身に受ける。身を開く。 ルカによる福音書1 章26-38 節

投稿日時 2020-12-06 15:17:51 | カテゴリ: 週報巻頭言

 アドベントを過ごしています。救い主誕生の知らせは、少なからず受けとめる私たちを揺さぶってくる出来事です。知らせを受ける者に異変が起こります。驚きと恐れを伴うことがあります。その知らせは、あとで述べますが、私たちを新しい三つの道へと招こうとし、チャレンジしてきます。揺さぶってきます。クリスマスの揺さぶり、それを世界で最初に身に受けてしまった女性、それがマリアです。
 マリアは文字通り、救い主イエス・キリストを「身に受け」てしまいました。つまり身ごもりました。それはあり得ないことでした。あってはならないようなことでした。あったら大変なことになる、そんな厳しい事実でした。

 他に術がなかったのでしょうか? 救い主が生まれる別の方法が。たとえば、畑のキャベツの中から生まれるとか、コウノトリとかペリカンとかが運んでくるとか、竹を切ったら出てきたとか、川の上流から流れてきた大きな桃とかかぼちゃの中から出てくるとか、空から落ちてきたカプセルの中に入っていたとか・・・。
 いいえ、身に受けることが必要でした。それまで誰も注目することの無かった一人の女性が、救い主の命を身に受け、身に宿したというその事実こそが、実に大切なことです。救い主を迎えるということは、そのことによって恐れや場合によっては危機感が伴うことなのですが、そしてそれはまさに人が自分の身に受けてしまうからであり、その揺さぶりこそが私にとって大切な事柄なのです。もし私たちが救い主の訪れをこの身に受けるのでなければ、それは多くのニュースの一つとして私たちの人生を通り過ぎていくことになるでしょう。あるいは敬虔な感情の一つとして済まされてしまうことでしょう。
 実に神さまの業は、一般的かつ抽象的な出来事ではなく、一人の人間の具体性的な現実に具体的な衝撃をもたらしながら宿るのです。「神の具体化」です。「有限なものに対する無限者の自己表出」と言いましょうか。そして、そのマリアの具体性と、この「わたし」の具体性がつながっているのです。重なってくるのです。救い主がマリアの「身に宿る」、しかも神の業、聖霊の力でその「身に興る」。必然性のない人物に、「身に覚え」のない出来事が向こうから飛び込んできて「身に受け」てしまう。それはまさに、クリスマスという出来事が、マリアにだけ起こった出来事、マリアにだけしか起こらない出来事なのではなく、私たち一人ひとりにもまた引き起こされる出来事でもあることを示しています。「救い主を身に受ける。」私たちはみなこの出来事をそれぞれが「身をもって」体験させられていくのでもあります。

 突然、大きな病気や思わぬ痛み、辛い事実を背負わされてしまうことがあります。背負わされしまった方々が具体的におられます。そうした方々はすぐにおわかりになることでしょう。聞いて知っていたことと身に受けることは全然違うのだということを。
 その痛みが神さまがお与えになったものと直列で申し上げるつもりはありません。しかしどうにも理解できないことに悶絶するときに私たちはどうしても「神さまなぜですか」と叫びますから、その叫びの先に神さまはいらっしゃるのですから。やはり神さまの出来事として私たちは苦しんでいるわけです。そして、自分の理解を超えた事実を身に受けてしまうこと、それは簡単なことではありません。「身をさらされ」、「身が震え」、「身につまされ」ながらそれに向き合わねばなりません。しかしだからこそ、そこで思いめぐらせた何か、そこで感じ取った何かがその人の「身につく」のですし、神さまの御心が「身に染み」、「身に余る」喜びとして受けとめられていきます。そして、ひるがえって神の救いの御業に向けて「身を起こし」、「身を開いて」その業に従う人生へと向けられていくことが起こると思います。身に受けることで身が開かれるのです。
 マリアはいま救い主を身に受ける出来事に、私たちの内のひとりとして遭遇しているのです。ですから、受胎告知の物語を、「マリアの物語」としてでなく、わたしの「身の上」として受けとめようとすること、つまり「こんなものいらないです」と叫びたくなるものをいま背負っていること、それを通して、それをひきづりながら、何だろう、なぜだろうと苦悩し、思い巡らせる、それがその人のアドベントでありクリスマスなのでもあります。なぜならクリスマスは人間の具体的な痛みと関係があるからです。なぜならクリスマスは苦悩の中に優しさが宿り、暗闇の中に光と勇気が宿った物語なのですから。
 そういう意味では「新コロナなのにクリスマス? 」ではなく、「新コロナだからこそクリスマス」なのです。いま私たちが身をもって感じている不安や恐怖、今回の事でこの社会が身をさらけ出してしまった暗闇、それらが照らされているのです。それらの中にイエスと名づけられるべき命が新たに生まれているのです。

 さてマリアがこの日、御使いガブリエルから聞かされた言葉の中には、三つの道に向けてあなたの身を開くようにとの招きが響いているように思います。
 それは、第一に「神さまに向けてあなたを開きなさい」ということであり、第二に「世界や隣人に向けてあなたを開きなさい」ということであり、第三に「未来(約束)に向けてあなたを開きなさい」ということだと思います。
「神があなたを恵み、あなたを用いる。あなたは身籠もって男の子を産む。彼はこの世の人々を救い、永遠にこの世界を治めるのだ」と言うのです(これがガブリエルの御告げの内容です)。神と世と永遠へのまなざしです。神と隣人と未来に置き換えても良いでしょう。マリアがもし神の御心を身に受けたならば、それは同時に、救い主の生命がもたらすこの三つの道に身を開かせられていくことを意味しています。そしてこの三つの道に自らの身を委ね、身を開くとき、私たちの人生には、大切な賜物が授けられてくるのです。
 すなわち、
1.人は、自らを神さまに開くときに「信仰」が生まれます。
2.人は、自らをこの世界や隣人に開くときに「愛」が生まれるのです。痛みを理解する優しさとしての愛が生まれます。
3.人は、自らを未来に向けて開くときに「希望」が生まれるのです。暗闇の中を顔をあげて生きていく勇気という希望が授けられるのです。

 聖書が、生命と人生にとって最も大切だと語る「信仰・希望・愛」は、自分を開いて行く中で授けられ備えられるものです。自分の力で身につけよう、と、自分にこだわり自分を閉ざしているときには信仰と愛と希望がいっこうに生まれてこない。優しくなれないし勇気も湧いてこない。そうしたものです。そうではなく、身を開くことです。神に向かって、隣人に向かって、未来の約束に向かって、身を開くことです。どうやって身を開くのか。身を開くとは、救い主イエス・キリストを身に受けることと同時的に、この身に引き起こされることなのです。救い主イエスさまの命を身に受けようとしないと、私たちは、どんなに自分を開こうとしても、開かれた生き方をしようとしても、どこかで「自分が」「自分に」「自分を」ということが抜けないです。
「神さまが、名もない私を捉えてくださった。ふさわしくない私を用いてくださろうとしている。家畜小屋に生まれたもうキリストは、この私の身に生まれてくださるのだ。私が受けとめよう。感謝して、私がこの救い主の飼い葉桶にさせていただこう。」
 そのように、キリストを身に受けるとき、そして身を差し出すときに、私たちは信仰と愛と希望とに開かれ始めているのです。身に受けるとき身は開かれるのです。身に受けようとしなければ、身は開かないのです。

 自らを神に開いて信仰が生まれ
 自らを隣人に開いて愛が生まれ
 自らを未来に開いて希望が生まれる
 優しくあれ、そして勇気をもて
 このような私こそが
 このような時だからこそ

 今朝はマリアの最後のことばを私たちの言葉として心に刻みたいと思います。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」
    




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