空腹な者と共に (マタイ4:1–11)

投稿日時 2017-12-17 18:00:00 | カテゴリ: 週報巻頭言

「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。(マタイ4:4)

イエスは荒野に行かれました。悪魔の試みを受けるという積極的な目的があってのことです。40日40夜の断食の末に飢えられたイエスは、試みる者(悪魔)の「神の子なら、石がパンになるように命じてみよ」とのことばに申命記8:3をもって答えます。そこでモーセが指し示すのは、エジプトを出たイスラエルの民がパンに飢えたとき、神がみことばをもってマナという食物を与えられた、あのでき事です。わたしたちは自分で自分の飢えを満たすべきでしょうか。いいえ。人となられたイエスは自分で自分を救おうとはなさいませんでした。次に悪魔はイエスを神殿の境内の端に立たせ、眼下の谷に飛び降りさせようとします。神は天使たちに命じてあなたを支えさせると歌う詩編91:11–12を根拠にしてしかしイエスは申命記6:16を引いて退けます。わたしたちは神を立ち上がらせるために危険を冒すべきでしょうか。いいえ。イエスは神を操ろうとなさいませんでした。「神の子なら」ということばは十字架につけられたイエスへのあざけり(27:40)と響き合っています。
 第3の試みに至って、全体を通して何が問われているかが明らかになります。人はだれをみずからの主とするのでしょうか。神のみことばに期待しないで自分で飢えを満たそうとするのは、みずからを神とすることです。神に奇跡を起こすように強いるのは、神をみずからの下僕とするとことです。いずれにしても人と神との関係の破壊であり、「主を拝み、ただ主に仕えよ」(申命記6:13)という戒めとは正反対の姿勢なのです。
 人として生まれたイエスは、ここでどこまでも人として神への従順を貫かれました。十字架につけられてむざむざと死ぬような神があるだろうか、飢えに苦しむような神があるだろうか、と言う人もいるでしょう。しかし十字架の死に至るまで従順であられたからこそ神の子なのです。みずから飢えを味わわれたからこそ多くの人を豊かに養われるのです。日本でも他の国々でも多くの人が飢える中、世は飢えた人をよいもので満たされる方を必要としています。(高市和久)

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