おののきの往路、よろこびの復路(創世記22:1-14)

投稿日時 2018-08-05 12:29:19 | カテゴリ: 週報巻頭言

アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。
(創世記 22:14)

「恵みが届けられた」と言って喜んだのもつかの間、それそのものが取り去られてしまう。それは、私たち人間に時折起こる悲劇であり、不条理です。けれども、これは決して他人事ではなく、特別に気の毒な人々の出来事でもなく、まさに私たちの人生の事実です。
アブラハムが100歳を迎えたとき、アブラハムに子どもが与えられました。神さまの招きに賭けて出発して25年。ようやく手にした約束への唯一の手がかりでした。すべてに別れを告げて出発してからというもの、彼がようやく手にすることのできた「出発する人生」の実りでした。
 ですから、アブラハムはどれほど、このイサクを愛し、このイサクに執着したことでしょうか。どれほどの愛情をこの一人息子に注いだことでしょうか。かわいらしいイサクを抱き寄せ、その頭をなでるごとに、神の恵みに感謝し賛美したことでしょう。
 しかし、恵みが届けられたと喜んでいたそのものが取り去られようとしています。
 あろうことか、その最愛のイサクを、日の出と共に連れだし、モリヤの山に登って、祭壇にほふって礼拝せよ、というのです。耳を疑う命令でした。
 アブラハムは、おののきと悶絶の一夜を過ごしたに違いありません。何度も何度も、神を呪ったのではないでしょうか。呪いながらそれだけは許してくださいと涙で懇願したことでしょう。天幕の中で、彼はいったい何と向かい合わせられたのでしょうか。25年間の人生を問い、自分の心深くにあるあいまいなものと向き合い、神と向き合い、自己と闘ったことでしょう。その暗闇の深さを、わたしには簡単に理解することはできません。
一晩中の苦悶を経ても、彼は自分を納得させるものを得られたとは思えません。何も腑に落ちはしなかった。ただアブラハムは、神が神であり、人は人であり、神が与え、神が養い、神が取られる。厳しい事実であるが、それを越えることはできない。その神と自分の関係に打ちのめされて朝を迎えたのだと思います。
残酷な朝。アブラハムは立ち上がり、出発します。イサクを連れ、薪を積んで、神さまの命じるモリヤの山に向かって「出発」するのです。                  (吉癲ヽ陝




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