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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
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週報巻頭言
週報巻頭言 : 信実の力 マタイ福音書9章18-26節
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2021-01-24 15:38:16 (104 ヒット)
週報巻頭言

今朝読ませていただきました箇所には、実に躍動感があります。わずかな時間の経緯の中で、イエスさまが二人の人物と出会っていく、しかも同時進行的といってもよいかたちで劇的に出会っていかれる様子が記されています。二人の人物が断腸の思いで苦悩しています。一人は愛するわが子の死であります。一人は長年の病気とそれに伴う差別の苦悩です。どちらも抜き差しならない人生の重荷です。そうした人々の生命の現場にまっすぐ向かい合っていくのがイエスさまです。逆に言えば、イエスさまの前にはそのような深刻で重い生命のもがきが、ダイレクトに、しかも同時に持ち込まれていたということができます。
 さて、このような圧縮された時間の流れの中で、この双方の問題の解決・癒しの報告を通して、福音書が私たちに呼びかけているものがあります。それはイエスにすがりついていった人たち中にある「信実」です。すなわち、いつわりなく懸命に信頼する態度です。ピストゥス・信仰と訳される事の多い言葉ですが、信実・一生懸命にひたすらに信じる態度、として理解したいと思います。福音書がイエスさまの力ある業を報告する目的は、必ずしも、イエスさまにはすごい力があったということを披瀝することや、イエスさまの信じがたい力を焦点にしているのではなく、イエス・キリストと人間とのいつわりなく心から双方を求め合う関係、双方向の信実なふれあいが、不思議な恵み、新しい希望を生んでいったということが証言されているのです。
 ガリラヤ地方のある町で指導者・会堂長をしていた人物がその人です。彼の愛する娘が、たったいま死にました。彼は意を決してその町を訪れていたイエスのところに駆けつけました。そしてイエスに向かって「私の娘が今死にました。しかしおいでくださり、娘の上に手を置いてください。そうすれば娘は生きます(直訳)」と懇願するのです。この言葉の中にも、見落としてはならない真実があります。
 人間は様々なことを祈願します。「こうして欲しい」と願い、「こういうことがありませんように」と願います。それらは吉事が起こりますように、凶事が起こりませんようにという「出来事以前」の願いごとです。ところがまた、多くの人は、願っていた事が起こらなかった場合、また願っていなかった事が起こった場合、「神も仏もあるものか」と開き直ったりします。人間の信心のなんともご都合の良いことでしょう。
 主イエスさまの下さる御業は、事が起こる前の予防策のようなものではありません。「起こる前ならよかったのですが」「失う前ならよかったのですが」「死ぬ前ならよかったのですが」。この父親がイエスさまのところに歩み寄ったのは、娘が死んでしまってからです。しかし「娘は死にました。しかし来て欲しい。手を置いて欲しい。」と翻って進みます。そうです。イエスさまの力というものは、「たとい死んでも」「たとい終わっても」そこから事柄を始める力、そこに命を吹き込む力があります。人間が考える、「まだ大丈夫」とか、「もう駄目」という枠組みの中に、神さまの力は収まりきれません。人間が、もう駄目だというところから、始まる力があります。そこから新しい出来事を生じさせる力がイエスさまにはあります。このことを信じて生きる時に、イエスさまの御業の力、キリストのふれあいの力は現れるのです。

 途中で出会う女性がいます。長出血を患った女性です。原因不明の出血が何年も続き、人々から忌み嫌われた病気です。また不浄な存在とレッテルを貼られ、彼女が触るもの、彼女が触ったものに触れる者もまた不浄である、と。そのようなさげすみの中、自分自身の青春時代を棒に振り、これからの人生に暗い影を落としてしまっている女性です。この女性が、イエス様に近寄り衣のふさに触ったというのです。せめて衣の端っこにでも触ればこの方の力を頂けるだろうと信じていたのです。この女性の些細な行為を主は感じて振り返られます。そして彼女にいいます。「元気になりなさい(しっかりしなさい)。娘さん。あなたの信実が、いま、あなたを救った」と。しっかりしなさい、とは、「堅くしなさい。」「確かにしなさい」という意味の言葉です。ふらふらしている人にしっかりしなさい、というニュアンスではなくて、あなたのその信を堅くもて、確かにしなさい、という呼びかけです。この女性の行為は、本当に、些細なことでした。控えめなことでした。しかし、人との接触が禁じられてきたこの女性にとっては、懸命でひたすらな信実の行為でした。人知れず、かすかに衣の縁に触るような行為は強い信実によってなされたものです。信実な行為とは、動作の大きさではありません。言葉の数ではありません。彼女の些細な動きとの中に信実は存分に凝縮されていたのです。イエス・キリストに向かい合う。その表現は些細であっても、その人の内で堅い信実であるならば、イエスもまた信実を注いで、触れあってきてくださるのです。

 さて、本日のメッセージの後半は、この会堂長の身の上に起こった出来事について、もう少し想像を深めながら掘り下げて見つめてみたいと思います。掘り下げるに値する人物です。何といっても、この人がイエスさまのところに駆けつけるということ事態が、そもそもとても考えにくいことだからです。
 会堂長とはいわばその街のユダヤ教の会堂の責任者です。律法の教えを人々が学び、またその都度身のまわりで起こる出来事についても律法から解釈していく。ユダヤ教的な生活をいつも意味づけていく場所、それが会堂です。その会堂を管理するのは町の長老たちによる評議会で、会堂に誰を入れ、会堂から誰を追放するのかの決定をくだします。会堂長とはその全体の指導者です。まずは律法学者でなければなりません。律法に対する深い造詣・知識、ユダヤ教の体制に対する忠実さと服従とがなければ会堂長になることはできないのです。
 そのような彼は、イエスという人物が徴税人や律法違反者たち、つまり罪人たちや病人たちと交わる人間であることを、前もって聞いて、知っていました。ユダヤ教のタブーをものともしない、無秩序な人物としてイエスのことを認識していたのです。にもかかわらず、この町のユダヤ教トップエリートのこの会堂長が、イエスのところに行く。そしてひれ伏したのです。わたしたちにはあまり実感が湧かないことですが、その時、その町の人々がひっくりかえるほどの出来事だったのです。
 そして、このような中に、ある一つの事実を推測していくことができます。
 それは、「娘の死」という途方もない悲しみ、絶望とも言える苦悩に捕らえられたこの父親にとって、律法主義的な彼の忠実な信仰が、そのとき、彼の力にならなかったということです。律法を無意味に思ったというのではありません。日々、会堂にあって律法を学び、律法を修得し、律法に忠実に生きることで確かめていた信仰というものが、この「わが子の死」という彼にとっての突然の、リアルな、そして超弩級の悲しみを慰めはしなかったということです。
 彼には高い身分がありました。ユダヤ教体制の中での地位がありました。それなのに、イエスの前にひれ伏しました。それは、致命的でした。おそらく、彼は、娘が生き返った出来事の後に、イエスにすがり、ひざまずいたという咎めを受けて、ほぼ確実に、会堂長の地位を剥奪されたに違いありません。しかし、彼は、その身分も地位も名声も捨てました。それほどの行為だということができます。それは、わが子の死というこの問題の前で、その悲しみの前で、彼は会堂長であることより、父親としての悲しみ、そこから来る信実に立ったのです。うろたえ嘆く父親として向かうところは、イエスだったのです。いつわりなく懸命にイエスに触れてもらいたい、ということだったのです。
 「愛するものの死」あるいは、それに匹敵するほどの悲しみや苦悩に遭遇するとき、私たちは身に纏っている「立場の衣服」を剥ぎ取られ、丸裸にされるのかもしれません。その時、自分の信をどこに置くべきか。信実に求めるべきものは、いま、何か。その問いに直面するのかもしれません。そして、いま、あなたにとって「なにが、ほんとうに、力となるのか」との問いに迫られるのかもしれません。
 この会堂長、いえ、この父親は、娘の死という「はらわたがちぎれそうな」悲しみに直面して、真剣にメシアを求めるのです。この悲しみの助け、を求めるのです。「あの人のところに行きたい」「死んだけれども、なお、あの方に触れていただかねばならない」と。そしてすべて捨てました。これが、この父親の信実でした。この信実に触れたイエスさまの信実が動き始めるのです。
 イエスさまが彼の家に着いたとき、もうすでに、雇われた泣き女たちで騒然としていたと言います。見せかけの悲しみです。悲しみのつきあいです。悲しみの装い・演出です。
 イエスは信実を求めます。「あちらへ行っていなさい。そのようなものは、慰めではない。命にとっての信実ではない。少女は死んだのではない。眠っているだけである」。こイエスの言葉を、人々は即座にあざ笑ったというのです。たったいままで、悲しみの表情を浮かべていた人々があざ笑いの表情へと変貌したというのです。この父親に対する真の共感は、そして父親と共にイエスにすがる信実は、この人々の中にはかけらも無かったのです。永年会堂長を取り巻いてきた尊敬も人間関係も、そのようなものでした。言い方は乱暴かもしれませんが、それらは、会堂長が捨ててしまっても良かったものだった、と言えます。
「少女は死んだのではない。眠っているだけである。」イエスさまが少女の手をお取りになると、少女は起きあがりました。会堂長は、今回のことで多くのものを失いました。多くの見せかけのものと決別しました。そして、本当に尊いものと本当に力あるものとを与えられました。そして彼は、何にも増して人の生と死にまつわる力ある言葉に触れました。「死んだのではない。眠っているだけである。」
 人の死は絶対的な終わりではないのです。人の死から生じる悲しみも、それが最終的なものではないのです。死という決定的な出来事の中で、尚も手を触れ命を起こされる方がおり、死という悲しみを希望に転換させ得る方がおり、泣き顔以外は見せてはならないような場面にでさえ、尚、生きることの喜びを引き起こす方がおられるのです。
 去る1月22日、核兵器禁止条約が、55ヶ国・地域で発効しました。核兵器の開発から使用、その全てを禁じる国際規範がようやく発効したのです。長い道のりでした。歴史の中で、核廃絶の祈りは踏みにじられ、あたかも死んでしまったかのようにさえ思えました。しかし、核廃絶という「命」に信実に生きてきた人々の繋がりによって、この命は起き上がりました。まだ少女のような小さな存在ですが、歩き出したのです。
 「少女は死んだのではない。眠っているのだ。」
 私たち人間にとって、人間社会にとって、ほんとうは大切なものなのに、死にかかっているようなものがたくさんあります。経済優先、効率優先の風潮の中で、あざ笑われ、そんなものが何になるかと、取り合ってもらえない、でもやっぱり人間の命にとって大切な何かがあります。時として、私たちは、それに対して信実でいなければならないのではないでしょうか。私たちが何かを手放してでもそれらを求めようとするときに、私たちの信実は堅くなり、イエスの信実が触れて、この世界にまた一人、少女は起き上がるのだと思います。


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