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週報巻頭言
週報巻頭言 : 油断せず―共感の感性を絶やさない― マタイによる福音書25章1-13節
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2021-03-07 17:30:27 (39 ヒット)
週報巻頭言

 2011年3月11日、東北太平洋沖を震源とするM9.0の東日本大震災が発生。巨大津波と東京電力福島第一原発事故という未曾有の複合災害は、関連死を含めて全国で約1万9000人の命を奪い、いまだに多くの人々の行方がわかっていません。筆舌に尽くしがたい驚きと悲しみとを刻まれてしまったあの日から、今週3月11日で10年を数えます。あの日、私たちが目撃しながらも突きつけられた人間の愚かさと小ささ、感じさせられた後悔の念と誓い。誰にもそのようなものがあったと思うのですが、下手をするとわずか10年でさえ、それらを忘却し、風化させることができるのかもしれません。私たち人間には、そのような薄情さがあります。また、週報巻頭言に書かせていただいたような「楽園からの風」が私たちには強く吹き付けていて、忘却を後押しするのです。
この間、テレビ局が、多様な視点から特集番組を組んでいます。時間が許されるなら、そうしたものに導かれながら、再び、あの日に想いを傾け、死者を悼み、人の人生について、社会のあり方について、自分なりに思い巡らせていきたいと思います。

 今日はマタイ25章1-13節の『聖書教育』のテキストを変更せずに取り上げることにしました。このたとえ話の構図は以下のようなものです。
・10人の若い女性たちが、婚宴の席で花婿の到着を迎える際の、大切な役割を果たすた めにスタンバイしていた。
・ところが、花婿の到着が遅れる。アクシデントが起こった。
・5人は予備の油の入った壺を持っていた。しかし、他の5人は予備の油を準備していな かった。
・あまりに花婿の到着が遅いので、全員、眠りこけてしまった。
・突然、花婿到着の知らせが響く。
・起きてみると、手元のランプの油がほとんど無くなり欠けていて、灯心の火がちいさく なっていた。油を足して備えなければならない。
・油を準備していなかった乙女たちは、急いで油を補充しにでかけていく。しかし、タイ ミングは悪く、その間に花婿は到着し、婚宴は始まってしまった。

 この話は、天の国(神の国)のイメージを示すためにイエスが語られたいくつかのたとえ話の一つです。たとえ話には、そのたとえ話全体を通して、気づかせたい中心テーマがあります。
 天の国とは、神さまが人間の命と人生にとって大切だとなさるものを、「あなたが大切にして生きているかどうか」が問われる場所であるのと同時に、神さまのもとで、あなた自身がその大切なものに包まれ、平和と解放を味わえるような場所。それが天の国なのだということを示しているように思います。
 しかも、その「命にとって大切なもの」とは、わたしが常に大切にしていないと、わたしのものにならないし、すぐに見失ったり、思い違いをしてしまうものなのだ、ということなのだと思います。

 「油を準備している」ということ。それが、「いつ何があってもいいように、ちゃんと、きちんと、立派に生きておこう」ということなら、まさしく聖書に登場するユダヤ教の律法学者やファリサイ派の人々がそうでした。日ごろから正しいことを漏らさず実行する。でも、イエスさまが、そんな姿のことを指して「油を準備しているとはそういう人のことだ」などと仰るわけがありません。むしろ彼らの反対側にあることだと思います。
 ましてや、(今日は東日本大震災をおぼえる礼拝ですから、つい連想してしますのですが)突然の災害への備えのために、持ち出し荷物を整えておきましょう、ライフラインが復旧する少なくとも数日分の食べ物飲み物、防寒シート、ラジオ、予備の電池で荷物をつくっておきましょう。それから車の油、ガソリンを満タンにしておきましょう。というようなことと連想してしまいそうになるのですが、そういうことではないと思います。
「油を準備している」というのはどういうことなのでしょうか。

 もう一つ、うっかり予備の油を準備していなかった5人の女性たちに対して、準備していた5人の女性達はきっぱりと分け合うことを断りますね。「そういう時は、分かち合うべきじゃないか」と思うかもしれません。分かち合いの精神、助け合いの大切さを説くたとえ話ならそうですが、きっと、この油にたとえられているもの、つまり「命にとって大切にするべきもの」は、「急に分けようとしても分けることのできないようなもの」なのだと思うのです。では、いったい「油」って何を指しているのでしょう。

「大震災の悲しみをおぼえる礼拝の中で、よりによってなぜこんな箇所になるかなぁ。」「読み方によっては、とんでもないことになるぞ。」私は、そう思いました。
 救われる人と裁かれる人。助かる人と助からない人。受け入れられる人と受け入れられない人。救われるために、助かるために、受け入れられるために、どうすべきか。そんな構図で、聖書を読むべきではないと思いました。特に、今日の礼拝では、そのような印象を残してはいけないのだ、と感じてまして、先週は不安の中に黙想を続けました。
 そのような準備の中で、本田哲朗神父が訳された福音書『小さくされた人々のための福音』を読みました。本田哲朗神父は、カトリックの屈指の聖書学者で、バチカンの中枢の聖書研究所で研究員を続けてこられた方ですが、その研究環境の空しさから、自ら志願して職を辞され、大阪西成区の日雇い労働者の街・釜ヶ崎の中にある「ふるさとの家」の駐在神父となり、日中は、日雇い労働をしながら、労働者たちの綱渡りのような人生を共に味わい、抱えている孤独や心折れそうになる気持ちと接しながら「聖書の読み直し」をなさり、そして釜ヶ崎に今も生きているイエスの生き生きとしたまなざしや情感をくみ取りながら、しかし、聖書の原語が持つ意味をそこなわない範囲でニュアンスを選び取り、本田哲朗訳の聖書を刊行されました。
 本田神父の訳を読んで、私の不安な黙想に光を与えられました。「5人の賢いおとめ」「5人の愚かなおとめ」と訳されているところを、本田神父は、「感性のあるおとめたち」「感性のにぶいおとめたち」と訳しておられるのでした。
「油を用意する」というと、物を準備しておくこととか日ごろの行いを良くしておくことと捉えてしまいがちですが、そうではない。油を用意しておくとは、感性を養い、感受性を豊かにしていることなのだ教えられ、私は、黙想の目線の向きを変えられました。

 では感性のある人、とはどういうことなのでしょうか。
 マタイ25章という文脈。主イエスはエルサレム入城の後、十字架が迫る中で、このたとえ話を語って、天の国で大事になっているものこと、だからあなたにも大事にしてもらいたいことを語っているわけです。
 イエスは、人が負わされてしまっている重荷、とくに謂われのない差別や抑圧、ないがしろにされる存在の痛みを背負われました。と、同時に、人間にそのような重荷を負わせて成立している社会にがまんならなくて、それに決して服従せず、否を言いました。イエスは、ずっとそうしてこられました。ガリラヤからエルサレムまで、「幸いなるかな心の貧しい者、天の国はあなたたちのもの。」という宣言にあるように、イエスは天の国の訪れを、目の前のいと小さきこの人に、いま、ここで宣言し、同時に「この人を小さき者と蔑んでいる世の力こそが無力だ」と宣言して歩んできました。だから、彼は、ユダヤ指導者たちから殺され、「そんな宣言など腹の足しにはならない」と考えた多くの人々から捨てられていくことにもなりました。このたとえ話をイエスがしたのは、十字架の判決が、もうそこまで迫っているときでした。
 そのような主イエスが、感性を養い感受性を大切に研ぎ澄ましなさいと仰る時、その感性とは、間違いなく、苦しんでいる人の苦しみに共感する感性のことであり、痛んでいる人の痛みを理解しようとする想像力のことだと思います。傷口にずけずけと触らずに痛みをまず理解しようとする感性。その悲しみや痛みの時間を想像し、それを自分のこととして痛んでいくようなことなのだと思います。そして、失われていこうとしている人の存在に手をつなぎ、この人を見失っている世界に向かって、「ここに命がいますよ」と証言していく、そのような勇気を伴う感性のことだと思うのです。天の国の婚宴の広場に掲げられる灯火とは、そのような人の感性豊かな優しい心が大切に燃えて、その灯火が広場を照らしているような、そのようなランプがいくつも集まってその場にいる人々を照らしているような、そのような婚宴の席に、天の国はたとえられています。そうです、油とは人の痛みに対して共感力と想像力を働かせる感性、感受性のことです。わたしは、イエスが、そして聖書が語っている「愛」ということばも、ほぼ、これに等しいものだと感じています。
 ところで、このような感性は、出会いを大切に生きていないときっと養われることのないものです。このような感受性は、痛んでいる人の物語を聴いたことがない人や、聴こうとしてこなかった人には残念ながら宿らないものなのだと思います。こうした感性は、人の受けてしまう痛みや苦しみと、自分とが、決して無関係ではないということを感じ入ることなしに、わたしのものとなることのないものなのです。
 マリー・アントワネットが、「パンをくれ」という民衆の叫びに「だったらお菓子を食べればいいのに」と笑ったように、まるでわからなかったように、急に買いに行っても手に入れることのできないものなのです。
 感性や感受性は、共感したり共苦したり、関わろうとしてうまくいかず、自分の立場の優位性も問われたりして、自分も苦しみ、悩み、自己嫌悪に陥り、それでもいっしょに居させて欲しい、分け合うことがあればそうさせて欲しいと手をつないみようとした、そういう葛藤含みの交わり無しには、授かっていけないものなのではないでしょうか。
 こうした感性というものは、つくろうとくろうとしてもつくることができず、どこかに売っているわけではないのです。ただ、出会いの中で注がれていく恵みであります。自分で意識するわけではないのですが、このあとの箇所に出てくるイエスのたとえにあるように、振り返ったとき、「あのとき、あの人にしてくれたのが、わたしにしてくれたことなのだ」と主イエスから言ってもらえるようなものなのです。

「天の国に入るにはこれすれば良い」「これをもっておけば良い」というものはありません。ただ、喜ぶものと共に喜び、泣くものと共に泣く。その共感の営みを生きていることなのです。予備の油の壺を準備するということは、持つことができないから、出会いと交わりと祈りを必要としながら生きる、ということなのです。直面し、自分が足をつけて生きている歴史の中で、人間が呻いた呻き、届けられている嘆き、流されてきた涙に目を向けることであり、それを自分なりに精一杯引き受けることであり、その呻き、嘆き、痛みと繋がって、感じ、考え、そこから、癒やしと解放の道筋を探していこうとすることなのです。
 東日本大震災から10年を数えました。
 あの日、あの時の驚き、嘆き、怒り、悲しみ、そして誓い。
 それを忘却しないこと。
 それを風化させないこと。もっともっと想像してみようとすること。それが、油を切らさないように生きるということであり、油断しない、という生き方なのだと思います。

                                 


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