いのち・愛の受け皿(ローマ5:6-11)

投稿日時 2018-06-10 20:29:57 | カテゴリ: 週報巻頭言

パウロは、かつて主イエスのまなざしと彼の人間観に、そのいのちを刺し貫かれた経験をもっています。彼は、エリート的人間観で武装し、どんなに人を迫害し、苦しめても、自分の立場からすればそれは正しいことなのだと言い切れる独善的で暴力的な人間でした。自分で自分を正しいと確認して生きる生き方は、人間を争いに向かわせるのでしょう。
 パウロは、主イエスの愛に出会いました。その愛に出会ったときに、それまで自分が誇っていた自分の正しさが全部醜いものにしか見えなくなってしまったのです。「人間の義、それは全て醜い」と彼は言い切って生きていきます。「自分はいままで義・正しさを追い求めてきた。しかし、今、本当の義、神の義に私は出会った。それが『イエス・キリスト』そのものなのだ。このイエス・キリストという義は、理論や体系ではない。だから、安息日に何をしてはだめ、一週間に何回断食をしなければだめ、という義ではない。この新しい神の義は、人間の命の中に働く義、人間のいのちのあらゆる場面で、その悲しみを受け止め、その弱さを受け入れ、その罪を赦し、おそれを支える、そういう義だ。この新しい義こそが、イエス・キリストのいのちであり、神の愛だ」とパウロは語ります。
 この新しい「愛という義」は、ふつうに言う「正しさ」ならば、努めたり心がけたり、修得したり体得していくものですけれど、「愛」ですから、それはもう受け取るもの、受け止めさえすればよいものなのです。
人間のことをギリシャ語でアンスローポスといいます。上を(天を)仰ぎ見るものという意味ですが、上の窓をあけて、全ての器のように天を開いて、注がれる神の愛を受け止めるためにそこにあればよい。私たちという人間そのものの出来具合など、ほとんど、まったくどうでもよい。備前でも有田でも古伊万里でもなんでもない「土の器」です。しかし、私たちは、この宝(神の義・神の愛・生きる喜び)を土の器の中に持っている、そのはかりしれない力は神のものであって、私たちから出たものでないことがあらわれるためなのです。
(吉癲ヽ陝




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