「一つの霊、それぞれの闘い」フィリピの信徒への手紙 1 章 27-30 節

投稿日時 2019-06-09 20:16:50 | カテゴリ: 週報巻頭言

あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰の ために共に戦っている(フィリピ 1:27 より)
イエス・キリストの生き方は、単独者としての生き方ではない。単独者として真 理を悟り、単独者としてそれを説き、単独者として(彼だけは)完全に生きた、とい うのではない。主イエスは、いつも誰かを見つめ、誰かを受け入れ、誰かを担い、誰 かと痛み、誰かと歩いた人である。主の死に場所は十字架。そこは、確かに徹底的に 孤独な場所であり、事実、すべての人々から捨てられた「単独」の状態だったのだが、 しかしあの場所でさえも、否、あの場所でこそ、主イエスはすべての人々と共にいた のだった。それが、主イエスの人生の姿、主イエスの死の姿。そして主イエスは、人 を永遠の単独、永遠の過去に閉じ込める墓の中から、人々とのいのちの交わりの中へ とよみがえった。聖霊は、この主イエスのいのちを吹きかけ、聖霊は、この交わりへ と私たちを押し出し給う力である。それが、使徒たちを、弟子たちを、動かしていっ た。そして、パウロも、その力に生きた。 パウロがフィリピの人々に手紙を書いたとき、獄中にあって孤立しており、また、 いつ死の宣告をくだされてもおかしくはない孤独な(生と死の)境目に挟まれていた。 しかし、彼は単独者ではなかった。主イエスの霊が彼を離れることはなかったし、彼 の心は、フィリピの人々のために燃えていた。私たちにとって「福音」とは、単独に してしまう諸力から人間を解放する出来事であり、また、人間を交わり、しかも神と 人々との交わりの中に保ち続ける力が私を包んでいるということだ。 もちろん、私たちは、自分を、自分で生きるしか無い。生きることに自分としての 責任を引き受けるしかない。だから、それぞれがそれなりに闘いながら生きている。 しかも、人を分断したり、孤立させたりする世の力の中で戦っている。その闘い(戦 い)の中で浴びる苦しみを、平気な顔で「恵み」だと語れはしない。ただし、私たち は単独者ではない。私と共に生き、私を共に生きる交わりへと招く聖霊によって、私 たちは結ばれている。そして、「恵み」はその交わりの中から染み出てくるかもしれ ない。 (牧師 吉 叶)




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