朽ちないものに (第一コリント15:42–58)

投稿日時 2017-12-31 18:00:00 | カテゴリ: 週報巻頭言

つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。(第一コリント15:44)

コリント教会に「死者の復活などない」と主張する一派が現れました(12節)。その真意は、おそらく死んでも霊魂は生き続けるので、体が再生する必要はないということでしょう。ギリシャの多くの哲学者はそう考えました。しかし、ユダヤ人であるパウロには体のない人間というものが考えられません。人は神が土をこねて形造ったものなのですから。何よりもキリストが復活の体を受けたのですから。では死者はどんなふうに復活するのでしょうか。どんな体で来るのでしょうか。体である限り苦痛を免れないのではないでしょうか(35節)。
 まかれた種が芽を出し、根を張り、枝葉を伸ばして形を変えていくとき、種は死んでいきます。死ぬことによって命を得るのです。同じように、死者の体も朽ちるものとしてまかれ、朽ちないものとして起こされます。卑しさと弱さのうちに自然の命の体がまかれ、栄光と力のうちに霊の体が起こされます。体が肉にほかならないとすれば、霊の体などというものがどうしてありうるでしょうか。それは、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が命を与えられるからです(22節)。キリストは命を与える霊であり、わたしたちの体を地に属するものから天に属するものに変えてくださいます。わたしたちの中に眠りにつく(死ぬ)者もそうでない者もいますが、神の力で朽ちないものに変えられるという点は皆同じです。そのとき、死はもはや力を持ちません。死のとげである罪とその力である律法がキリストによって乗り越えられてしまったからです。
 だから、わたしたちは動揺する必要がありません。ただ主の業に常に励めばよいのです。主の業とは、神を愛し隣人を愛すること以外にはありません。キリストの体の一部とされていること(12:27)を自覚して生きること以外にはありません。わたしたちは「食べたり飲んだりしようではないか。どうせあすは死ぬ身ではないか」(32節)とは言いません。主にあって自分たちの苦労がむだにならず、朽ちないものに実ることを知っているからです。(高市和久)

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