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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
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Common Bible Translation
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週報巻頭言
週報巻頭言 : あなたは神の宝物 申命記7:6-9 / マタイ福音書6:19
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2021-02-14 14:42:30 (59 ヒット)
週報巻頭言

 人生はある意味で「宝探し」のようなものかもしれません。自分の人生を輝かせてくれる宝物。ああ、これがあるから自分の人生は良かった、と言える宝を手に入れること。自分は、こんな誇れるもの、こんなかけがえのないものを得たので、人生・生きていて良かったと思える、そんな宝物。そういう「お宝」を手に入れたい、と。それをどう考えるか、人によってそれぞれです。ある人にとっては、懸命に注いできた仕事と職場だと言うかも知れない。永年の鍛錬によって身につけた技術だというかも知れない。いや家族こそが自分の宝だと言う人もいるだろう。もうなんといっても孫が宝物だと言う「じいじ・ばぁば」たちもいるでしょう。何と言っても嬉しい友人たちだ。いやこの健康だ。
「あなたの宝物は何ですか」と訊かれて、人それぞれが、様々なものに思いを致すことでしょう。
 聖書は、人間が宝探しに生きる者であることを言い当てています。そして宝探しに悩み、宝探しに苦しみ、宝探しの果てにうずくまってしまう者であることを描いています。
 主イエスのたとえ話にもそれが映し出されています。
 100匹の群の中から迷い出た一匹の羊の話しがあります。もちろん迷い出た一匹の羊にたとえられているのが、まさに苦悩する人間のことです。宝物を探して、自分の目の先、鼻の先の何かにつられて進んでいるうちに、群れから遠く離れ、気がついた時には、生きることのできない場に閉ざされ、自分自身の命が危険にさらされる崖っぷちにいたのです。そこで、孤独と不安に怯える人間の姿を描いています。
 放蕩息子のたとえがあります。弟息子は、豊かな父の養いの家に暮らすことに満足ができなかった。この囲いの中から外に出れば、人生の宝物、もっと楽しく喜ばしいものに出会えるに違いない、と思いました。彼は、遺産の生前分与を申し出て、家を出ていきます。宝探しに胸を弾ませて出ていきます。たくさんの悦楽を知り、たくさんの遊び仲間ができます。しかし間もなく、それらすべては泡と消えます。彼は、豚に混じって、その餌を食べて空腹を満たしたいと思うところにはいつくばってしまいます。宝探しに失敗してしまったのでした。
 人生の宝を積み上げ、蓄えることに熱心で、すっかり大丈夫のようにしか見えないのに、苦悩が尽きず、イエスのところに、宝探しのことで接近してきた人々がいます。有名な「富める青年です」。彼は財産にも家柄にも恵まれていました。高い学問を修めユダヤの高級官僚(おえらさん)になる道もほとんど約束されていました。それでも彼は不安だった。そこでイエスのところにきて尋ねます。「師よ、何をすれば永遠の命が得られるのだろうか、さらに何をすれば、何を積めば、何を蓄えれば。」
 徴税人の頭でザアカイという男がいました。大金持ちで蓄えはもう十分でした。けれども人々から忌み嫌われる徴税人という仕事、誰からも「罪人」「ユダヤへの裏切り者」と指をさされる人生に、あまりにも深い孤独と嘆きを抱えてしまったのでしょうか。イエスにどうしても会いたくなり、恥も外聞も捨てて木に登って、主イエスを見に来たというのです。
 聖書は、そのように、人生の宝を求めて人間が悩み、迷い、失われそうになっており、場合によっては死にかけているのだということを示しています。
 聖書は、そんな人間を的確に描きながら、同時に、まったく別の角度から人間に迫っている神の呼びかけです。別の角度とはどういうことかというと、人間が自分の人生の延長線上に宝物を見いだし、宝を積もうとあがいているのに対して、神は、まったく逆の矢印をもって、「あなたは、わたしの宝物なのだ」と呼びかけているということです。

 申命記は、イスラエルの民がエジプトから導き出され、約束の地カナンに入っていく前に、途上にある荒野の中で、神さまから聞かされた言葉として編集されました。
「約束の地カナンにはたくさんの先住民族たちが住んでいる。そこに入植し、遊牧型にしろ、定住農耕型にしろ共同体を形成するときに、様々な誘惑があるだろう。あるいは、集団としてあまりにも弱く小さな自分たちを不安に感じるかもしれない。しかし、わたしを主と信じ礼拝する民としての姿を貫きなさい。わたしはあなたたちを、わたしの宝の民と思っている。わたしはあなたたちを必ず祝福する。」神はそう語りかけました。
 その際、神がイスラエルに言われた言葉は注目に値します。「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られた」(7-8節)と言うのです。イスラエルはたしかに、民族と呼ぶには数が少なく、貧弱でありました。それだけではなく、罪深くもありました。出エジプト後の荒野でのイスラエルの姿はうんざりするほど身勝手です。そのことも含める時に、神の愛に含まれる憐れみと忍耐の深みを知らされます。
 神がその民を選ばれる時、その人々が強いからではなく、また必ずしも正しいからでもありません。神は、この世にあって見落とされる人々、苦しんできた人々(エジプトで奴隷状態の中で叫び声をあげていた)に「心引かれ」、さらに「あなたたちこそわたしの宝物」と呼ばれるのです。かつて結んだ関係(アブラハムと交わした約束)に対する神の誠実と、人間の背きに対する神の忍耐、そして迷い・うめく人々に対する神の慈しみを見るのです。神は、イスラエルをご自分のための道具として選ばれたのではありません。道具ではなく宝とされたのです。神に背くゆえに「もはや使えない、もう使わない、捨ててしまおう」と言うのではありません。神にとって、ご自分が問題なのではないのです。イスラエルの民は、神の威厳や神の超越性を立証するための道具なのではない。この民は、神の愛の対象なのです。ですから、神はいつも心を動かしていかれます。絶対者として決して動かない神ではなく、情けないほどに相手に対して心を動かしてしまう神として、民に関係されたのです。だからこそ、神はこの民のために悩むのです。だからこそ神はこの民のために本気で怒るのです。だからこそ神はこの民のために忍耐し、繰り返し赦すのです。そして、神はこの民に信実を求めるのです。 

 「おまえたちは私の宝の民だよ」と、神から呼びかけられ祝福されているのに、イスラエルはその後も、自分の力で自分を輝かせようとし、この地上で自分たちの手で栄光を勝ち取ろうとあがいてしまいます。大づかみに言えば、それがイスラエルのその後の歴史であり、その結果、宝探しを誤り、宝探しに失敗し、あるいは宝をどこに蓄えるべきかも見誤ってしまっていました。何を愛すべきかをはきちがえ、また何を愛して良いのかがわからない民となってしまったのでした。
 さて、もともと、イスラエルの民にとって宝物とは何だったのでしょう。まさしくそれは、「神が自分たちを宝と呼んでくださること」そのものこそが「宝物」だったのです。神が宝と呼んでくださる自らを感謝し、神の宝として生きること、それそのものが宝物だったのです。それが天に宝を積む生き方だったのですが、イスラエルはそこから遠く離れて、もう神の呼びかけに心を動かすことができなくなっていきました。
 しかし、この民を宝物のように愛したい。この神の初めの思いは消え去ることはありませんでした。わが子として民を愛し、強いから、立派だから、役に立つからという理屈ではなく、愚か者であるからこそ憐れみ、迷い続けるからこそ導きたい、貧しいものであるから富ませたい、死に怯えるから生かしたい。神はこの心に燃え続けていました。
 主イエスは、この神の呼び声でした。主イエスは、この燃える神の心として「あなたは父なる神の宝物なのだ」と呼びかけました。
 主イエスは、宝探しに迷い、孤独と危険に閉ざされてしまった一匹の羊を、宝物のように探しに行き見いだして喜ぶ羊飼いの姿を映し出します。どうして99匹を野原に残して一匹を探し出しに行くのでしょうか。それは、宝探しに迷うこの一匹こそが、あなたであり、あなたは羊飼いにとって宝だからです。決して失いたくない宝だからです。
 放蕩息子が帰ってくる日を、父はなぜ戸口の外で待ち続けるのでしょうか。なぜ帰ってきた息子に、なんの怒りもぶつけず、抱きしめて迎えるのでしょうか。この愚かな息子がやっと真理を悟ったからでしょうか。いいえ、あの父にとって、この息子が宝物だったからです。失えない宝物だからです。そしてこの愛されたバカ息子こそが、実にわたしなのです。
 主イエスは、ザアカイの登った木の足下で、彼を見上げて、「今日、あなたの家に泊まらせて欲しい」と言います。イエスは、彼が宝探しに疲れていたことを感じたのです。そして、主イエスが言いたかったのは、「もうさまよいの木から降りてきなさい。あなたは、まぎれもなく神の宝だ。そして、あなたこそが、わたしの友だちだ。」ということでした。
 主イエスの言葉、主イエスの命は、「あなたは神の宝物なのだ」という神の心そのものです。あなたが、わたしを信じ、選んだのではない。私があなたを選んだ。わたしがあなたを信じ、共に生きるためにあなたとつながる。あなたの宝探しがあなたを強め、強いあなたが神を高めるのではない。神があなたを愛し、あなたを宝物とするのだ。あなたが、まだ弱かったときに、あなたがただただ神に背を向ける者であったときに、神はあなたを愛し、あなたを選び、あなたを宝物とされた。それがあなたの人生の出発点なのだ。あなたを宝物と呼び、あなたのために心を動かしてくださる神に向かって、あなたは「宝物としての喜びと安心」をもって生きていくことができるし、生きていくべきなのだ。
 これが主イエスの招きであります。
 人生は宝探しのようなものだ、と冒頭で申し上げました。けれども、その宝探しこそが謎に満ちており、人間は出口の見えない袋小路に入り込んでしまいがちです。しかし、人生にはもう一つの矢印があります。もうひとつの声があります。それは、神から「宝物」と呼ばれている自分に気づく、という矢印です。神の宝物としてのこのわたし。神のまなざしから自分を見るときに、私たちの今に、新しい慰めが訪れるのではないでしょうか。神の宝として生きること。私たちの今に、新しい使命が生まれるのではないでしょうか。
神の宝としての私、神の宝としてのあなた。わたしたちを、ともに天にたくわえるようにして歩んで行く市川八幡教会でありたいと思います。それは取りも直さず、わたしたちを私たちの手に握りしめることではなく、天なる神の前に、そして神の宝である多くの人々の前に、私たち自身を開いていくことであります。

「わたしの目にあなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛する。恐れるな、わたしはあなたと共にいる。」 
                                了

 祈り
 主よ、いまコロナの霧、コロナの闇の中で、積み上げ、蓄えてきたものを失い、苦悩する多くの人々がいます。ただ、その誰もがあなたの宝物。自分自身の命と存在こそが、何よりの宝物だと気づき、それらの人々が再び希望をもって歩み出すことができるように導いてください。
 この世にあって見失われている人々を、慈しみ支えてください。
 そのような人を見失ってしまっているこの世を憐れみ、癒やしてください。
 私たちが、このような時に、ほんとうに大切なものに目を留め、自分の存在と隣人の存在の価の高さを受け取り直すことができるようにしてください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン


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