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新共同訳聖書から引用しています。
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週報巻頭言
週報巻頭言 : 目を覚まし、祈る マタイ福音書26 章36-46 節
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2021-03-21 14:33:40 (34 ヒット)
週報巻頭言

「眠りこける」とはどういうことでしょうか。また「目を覚ます」とはどういうことでしょうか。「おい、いい加減、目を覚ませ」と、浮かれた人や何かに取り憑かれたような人を諭すときに使う表現がありますように、単にそれは「睡眠」のことや、朝の目覚めのことばかりを意味してはいないのです。
 私たちは、起きていても眠っていることがあるのかも知れません。
 私たちは、起きてはいるけれども、目を覚まして生きていない、ということがあるのかもしれません。
 私は、いま、痛烈に感じています。いま、この時、ミャンマーの人々は、国軍の暴力の前で、眠りこけることなどはできず、ミャンマーの歴史と未来のために、自分たちの人生と人間が人間として生きる上で失ってはならないもののために起き上がっていると。いま、自分は何をすべきかということに覚醒していると思います。
 2月1日の突然のミャンマー軍の軍事クーデターに直面し、あの日以来、ミャンマー全土で、CDM=非暴力・不服従・抵抗運動が続けられています。
 軍に服従しない。軍に抵抗する。しかし非暴力を貫く。
 それは目覚めです。流れに迎合しない。暴力の前に膝をかがめない。また暴力に対して暴力でやり返したくなる誘惑に打ち勝ち、非暴力の抗議行動を選び取る。それは目覚めです。今日も、街の通りに、抗議のために出て行く。毎日、誰かが殺されている。出て行くと、帰ってこられないかもしれない。それでも、通りに出て行く。こないだまで、朝、学校に出かけていく息子が、娘が、今は、抵抗運動のために通りに出かけていく。もしかしたら、帰ってこないかもしれない、その息子を娘を送りだす親。眠ることなどできようはずがありません。
 こうしたミャンマーの人々の心は、いま、強烈に目覚めているのだと思います。精神的に、あるいは霊的に人間が目覚めている、というのはこういうことだと思います。
 そして、ミャンマーの民衆たちは、国際社会に対しては、「どうか私たちといっしょに目覚めていてください」「どうか眠らないで起き上がってください」と叫んでいるのではないでしょうか。

 昨年、警官に首を踏まれながら、「苦しい、息が出来ない」と喘ぎながら死んでいったジョージ・フロイドさんの絶命の喘ぎは「みんな、目を覚まして欲しい」という響きとなって全米に広がりました。多くの人々が目を覚ましたのです。
 昨日、連盟の震災シンポジウムで講演をなさった金丸真先生が、「私たちは決して『震災後』を生きているのではない。震災と震災の間を生きているのだ」と語られました。その夕刻に、震度5強の地震がありました。まさに、震災後ではなく、震災間を生きていることに、わたしたちは、あらためて目覚めさせられています。
 目覚めているかどうか。祈っているかどうか。このことは、人間として、そしてクリスチャンとして、生きる上での大切な問いなのではないでしょうか。
 祈り。それは、多くの画家たちが描くように、また私たちも自然とそう考えているように、目を閉じ、手を組み、膝をかがめ、静まっていく姿です。確かに祈りは静まるときです。しかし、静まることは眠ることではないのだと思います。祈るとは、むしろ目を覚ますこと。目を覚まそうとすることです。
「大切なことを知らされる時」これが祈りの時です。
「私にとって無くてはならぬものを教えられる時」これが祈りの時です。
「したいことではなく、なすべきことへと心を向けられる時」それが祈りの時です。
 目を覚まして、祈る。また、祈りによって、目を覚ましていく。
 目を閉じることによって、人は心を開き、静まることを通して、動きを創られるのです。

 ローマのカタコンベ(初代教会のクリスチャンたちの集まった礼拝所であり、また共同墓地)の中には、たくさんの壁画、天井画が描かれています。またいくつかの像も残されています。描かれている初代教会のクリスチャンたちの祈りの姿、高く伸ばした腕、天に突き上げた顔、広く見開いたまなこ、立って今にも歩き出しそうなからだ。それが祈りの描写であるとするならば、静かな内省というよりは、張り詰めた待望というべき祈りの姿です。迫害の中を生き抜こうとしていた祈る人々の姿です。
 わたしたちは待望しているでしょうか。そしてほんとうに大切なものを、まだ見ぬ時の中に備えたもう神と対話しようとしているでしょうか。

「神よ、みこころを教えてください。」「神よ、わたしの理解できない『いま・このこと』の意味を教えて下さい。」
「神よ、しかし、理解できなくてもあなたがかならず為される良いものがなりますように。」
 そうです。ゲッセマネで祈るイエスは、待望していました。何より、神と対話していました。壮絶な対話です。イエスもまた、苦しまれたのです。イエスといえどもおびえたのです。まもなく自分が迎えようとしている十字架、どうやら逃れられそうにない処刑。これまで、人々に神の国の到来を語り抜き、また疲れた人々に神のまなざしを届けてきた、その自分の歩みへの報いとして、この世が用意している十字架というおぞましい結末。
「神よ、それでいいのですか。」
「それがあなたの人間への愛のかたちなのですか。」
「アバ・父よ、それを通して、あなたはいったい何を生じさせることがおできになるのですか。」
 イエスはやすやすと十字架を背負ったのではなく、十字架を背負うことの意味を真剣に神と対話していたのです。
 神は沈黙をなさいます。一見、そのように読んでしまいます。しかし、神はイエスに答えていたのだと思います。イエスは決して神の声を聴かなかったのではないのです。イエスの問いかけに沈黙をなさる神。それはまさしく、人間を愛する徴として、イエスに十字架を背負わせることを、イエスを十字架に送ることによって、神が人間を愛し抜くということを、揺らぐことなく留保なしに決定された「神の声」が、この夜のイエスには聞こえたのだと思います。十字架は、ただ人間の手によってもたらされた陰謀による結果ではなく、「神の与えたもうた杯」である。この苦しみに神のみこころとみ業があるのだ。そのことをイエスはこの夜、神から聴き取ったのです。
 この「神のみこころ」の声は、十字架上の苦しみの絶頂の時も、ずっと沈黙として響き続けています。この神の沈黙こそが、実は明確な神の声の響きなのです。
「私は赦す。あがなう。裁かれ、滅びに至るしかない、あなたたち罪人を、このイエスによって赦し、受け入れる。それが、わたしの決定である。だから、あなたたちは新しく生きよ。」
 この神の沈黙は、イエスのよみがえりの朝、新しい響きとなって響き渡ったのです。
「さあ、あなたたちは新しくなったのだ。神の国は、あなたたちのもの、あなたたちは、永遠に、わたしのものなのだ」と。
 
 イエスの隣で眠りこけてしまった弟子たち。彼らの眠りに、人間の事実と本性を見ます。神に祈ろうとしていても、その祈りの時に、わが思い、わが願い、わが望みしか求めきれない人間の本性を見ます。自分の期待と憧れの中に眠り続けたい人間の悲しい性根を見ます。わたしたちは、眠りながら神に祈ってしまうことができるのです。神と向き合っているようでいて、目を覚ましていることができず、自分の夢の中で祈り続けてしまうことがあるのです。イエスの魅力的な業、頼もしい言葉に心惹かれはしても、うろたえとまどい苦しむイエスを見たくは無く、目を閉じて見ようとせず、思考を停止するのです。イエスと共にいることができないのです。「誘惑」と訳されているペイラスモスは「試練」と訳されもします。「誘惑」の本質はそれです。「試練」の本質はそれです。
 必死に祈っている人の傍らで誘惑に負けます。
「いま、自分にとっての、このことの意味は何なのか」とその意味を探して、必死に祈っている隣人の傍らで、眠りこける。それは、いまも、人間世界のあらゆる場面で起こっていることです。人間の試練なのです。
 新コロナパニックは、人間を目覚めさせることのできる何かを含んでいます。しかし、それ以上に、人間を眠り込ませる誘惑を「高い湿気」「湿度の高い空気」のように含んでいます。わたしたちは、目覚めていることができるでしょうか。目覚めて祈ることができるでしょうか。今日の難問の一つです。
 ただ、わたしたちは、イエスが目覚めて祈っておられることを忘れないでいたいのです。イエスは目覚めておられます。イエスは祈っておられます。イエスはこの暗闇の中で、目を覚まし、この苦しみの意味を受け取っておられます。眠りこける私たちは、イエスから起こして頂くのです。「立て、行こう」と。

「ミャンマーのために祈って下さい。」「国外からミャンマーのために働きかけをお願いします。」毎日のように、SNSで叫びが、祈りが届きます。何もできない自分に打ちのめされています。苦しくて息が出来なくなりそうになります。けれども、このことについて、目を閉じ、見なかったことにしたくはありません。目を覚まして祈る。このことから離れずに過ごしていこうと思います。何より、あの暴虐の嵐の中に、わたしたちはイエスが歩んでおられる姿をしっかりと見ていたいと思います。
                                 


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