はじめての方へ
メニュー


このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The
Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
週報巻頭言
週報巻頭言 : 「その日」の風景 マタイ福音書25章31-46節
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2021-03-14 13:17:14 (30 ヒット)
週報巻頭言

 イエスは誰もが理解できる風景を示しながら、たとえ話を語られました。それは、羊と山羊とを分けるパレスチナ地方の牧畜の習慣でした。日中は一緒に放牧されていても、夜になると山羊は暖をとるために暖かい場所に、羊は比較的風通しのよいところにと分けて休ませるのです。
 このような習慣がよくわかっていた人々には、分けられる時がくることと、分けられるイメージが思い浮かんだのです。イエスは、このイメージを用いて「最後の審判」の風景を語られます。
 お聞きになったことあると思います。「最後の審判」。ミケランジェロが同題の絵画を残しています。「終末」などとも言われます。未来の「いつか」にそんな「審判」がくだされる。何らかの基準によって、そのとき生きている人々も先に眠った(死んだ)人々も、すべての人々が右と左に分けられるように裁かれる、そんなイメージです。いつかはわかりません。分かれ目の基準も掴めません。さて、その日その時「選ばれる」ために何をしておいたら良いのか。「功徳リストが欲しい。」「過去問題はないのか、赤本はないのか?」「ガイドブックはないのか?」「 誰かはっきり教えて欲しい!」「 よし、何をしたらそちらに行けるか、私が教えてあげよう。」そんな風にして(新興)宗教がニョキニョキ生まれます。いえいえ、古代のユダヤ教もゾロアスター教もキリスト教も、「どうすれば、そちらの側に行けるの」という人間の欲望、人間の不安とちっとも無縁ではないのです。
 マタイによる福音書24章は「その日がいつ、どんな風に訪れるか」についてイエスが語り、25章は「いったい誰がそちらがわの人になるのか」について「たとえ話」で語っている部分です。けれど、「いつ」「どうな風」についてはやはり秘められたまま、「誰が」についてもたとえ話なので「解釈いろいろ」です。謎に包まれています。

 でもこのたとえのおもしろいのは、人間の自覚とキリストのまなざしとはずれているということです。
 右の方ですか、祝福されて受け入れられているのは。こちらの人々は、最後の審判の時キリストの前で、自分がその選びに値するということに全く気づいていないのです。(いつわたしが○○しましたか)。そう自覚がないのです。
 一方、別の方にわけられた人たちは、自分はいつも一生懸命やってきた。神のために働いてきたという自覚を持っています。(いつ私が○○しませんでしたか)と。
 この「自覚のずれ」が大変興味深いです。この人間の自覚とキリストの判断がずれるからこそ、おもしろい。おもしろいというか、人間にはつかまえきれない。到達しきれないわけです。だからきまぐれにいきれば良いとはもうしません。人間の努力や功徳は活動は貴いものだと思いますし、光があてられて良いものだと思います。でね、それがイコールキリストのまなざしだと決め込んではならないのです。キリストに選ばれるためにこうしようという類いの自覚は、神の前、キリストの前でずれていくものなのです。選ばれるための方程式はありません。ただし、キリストのまなざしの前に立つときは来ます。というか神の前に、キリストの前に生きていないような時は一時たりともありません。インマヌエルのキリストが傍らにおられない時もない、のです。
 私たちが見て考え、価値づけをしようとしている「私たちのまなざし」とは別の「キリストのまなざし」が、私の生きるそれ・そのことに注がれています。そして、それ・そのことが、キリストに祝福されるとは限らないし、そんなことが必ずしもキリストに役立たない行為であったかどうかもわからないのです。300デナリの香油を割ってイエスに降り注いだ女の話。愚かな行為に映りましたが、イエスはとても喜ばれましたものね。

 このたとえもそうですが、主イエスの語られる言葉にいつも流れていることは、神の国というところは、そして最後の時の祝福というのは、涙がぬぐわれ、苦しみから解き放たれ、傷が癒やされ、理不尽な重荷がおろされるような場所(状態)なのだということです。と同時に、いつかその場に与ることができるのは、いま泣いている目の前の一人の涙の意味を知ろうとし、いま傷を負うている目の前の人の傷口に薬を塗ろうとし、いま出会ってしまった家の無いこの人を迎え入れ、理不尽な重荷に喘いでいる目の前のこの人といっしょに呻き怒ることと、そのことと関係があるのだよ、ということです。
 努力する、節制する、精進する、修行する・・・それらは、どこか自分自身で完結していく業ですね。「私が何をするか、何をすれば」という風に私の「取り組み」の問題ではないのです。
 「あの小さな一人にしたのは、わたし(キリスト)にしたのだ」とイエスが言うように、他者との関係、つながりのことがら、そして今という時の問題なのです。(今というのは、常に、「たまたま性」をあらわしています。) ですから、日ごろから慈善活動に努めてきました、とか、支援活動を生業にしています、というようなことでもなさそうです。

「いつ、どんな風に『その日』が来て、いったい誰が、そちら側に行けるのか。決してわからないことを気にして、一心不乱になって、いま目の前の他者との出会いを見失わないようにしなさいよ。とても小さな人との出会いとつながり、つまり慰められるべき人が今慰められること、癒やされるべき人が今癒やされていくことと、やがて「その日」の風景とは、とても関係があるんだからね」とイエスは語っているのだと思います。

 たいがいの人はトルストイの「くつやのマルチン」を連想しますし、また人物で言うとマザー・テレサのことを思い浮かべるかもしれません。マザー・テレサのような生き方がキリストが喜ばれる生き方だ、と断定することはできませんが、マザー・テレサという人が、実にキリストを感じながら生きた人であったと言えると思います。
「死にゆく人々の家」。一人一人の孤独の解放のために、その人の人格の尊厳を見つめて「この人々はキリストなのです」と語ったテレサ。それは、決してキリスト論を論じる言葉ではないのですね。
 若き修道女だったテレサは、インド・カルカッタで、地面に打ち倒れてそのまま死んでいく人々を見ます。人の飢え、渇き、寂しさを見ます。彼女はそこに留まることにしました。その彼女には「こうすればキリストが喜ぶ」という定式のようなものがあったわけではありません。ただ、自分の心が震えたのです。この人の命に触れること、この人の小さな必要を満たすこと、そしてこの人の命を受け取り、受け止めようとすること。その関わりをもくもくと淡々と為し続けていく。そこにキリストに仕えるという信仰を重ねていくのですね。
 マザー・テレサの活動には多くの批判があります。貧困は構造の問題だから、社会構造そのものを打たねばあまり意味がないというような。それは、それで必要な議論です。
 ただ彼女は、そこで一人の命に奉仕する一人として生き続けただけでした。また彼女は、自分で自分の働きを「良し」とはしないです。「この働きはキリストに仕える働きです」と位置づけたりアピールをなさったりはしませんでした。
 彼女は毎日、定刻になると、自分の業を止めて、必ず祈りの場に入り、沈黙の中にキリストと直接的に向き合っておられたといいます。かならず、自分の業をやりつづけないで横に置く。にぎりしめないで手を放し、キリストとの祈りの中に手を結んでいきます。キリストを求め、キリストのまなざしの中へと自分の業を託していく、委ねていくのです。

 神が私たちに与えられた救いのかたち(しるし)は、イエス・キリストの姿に顕されました。そのかたちとは、「神がもっとも小さい一人になられ、もっとも小さくされている一人と出会い解放する」という出来事でした。最も小さな、しかも罪深い人間である私のために、神が最も小さく低くなられ、小さな私が受け入れられ、小さな私が用いられ、遣わされ、小さな誰かに届いていくこと。小さな一人が小さな一人に生きること。このつながりの中に、キリストの喜びは注がれるのです。何より小さな私たちが生きているという事実、小さな一人として生きることに、素晴らしい意味があるのです。
 今日という時代は、「一人がする」ということを無意味に感じさせる時代です。また「一人にする」ということをも無意味なことのように思わせる時代です。とりわけ、ミャンマーで起こっていることに手も足も出せない。どんどん事態が悪化していくのに。もどかしくてしかたない。無力感でいっぱいです。祈ることしかできない。でも、祈ることで私が変えられ私がつくられる、そのことはやはり大切なことです。いま、苦しんでいる人と神の国はつながっている。いま傷を負うている人と「その日」はつながっている。わたしもつながろう。手が出せないなら、手を結んで祈ろう。そこからできることを考えてみよう。
 この小さな一人が小さな一人に祈ってみる、一人が一人に生きてみるということは、キリストのまなざしに捕らえられており、ここにキリストがいらっしゃるのです。
 
  


印刷用ページ 

市川八幡キリスト教会 千葉県市川市八幡2-1-10 電話047-332-5197
Theme Desinged by 工房ヒラム