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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
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週報巻頭言
週報巻頭言 : 一羽の雀さえ マタイによる福音書10章26-31節
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2021-02-07 14:50:25 (101 ヒット)
週報巻頭言

 今朝お読みしたマタイ10章は、12弟子の選任と派遣の部分です。
 マタイ福音書を読み、囲んで生きて居た人々が、主が自分たちを招きこの世に派遣してくださっていることと、この世にあって福音を語り生きることの試練、そしてその試練の中にあって貫いていくべき態度のことを、総括的に記している部分です。それを私なりの言葉でたどってまとめてみます。

「神の国が近づいた。神の国はあなたのものだ。これこそあなたがたが信じ語り伝えるべきことです。貧しい者を励ましなさい。病気のものとふれあい癒やしのためにかかわりなさい。重装備をやめて、いつもシンプルな姿で、身近なところで、日常の生活の営みをわかちあうような宣教をしなさい。人をもてなしなさい。あなたたちも人々のもてなしを受け取りなさい。わかちあうのだ。誰とでも、シャロームと挨拶し、その人のいのちと存在を祝福しなさい。もちろん、みんながあなたがたを歓迎するわけではない。拒絶され、攻撃されることもあるだろう。そのときには静かでいなさい。心が怒りや絶望や憎しみに支配されるくらいなら、その場から離れればいい。自分をだいなしにしてはいけない。
 あなたたちは、狼の群れの中にはなたれた羊のようなものかもしれない。みんなから悪意をもって議論をふっかけるられるかもしれない。しかしあれこれ前もって心配する必要はない。語るべき事はそのときちゃんと降りてくるのだから。
 もしかすると肉親からも迫害されることがあるだろう。身内から密告されるかもしれない。それは厳しい苦悩だろう。しかし、耐え忍びなさい。私も十字架を負うが、あなたがたもまた十字架を負う。しかし、その十字架を負うことをさらに命の神が背負ってくださり、十字架を負うあなたの人生丸ごとに真の命をくださる。忍耐強く、落ち着いて、わたしに信を置き続けなさい。
 あなたたちを拒絶し、排除し、危害をくわえようとする人々のことを恐れるな。今は、人々が理解できないことも、頑なに拒絶していることも、神の国の福音は必ず光を放つ。力で覆い隠そうとしても、真実はかならず表に出てくる。どんなに小さな声だとしても解放の言葉・福音の知らせを決して塞いでしまうことなどはできないのだ。恐れないで良い。あなたは体も魂も神のもの、神に知られ、神に支えられている。あなたの神はインマヌエルなのだ。」
 マタイ10章をわたしはこのようなトーンで読みます。
 これは、紀元80年代、イエスの宣教から50年ほどたった時代に、西シリア地方で、マタイ福音書を編集し、ユダヤ教徒たちからもローマ帝国当局からも厳しい弾圧の中にあった共同体が、イエスの言葉の伝承の数々を派遣の言葉として編み直し、自分たちが生きる上での励ましとし、支えとしていたものです。
 本日お読みした26-31節は、敵対する人々が圧倒的に多いこの世にあって、恐れる必要のないものと、ほんとうに恐れるべきものの事について明確に語っているフレーズです。
 特に、「暗闇の中、耳元で語り聞かせられた大切なことを、屋根の上で告げ知らせよ」というイエスのフレーズ、「小さないのち、安価な値段で売られている雀の命でさえ、神のみこころは注がれている」というフレーズ、そして「髪の毛一本まで数えられている、それほどにあなたは完全に神に知られているのだ」というフレーズは、たいへん印象的であり、またわたしたちイエスに従おうとするものの生き方や語り方に深い示唆を与えてくれます。

 2月1日早朝、ミャンマー国軍が突如軍事クーデターを引き起こしました。ミャンマーの民主化が進むにつれ、永らく国軍が政局にもたらしてきた特権や影響力が削がれてきたこと、そして民主主義の促進を図る現政権(NLD)が進めようとしている憲法改定によって、軍の既得権(議会の1/4の議席があらかじめ国軍に割り当てられること)が小さくされていくことに危機感を募らせ、一気に軍事的な転覆劇へと打って出ました。あれからアウン・サン・スー・チー国家顧問を始めとする政府要人は拘束されたままです。地方の与党議員たちはほぼ釈放されたようですし、一部の通信網は動き始めたようですが、それでもまだまだ情報は統制され、国民は軍事的に押さえ込まれています。
 軍部はクーデターを引き起こしたのち、かなりのスピードで組閣をおこない、軍部にとって好ましい政治体制づくりのために布陣づくりをしています。一年間は非常事態・戒厳令状態を続け、その間にミャンマーを正常化させるのだと言っています。
 戦車と銃とで思想と言論を封殺し、暴力を行使できる人々・すなわち軍人が政治の椅子に座ることで「国家の秩序と安全」を担保できる、それこそが「平和」であると考える思想が、このようにして君臨し直してしまいました。積み上げてきた民主主義が一夜にして軍靴に踏みにじられるという恐ろしい現実を世界はまのあたりにしています。これに類似した出来事は、昨年、香港でも引き起こされていきました。
 言論は大幅に封じ込められました。しかし、何が間違っているか、どんなひどいことがどこで起こっているのかということは、人々の耳元でささやかれ広がっています。何を見つめ、何に向けて、いま忍耐するのか。何を信じ、何を求め続けていくべきなのかという言葉は、暗闇の中で人々の耳元にささやかれ、伝わっています。「耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい」まさに、耳元で聞いた、切実な命の叫びや、耳打ちし合う真実は、決して封殺されることなく、やがて屋根の上で、叫ばれる日が来ます。屋根から屋根へと伝わりすべての人々が一斉に大声で叫ぶ日がくるのです。
 2月3日、在日ミャンマー人たちが3000人、ただちに外務省を取り囲んで、「ミャンマーを助けてください、よろしくお願いします」との嘆願の声を上げました。それを報じたYahooニュースには、すぐさま日本人達から、次のような非難の声が書き込まれました。
「日本で抗議しても意味ない。ミャンマーに帰れよ」
「コロナウィルスが日本で蔓延しても良いのか。エゴイスト過ぎではないか」
「他国へ逃げた負け犬、とミャンマーでは思われているかも知れません。蚊帳の外の蚊が 騒いでる状態で無意味」
「はっきりいって迷惑です。良識あるミャンマーの人はやめましょうって声ないの」
「密だし、迷惑です。本国に帰られて当事者相手にデモをしてくださいね。」
「邪魔だ、コロナで悲惨な状況でふざけている。」
「日本国内で異邦人が政治活動しないで欲しい。日本人には関係ない」
このような書き込みが、800件以上も書かれています。これをヘイトスピーチと言います。
 拒絶の声、無理解の壁、冷たいヘイトの風、そうした息苦しさの中で、しかし自由と正義の回復を求める声は決して封じられることなく、やがて屋根の上に鳴り響く日が来ると信じます。

 民主主義のいのちは、誰が主権者か、ということです。真の民主化にとって大事なことは、いつも「主権」というものを、この世に存在する「一人一人のいのち」に結びつけて捉えねばならないということです。力ずくでなく、かならずしも多数決だけでなく、そこに存在するすべての人の自由や権利が尊重されるように考え、作り直し、積み上げ、育てていく。それが常に「過渡期」を過ごす民主化、常に途上を歩み民主化のプロセスです。決して開き直らずに、自分たちの歴史の間違っていた問題点を検証し、対話的な教育を通して「考える人」を育て、新しい観点や見地も取り入れ、より良い社会にしていく不断の営み、これが民主主義を生きるということなのです。
 社会形成というものは常に「途上」ですから、たくさんの不備があります。そして、新コロナのような事態に直面した時にこそ、その社会の脆弱な事実、その社会のしくみの不備があらわになってきますから、混乱が起きます。しかし、その時にこそ、不満を力で抑え込もうとしたり、乱暴に思考したり、以前の姿に里帰りしようとしたり、力を持っている人に飛びついていったりしないで、落ち着いて新しい解決法を探していく。民主主義を育てるとはそういう忍耐強く丁寧な業なのです。
 ところで、その同じ時、日本では、運用する上での法解釈にたくさんの曖昧さを残したまま、行政罰つきで「私権」を制限させることができる「改正コロナ関連法」が成立しました。かなり心配な法律です。ミャンマーの軍事クーデターとは異質な出来事のようではあっても、力で自由や権利に制限を加えることも時には必要という「思想」は通じるものがあります。
 まもなく2月11日「信教の自由を守る日」を迎えます。日本社会が新コロナに覆われて初めての「信教の自由の日」。思想・信条・信教・言論の自由は、この一年でどうなってきたと思われますか。「こんな状況の中で、そうした自由は制限されるべきだ」という空気は濃くなっていると思いませんか。

 恐れるな。とイエスはいまもわたしたちに呼びかけてくれています。
 わたしたちは何かと恐れを感じます。信念や信仰を掲げて生きることに安心よりも恐れを感じることがあります。ひとたまりも無く、潰されるのではないか、はじかれるのではないか、嫌われるのではないか。恐れがつきまといます。弟子たちも、マタイ共同体も、わたしたちも同様です。新コロナウィルスの恐れは、この社会にいろんな恐れを引き出したとも言えます。ウィルス以上に恐ろしいものも出現してしまったのかもしれません。だから、わたしたちは、ほんとうに恐れるべきものは何なのか、をしっかりと考えていたいと思います。恐れるべきものは、ほんとうにそれなのか。という思考の枠組みを大事にして過ごしてみたいと思います。
 恐れるな、とは、恐れるべきものはほんとうは何? という問いでもあるのです。
 マタイ福音書を貫いているキーワードはインマヌエル「神共にいましたもう」です。今日の聖書箇所もインマヌエルです。「恐れるな、なぜなら『インマヌエル』だからだ」と言うのです。
「一羽の雀でさえ、父のお許しがなければ地に落ちることはない」と訳されている箇所は、原文に忠実に訳すなら「神なしに落ちることはない」すなわち「地に落ちるときには神が支えてくださる」という意味です。新共同訳の訳、「お許しがなければ」のままだと、「落ちるということは神の許可・裁断がくだったから」とか「落ちることが神のご意志だ」というニュアンスが残ってしまうので、もともとの本意と全く離れてしまいます。そうではありません。「神なしに落ちるのではない。あなたがどんなときでも神はインマヌエルなのだ」とイエスは言っているのです。
 わたしたちが弱るときもインマヌエル。理解されないときも、捨てられそうになるときも、「神なし」ではない。神が共にいてあなたを支えている。あなたは今泣いているかもしれない。しかし、神なしに泣いているのではない。神が共にいて泣いているのだ。神なしに疲れているのではない。神と共に疲れており、神が共に疲れを味わっておられ、疲れたあなたを神が支えているのですよ、ということなのです。
 一羽の雀さえ神なしに生きていない。一羽の雀さえ神なしに死ぬことはない。
 わたしたちは神なしに今日からを歩むのではない。わたしたちはどんなに悪い時代、どんなに先が見えない時代であっても、決して「神なし」に生きるのではないのです。

                                 了


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