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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The
Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
週報巻頭言
週報巻頭言 : 生ける神に向かって マタイ福音書4:12−17
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2021-01-03 12:48:18 (95 ヒット)
週報巻頭言

新年、明けましておめでとうございます。皆さまの上に、主の導きとお守りをお祈りいたします。
 昨年は、悩みと戸惑いに人間が包まれてしまいました。教会も大いに悩み、迷いました。礼拝する共同体としての教会ですから、なるべく出ない、会わない、集まらない、しゃべらない、歌わないようにという状況の中で、たいへんジレンマを強いられました。「不要不急」とは何を指すのか。経済を回すことに繋がる事ならば仕方が無いけれど、それ以外のために集まるのは逆に良くないことのように後ろ指をさされる風潮の中で、礼拝することは、自分にとって何であるのか。世にある教会として、それは何であるべきなのか。世にあるという事の「世との繋がり」の大事さと、世にあって神の国を指し示すという「神との繋がり」の証しの大事さに挟まれるような感じがし、自問自答しながら過ごしました。
 一人ひとりの選び取りを大切にすること。選び取りの背後に一人一人の関係や社会的責任や生活の事情があることを丁寧に認め合うこと、そして礼拝堂で礼拝を捧げるメンバーとそれを控えているメンバーが、決して分断されてはならないこと。そのためにできることは何か。執事会も、繰り返し話し合いました。礼拝する共同体、またたとい時代がどうであっても、状況がどうであっても、神を共に礼拝することにその本質を持つ教会の存在性を保持することから離れないで、「いっそ集まることを休止してしまう」という選択に飛んでいかずに、しぶとく生きてみようとしました。
 難しいからしない、ではなく、難しいからどうやるか、難しいからどれをあきらめ、どれを選ぶか。そんな選択の一年でありました。
 これまでの全部を止めてしまう。それは、逆に考えるとこれまでの全部をそのまま絶対化してしまう道かも知れません。いつか戻らねばならないのは、あの頃のあの全部だ、と。しかし、何かを諦めながら、何かを残しながら歩んだ歩みには、新しいニュートラル、新しいスタートラインが生まれるのかもしれません。いろんな姿があり得る。全てが許されるようになった暁にも、以前の全てに戻る必要はない。新しい姿を組み直せばよい。私は、今回の教会の苦肉の選び取りの経験から、市川八幡教会の未来の姿をみんなで考え合っていきたいと思います。まさしくパラダイムシフト。必要があるならば、これまでの枠組みそのものを、発想そのものから転じて行く、そういうことが起こっていけばいいなぁ、と思います。新旧執事会では、まもなく新年度の計画案を立案する協議に入っていきます。柔軟な発想で対話していけますようにと皆さんも憶えてお祈りしてください。

 さて、クリスマスが終わりますと日本ではすっかりとお正月の準備に切り替わるわけですが、キリスト教の暦では、東方の博士たちが幼子イエスに巡り会ったとされる1月6日(公現節)までクリスマスのお祝いが続き、クリスマスの飾り物も飾られたままです。
 私は、以前は毎年、正月の新年礼拝が終わりますと妻と連れだって韓国のソウルに旅行に出かけましたが、事実、韓国のカトリック総本山の明洞大聖堂の広場には、ほぼ等身大の家畜小屋の模型がそのまま設置されていました。
 ヘロデのたくらみをかいくぐりながら幼子に見え、そして喜びに満たされ、新しい道を歩み始めた博士たちの出会いの物語を、こうした正月に省みることにも深い意義があると思いました。
 先週、年末にはマタイ福音書から、その東方の博士たちの記事から年末の黙想をし、本日、この新年礼拝では、イエス・キリストの宣教の始まりを記す記事を読みました。これは、まさに大ヘロデ王時代の暗黒の中に命の光を灯されたイエス・キリストが、しばらくの沈黙の時を経て、まことの光としてその輝きを公にしていく歩みの始まりであり、光が動き始めるクリスマスの第2章と言っても良いところであります。そして、それは世の闇がいっそう深く、人間に影を落としていた時に、都エルサレムからずっとはなれた辺境の地ガリラヤから始まったことを聖書は報告しています。

 ガリラヤは、歴史的にも、ほんとうに苦しみと暗闇とを引きづった地域でした。数百年前に、イスラエルが、北王国と南王国に分裂しているときには、北王国に属していましたが、アッシリアに敗れ、特にガリラヤ地方は徹底的に民衆の移住措置が取られ、ユダヤ人の追い出しと外国人の移住が行われました。ずっと後になって、ふたたびユダに併合されユダヤ教化されたのですが、そうした経緯から、「異邦人のガリラヤ」と蔑まれ続けてきた地方です。そして、そのような差別されている地方ではよくあることですが、差別されているがゆえに、その中に強烈な原理主義も生まれやすいということがあります。まっとうなユダヤ教徒と評価されないだけに、他の誰よりも熱心なユダヤ教徒として認められたいという熱狂的な人々も生まれてくるのです。そういう熱は、過激な反ローマ運動、暴力的な国粋主義運動を引き起こしもしました。いくつもの大規模、小規模の反ローマ反乱をくり返し、たとえば歴史に記されている「ガビニウス事件」と呼ばれる反乱では、一度に1万人近い人々が鎮圧されて殺されたと記録されています。当時のガリラヤの人口が15万人でしたから、ものすごい割合の人々がローマ軍に虐殺され、その怨念が立ちのぼっていた場所でもあります。その後も「セフォリスの破壊事件」として記録されている事件では、やはり反ローマの反乱によって2000人の人々が磔(はりつけ)にされて殺されたということです。ガリラヤは、そうした憎悪と武力鎮圧のくり返しによって、憎しみの連鎖が増幅していた地方です。
 他方で、ガリラヤは、「肥沃な土地」だと言われています。作物が大変よく実るのです。「荒れ地は一切無し」と言われるほどです。しかし、そうした豊かな実りの実益はほとんどが大土地所有者のものであり、独立した自営農業者はほとんど没落してしまっており、小作農民、雇われ農民、日雇い農民ばかりになっていたようです。肥沃な土地ということを耳にした多くの日雇い労働者が流入していたようで、低下層の人々があふれていたようです。
 イエス様のたとえ話に「主人と雇われ人のたとえ」が多いこと、また「あぶれた日雇い労働者のたとえ」が出てくることなどは、こうしたガリラヤの日常を反映しています。また福音書にたびたび「税金の話」が出てきたり、「イエスと徴税人との出会い」が報告されるように、民衆と税金の問題は、実際、密接にからみあっており、地租税、人頭税、売上税、通行税、市場税、漁業税、など、ありとあらゆる税金に人々は苦しみと怒りをため込んでいたようです。
 そしてそのガリラヤを統治していたのが、ヘロデ・アンティパス。父ヘロデ大王譲りの支配欲の強い人物で、ローマ権力には媚びへつらい、民から税を搾り取る暴君でした。また兄弟の妻ヘロディアを横恋慕して自分の妻にしてしまったり、自分にたてつく親族は容赦なく粛正していく凶暴な人物でありました。こうした中で、民の心もまた荒れていき、刹那的になり、空しさや怒りが人々の心に沈殿していくのでした。
 バプテスマのヨハネが立ち上がり、信仰復興運動が呼びかけていたのはそのような時でした。彼は激しい預言者でした。ヨハネは、形骸化したユダヤ教、堕落したユダヤ教徒の生き方に鉈(なた)を振るい、宗教指導者、政治指導者たちを断罪し、神のもとに立ち帰ることを呼びかけた預言者でありました。しかし、彼はヘロデの治世の過ちについても歯に衣着せずに批判を行ったため、ヘロデ王によって捕らえられ、やがては処刑(斬首刑)されてしまうのです。
 バプテスマのヨハネは、旧約時代の「救い主待望」の長い長い歩みの最後の限界点に立っていたと思います。長い苦しみ、迷いの歴史に堪えながら、ひたすら救い主を待ち望む預言者たちの群れに連なって、ヨハネは最も鋭く、最も徹底的に、神の約束に目を凝らした人です。「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、おまえたちは逃れられると、誰が教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」
 ここには、堅い信仰と裏腹に、人間の怒り、人間の焦り、人間の深い失望が込められているようにも思います。爆発点に達しているのではないか、と思われるような叫びが、真剣な人物の中から飛び出している。正しい人が苦しみ、怒らざるを得ない。しかし、そうした正しい怒りにはヘロデの暴力的な介入がおこなわれて弾圧されていく。キリスト・イエスの登場は、そのようなタイミングの中で引き起こされていったのです。
 ただし、彼が与えたのは、祝福であり、平安であり、癒しであり、赦しでありました。
 彼は、ヨハネのように荒れ野に出てくることを呼びかけたのではなく、人々の苦しむ足場に出向いていき、その足下に沈み込んで、一人一人を受けとめられたのでした。ほんとうに暗い時代、正しい人が、実直な人が苦しむ時代に、イエス・キリストは、愛と慰めと赦しを届け、神があなたと共にいる。神はあなたに近づいた。あなたはもうこれ以上、自分を傷つけてはいけない、あなたはもうこれ以上自分を失ってはならない。神の愛は近づいた、天の国は近づいた。あなたの心をあなたを愛する生ける神に向けて生きていきなさい、と呼びかけ、励ましていったのでした。

 暗闇の淵・ガリラヤから、真の光は動き始めました。神さまは誰も思い及びもしなかったところから、思い及びもしなかった人々に向けて輝いてくださるのです。
 罪はなお力を持っており、みこころに反する悪や人間を覆う暗闇・不条理は決して消え去ってはいません。しかし、この世界はすでにキリストを迎えた世界なのです。迷いの中に、不安の中に、苦悩の中に、怒りの身の中に、キリストを迎えたのです。だから、わたしたちが生きているのは救い主のいる世界なのです。イエス様がはっきりと語ってくださっている世界なのです。「神の国は近づいた」と。
 神さまは近づいてくださっています。神さまは暗闇の中にわたしたちと共にいるのです。
 教会は、「暗闇に光りが来た」「天の国は私たちに近づいている」という事実に心から揺り動かされ(この世の不安なニュースに動かされるのでなく!)、この光をしっかり見ること、この宣言をしっかりと聞くことによって立つのです。この言葉にむかって、悔い改め、すなわち方向転換(メタノイア)することによって、教会は立つのです。生ける神に向かって顔を向け、生きようとすることによって。
 もちろん、神の国・天の国が私たちに接近しているという宣言を聞いたからといって、全てがすっかり解決してしまったわけではありません。私たちを包んでいる暗さや不透明さは、今も、明日も私たちを苦しめるかもしれません。私たちはきっと明日も恐れながら生きるしかなくね明日も失敗を犯してしまうかもしれません。しかし、恐れることはないのです。主が私の目の前に生きてくださっていて、くり返し、くり返し慰めと赦しを語りかけ、彼が私と共に神の国の中を歩み給うのですから。
 だからこそ、事柄の最初に聞くべき言葉はこの言葉なのです。
「悔い改めよ。天の国は近づいた。」 年の初めにもこの言葉を聞かせていただきたいのです。
「悔い改めること」メタノイア・方向転換。
 すなわち、生ける神に向かって向き直り続けることこそが、わたしの成すべき事なのではないでしょうか。これこそが、1年の始めに私たちがなすべきことなのです。
                              


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