今こそ、用いてください ルカによる福音書1 章21-25 節

投稿日時 2020-11-29 20:18:39 | カテゴリ: 週報巻頭言

キリスト教会の特有な言葉に、「用いてください」という言葉があります。自分は何をしたいのだろうか。自分には何ができるのだろうか。自分から線を伸ばしていくのではなくて、「神さまの必要」の線の中で自分がとらえられてたり、自分が用いられていく。
 この視点・視線は、人間の自己理解を常に新しくしてくれ、また自分自身を柔らかくもしてくれると思います。自分の為すべき事が自分から出てくるのではなくて、あちらから来る。神さまの方から来る。隣人の方から来る。用いられようとする、必要とされている自分をそこで発見させられていくのです。
 この視点、あるいは姿勢を知っていくゆえに、人間は決して自分に絶望する必要がないのです。しかも、神さまは、神さまの豊かな御心と御業を示されるために、知恵のあるもの、才能のあるものではなく、貧しい人や人々から普段顧みられない人を用いられますから、「自分にできそうな何か」が見つからなくても、私たちは不思議に用いられていくのです。
 クリスマス。神の御子の御降誕。「救いの御業」の最大のクライマックスは、徹底的に人間の知恵や才能や輝きの裏面にあって実行されていきました。救い主の登場を指し示すヨハネ、そして救い主なるイエスは、その誕生のところから人間の力の届かないところで生命となっています。ヨハネの母はエリサベト。子どもを産むことの「できない」ままに老齢を迎えた女性でした。それが当時の女性にとってどんなに肩身が狭く、寂しいことであったことでしょう。他方、イエスの母はマリア。結婚前の女性で、当時の常識からすれば子を産んでは「ならない」立場の女性でした。そのまま妊娠・出産にいたることが、人々からどれほど白い目で見られ、また危険なことであったことでしょう。けれども、神は用いるのです。「できない」器を用い、「ならない」状態を用いて救いの御業を成し遂げられているのです。
 アドベントとはまず、「神さまが為される。貧しい私にも神さまは目をかけ、用いてくださる。」この事実の前に撃たれ、「用いられるかも知れない私」を差しだそうとしていくことに招かれているのではないでしょうか。老女エリサベトは、あり得ないはずの妊娠を自分の身にはっきりと自覚し、25節で「今こそ」と語っています。この「今こそ」は、「やっと願いが叶った」という「やっと」ではなく、辱めを受けながら、長い人生、祈りながら待ち続けた人生に「今こそ」神の御心が迫り、自分が用いられる時が来たという感激を表しているのです。ですから、私たち人間にとって、もっとも華やいだ時を「今こそ」と呼ぶのでは無いのです。もっとも輝いていた時代のことを「今こそ」と言うのではないのです。私たちは、老いて尚、病んで尚、躓いて尚、倒れそうになって尚、「今こそ」という時へと招かれ得る、そういう存在なのです。ですから、私たちはいくつになっても未来を生きるのです。どのようであっても用いられる未来を与えられて生きることができるのです。
 バプテスト世界祈祷週間がアドベントと共に心に刻まれていくことに、私は豊かな意味を感じています。アドベントとは、「救い主を待望する心になる。救いを熱望する人になる。」そういう招きをいただく季節です。そのことは、単に自分がそのような人になる、自分の心に救いの光を求めるということだけではなく、この世界の暗闇、暗闇の世界に生きる隣人たる人々と「共に待つ」ということなのだと思います。「共に待つ隣人を知る。救い主を共に迎えたがっている人々を憶える」ということです。それは、普段関わりのある人々という意味での「隣人」以上に、海を隔てて生きる、そして救い主を求めている多くの隣人たちと共に「待望する人間の帯をつくる」ということではないでしょうか。国外伝道、あるいは国際宣教協力という業を通して知らされている世界の兄弟姉妹たち、さらにその世界の仲間たちが心にかけて祈っている課題の広がりが繋がって救い主を待つ。そのような「待望の帯」の中に自分も入れられていることを喜ぶ。そうした世界性や隣人性へと招かれていることは、とても豊かなことだと思うのです。
「私が待つ」から「私たちが待つ」へと変えられていく。そこにアドベントの「待つ」という焦点と、国外伝道の「私たち」という焦点が融合していくのです。
 ザカリヤとエリサベトに与えられようとしている赤ちゃん、後にバプテスマのヨハネとなる人物ですが、この男の子には、生まれる前から明確な使命が用意されていました。その使命が、今日のテキストの前の16-17節に記されています。
「イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼は(預言者)エリヤの霊と力で主に先立っていき、父の心を子に向けさせ、逆らうものに正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」
 すなわち、ヨハネという新しい命の使命とは「人々を主のもとに立ち帰らせる」ことであり、「準備のできた民を救い主の前に用意する」ことだ、と言えます。これが、ヨハネを通して神さまが人間に求めていたことです。ですから、アドベントを迎える私たちもまた、ヨハネから呼びかけられているのです。つまりは「主のもとに立ち帰る人々の一員となること」と「主の前に準備を整えた民となること」をです。
 「伝道」という言葉は私たちにとって大切な言葉です。この言葉に、私たちは具体的なイメージを持たせていかなければなりません。そして、アドベントと世界祈祷週間というタイミングを与えられたこの時、「伝道とはどのような業か」と具体的に定義するならば、それは「多くの人々と共に準備をすること。」「救い主を待つ『民』となって繋がり合うこと。」「共に準備し、共に待つ、そのような民の一員となろうとすること。(もちろん国籍を超えてです。)」そこにアドベント的な伝道の意味づけがあります。
 コロナ感染危機は世界に繋がっています。温暖化も世界に繋がっています。金融危機も繋がっています。食料危機も繋がっています。戦争も繋がっています。女性や子ども達に痛みのしわ寄せが顕著であることも世界に繋がっています。暗闇や苦しみは広がり、繋がっています。こうした危機的状況において「繋がり」を如実に感じさせられてしまうというのは、皮肉なことですが、だからこそ、人間の「待望」も本当は繋がっているのです。「今こそ」なのです。救いの待望、癒しの待望、慰めの待望、希望への待望は繋がっているのです。「優しくありたい。勇気を与えられたい。」一人の人の求めは繋がって民とならなければならないのです。「準備をする」とは、共に人間を生かし、共に被造物世界を感謝し、共に神さまの祝福をわかちあい、共に命の光を求め神さまの業に向けて顔を向けていく、そのような民になろう、結びついて民になろうとすることです。祈ることです。「民」になるために、隣人を見つめることです。「帯」になるために結びつきの線を見いだすことです。そして繰り返しますが、祈ることです。祈りにおいて、私たちは民となることへと導かれます。
 たとえ同じ地域に生きていたとしても「一つの民」であるとは言えません。国籍の違い、世代の違い、性の違いがいつも人間を引き裂いてしまいます。同じ国、同じ社会に生きているからといって必ずしも「一つの民」ではないのです。民とは、共に救いに与るために、共に生命を育て合うために、わかちあい、準備する間柄のことです。その民を創りあげていくための力こそが祈りです。祈りにおいて、私たちは兄弟姉妹を憶えることができるのです。祈りにおいて、私たちはまだ見ぬ未来を信じるということです。祈りにおいて、神さまが必ずもたらしてくださる「今こそ」という時を、確信し待ち続けることができるのではないでしょうか。
 暗闇が、生命の危機が、恐怖がねたやすく国境を越える現実に、全ての国民が直面しています。そのような時代にあって、この世界は、ほんとうにアドベントを迎えなければならないのです。救い主の前に準備し、準備のできた民となって、共に御前に立つことができるようになりたいのです。エリサベトもマリアも小さな名もない女性でしたが、神さまのビジョンを知りました。そして、その神さまのビジョンのために「私を用いてください」とそこに座りました。彼女たちの小さなたましいこそが、神の救いが広がる世界を捕らえていたのです。
 小さな私たちも、顔を上げることができます。座り込んだ小さな自分の膝の上から、目を神さまと世界に向けて、「今こそ、私たちを用いてください」と祈ることができるのです。
  了




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