たちの赦しのために祈り、神さまと結びつけてくださったイエス・キリストは、そのお誕生の姿においては、飼い葉桶の中に追いやられ、荒布一枚にくるまれて生まれた救い主でありました。私たちの救い主は、居場所の無い方であった。拒否された方であった。無視された方であった。私たちの救い主は、臭く、汚く、みっともなく、痛く、苦しく、あわれな場をご自身の居場所とされ、その業の場として貫かれたのです。
 しかし、もし十字架が私たちの社会の最も暗いなにかを示している場所であるなら、もし飼い葉桶が私の中にあるもっともみすぼらしい部分を現しているのだとしたら、救い主は実は、ご自分の居場所としてそこに生まれ、そこで命を燃やしてくださっているのでもあります。
 そうです。「人間が救い主のために居場所を用意できないでいる」ということと「救い主がお生まれにならない」ということを混同してはなりません。救い主は、自ら、居場所を選び、いいえおおよそ居場所の無いところに居場所を設けるのです。そして命となられる。それは、愛がともらないようなところに愛を芽生えさせるということであり、平和がとても起こらないようなところに平和が芽ばえ始めることを意味しています。希望などまるで見えないような中にこそ、希望は、自ら居場所をつくり、その光を放ち始めるということです。
 「救い主をお迎えしなさい」というのが、私たちがクリスマスシーズンに口にするフレーズです。それは、決して間違ってはいないのですが、間違うとしたら、私が救い主の場を容易できると勘違いしてしまうことです。この世が救い主のステージを準備できると勘違いしてしまうことです。今年も、イエス・キリストがお生まれになるのは家畜小屋です。今年もキリストのために私たちが容易できるのは荒布一枚と飼い葉桶なのです。いいえ、それすらも、キリストご自身が見いだしてくださるものに過ぎないのです。
 クリスマスの出来事の主語は、決して私たちがではなく、人間がでもない。神が、私たちを、赦しと癒しと救いの場所に迎えてくださるために、場所を用意してくださったのだということ、これがクリスマスの真意なのではないでしょうか。クリスマスは、私たちが彼を迎えるテーマではなく、神が私たちを迎えにきてくださったというテーマなのだと思います。救い主は生まれてくださるのです。愛と信仰と希望の居場所をきりひらいて下さるのです。

 礼拝の冒頭で、イエスさまの弟子達への別れのメッセージの箇所を読みました。「わたしのいるところにあなたがたをおらせるためである」、イエスさまが弟子と別れる際に語り聞かせられた言葉です。そう、イエスさまの命は、ご自身がおられる場所を弟子達の、私たちの場所にしてくださることのためでした。イエスさまは、わたしたちの居場所のために生きてくださったのです。
 家畜小屋も十字架も、そして墓が空っぽだったという証も、そのすべてが、人間の中に救いのための場所はなく、人間の業の中から救いの出来事はおこらず、それはいつも、人間の外から人間を打ち、人間の隙間に場を創造し、人間のいのちを新しい場所に招きながら、人間を救うという事実を指し示しているのです。
 救い主のために場所はない。しかし、救い主が命の場となり、私たちはみなそこに招かれているのです。家畜小屋から私たちを招いてくださっています。

 2020年のクリスマスのテーマを決めるミーティングで「優しくあれ そして勇気をもて」を提案させていただきました。これはかつてヨーロッパを席巻したユダヤ人排斥・殲滅の嵐の中、オランダ・アムステルダムの隠し部屋に2年もの間身を鎮めながら日記を綴ったアンネ・フランクの『アンネの日記』の裏表紙に書かれていた言葉です。
 ナチズムの嵐に対比するわけにはいきませんし、次元の違うことだとは思いますが、新コロナの深い霧の中に閉塞状態にある私たちの気持ちと「閉ざされたアンネ」の状況が重なりました。
 ダビデの町で拒絶され閉め出されて「泊まる場所が無かったマリア」「人間の場に居場所を与えられなかったイエス」の消されそうな命の姿とアンネたちユダヤ人の命の姿が重なりました。
 そして、イエスを身籠もった時のマリアの年齢(推定14歳)が、日記を綴ったアンネ・フランク(13歳から15歳)とほぼ重なったこと。そんな重なりを連想したからでした。
 アンネを含むフランク一家8人は、1944年8月4日にドイツ秘密警察に拘束されます。その数週間前に記された文章を、心に留めたいと思います。

「親愛なるキティーへ
 私たちの中に芽生えた理想も、夢も、大事に育んできた希望も、恐るべき現実に直面すると、あえなく打ち砕かれてしまうのです。実際自分でも不思議なのは、私がいまだに理想の全てを捨て去ってはいないという事実です。だってどれもあまりに現実離れしていて、到底実現しそうもないと思われるからです。にもかかわらず、わたしはそれを捨てきれずにいます。なぜなら、いまでも信じているからです。たとい嫌なことばかりでも、人間の本性は、やっぱり善なのだということを。
 わたしには、混乱と、惨禍と、死という土台の上に、将来の展望を築くことなどできません。この世界が徐々に荒廃した原野と化してゆくのを、わたしはまのあたりに見ています。つねに雷鳴が近づいてくるのを、いつの日かわたしたちをも滅ぼし去るだろういかずちの接近を、いつも耳にしています。幾百万の人々の苦しみをも感じることができます。でも、それでいてなお、顔をあげて天を仰ぎみるとき、わたしは思うのです。いつかはすべてが正常に復し、いまのこういう惨害にも終止符が打たれて、平和な、静かな世界がもどってくるだろう、と。それまでは、なんとか理想を保ちつづけなくてはなりません。だってひょっとすると、ほんとにそれらを実現できる日がやってくるかもしれないんですから。じゃあまた、アンネ・M・フランクより」
 優しさ、それはアンネの場合、苦しんでいる人間そのものであり、同時に人間に苦しめられながら、人間の中に善いものを期待し信じていこうとすることでした。優しいとは、にんべんに憂い、憂えている人のことでもあり、憂いの傍らに立つ人を意味しています。
 勇気、それはアンネの場合、理想を捨てない、理想を諦めないということでした。自分の理想と夢とが、風前の灯火のような事態の中で、それでも実現する日を待っていこうとしたということです。
 みなさんはネガティブ・ケーパビィリティーという言葉をご存じですか。イギリスの詩人ジョン・キーツが唱えた人間にとって大切な態度のことです。
 「答えが簡単には見いだせないような状態の中にあって、忍耐強く落ち着いて生きる姿」のことです。アンネの姿に通じ、そしてコロナに翻弄されそうな今日の私たちが聞くべき人生の態度だと感じます。
 1944年8月4日。アンネは拘束されます。アウシュビッツを経て、ベルゲン・ベルゼン収容所に送られ、他の150万人の子どもたちと共にこの世界から消えてしまいました。しかし、彼女の理想は生き続けています。70年以上に亘り、アンネの言葉は多くの若者を成長させてきました。諦めないことの大切を伝えたのです。アンネの日記の裏表紙には次のように記されていました。
 Soi gentil et tiens courage 優しくあれ そして勇気をもて


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