公共性の視座 ローマの信徒への手紙8章18-25節

投稿日時 2021-01-01 08:59:39 | カテゴリ: 週報巻頭言

 新年明けましておめでとうございます。まずは、この一年のみなさま方のご健康をお祈りしますと共に、こうした不透明な時代、先が見渡せない状態の中にあって、お一人おひとりになおも優しい気持ちと勇気とが宿されてまいりますようにお祈りします。また、この世界、この社会にキリストの平和が染みだし、染み渡りますようにと祈りたいと思います。
 新コロナウィルスの感染拡大の最中に、年末年始を跨いでしまうというこれまで経験したことのない年越しとなりました。多くの人々が、せめてお正月は集まって過ごすための帰省を断念し、別々に過ごすことを余儀なくされています。
 昨年、コロナショックによって、深刻なダメージを受けた方々がたくさんいらっしゃいました。職業にまつわるダメージ、経済上のダメージ、運営・活動に関するダメージ、将来設計・人生を打ちのめしたダメージ、愛する家族を失うなどの悲しすぎるダメージ。そして多くの人々が、そのダメージを引きずりながら、痛みながら、疲れながら、その上なおも不安を抱えて元旦を迎えています。
 新年の計を、新年の抱負を、元旦に。新しい年の朝・元旦、その元旦には一年の計、人生の計を立てる。そういう屹立とした姿、爽やかな空気感が元旦にはふさわしい、ずっとそう考えて来ましたが、いま痛みながら、不安にさいなまれながら、「いったい去年は自分に何が起こってしまったのか、と・・・その怒濤のように押し寄せた禍(コロナ禍と表現されました)、これは自然災害のように、人間の防衛、抵抗の速度をあっという間に呑み込んでしまった災害のようなものですが・・・、いったい自分に何が起こってしまったのか、そして昨年起こったことは、これからの自分にさらに何を引き起こしてしまうのか。この思いに捕らわれてしまわざるを得ない元旦となっているのではないでしょうか。
 こうした人々が痛みを抱えており、また不安のまっただ中にあるという元旦に、私たちが礼拝を捧げる以上、私たちの心もまた痛みと不安を伴いながら、それらを携えながら、そう共感する力と悩みの中に沈み込む姿勢を捧げ物として礼拝していたいと思います。

 先ほど、自然災害のことをちらっと触れました。これは「天災か、それとも人災か」などと語ることがあります。人間の仕業による災害ではなく、人知の及ばない災害について、人間はそれを「天災」と呼び、またそれに続いて神を引き合いに出すことがあります。ひいては、「これは神の裁き」「神の与えた罰である」などと語られることが往々にしてあります。そして、今回のコロナウィルスパンデミックにつきましても、ただちに旧約聖書の感染症の取り扱いに理解を飛ばしていく潮流もキリスト教会の中に見られなかったわけではありません。私は一足飛びに「それは人間の罪に対する神の裁きだ」という風に聖書から裁断していくことに賛成はできません。ただし、「天災だ、神の裁きだ」「いや、そんなことがあるものか、そうな冷徹な神ならいらない」「そもそも神などいない」と極端な議論からは、もちろんしっかりと距離を取らねばならないのですが、しかし、こうした不条理な事態の中にあっては、人間のこの世界でのそれまでの生き方、人間の歴史の歩き方を思い巡らせ、きちんと検証し、反省の中に黙想することを止めてしまってもならないと思います。
 霊長類研究の世界的な学者であられ、京都大学の総長の山極寿一さんは次のように指摘しています。
「人間社会による乱開発によって、たとえばコロナウイルスの元来の宿主と言われたコウモリをはじめ、棲み分けられて相互に接触することの無かった動物同士が、餌場を求めて互いの生息範囲を侵犯し合う結果となり、それによって以前にはあり得なかったウイルス感染が増加するようになった」そうおっしゃっています。そして、それは今回のコロナだけのことではなく、これまでのさまざまな感染症パンデミックにも通じるのです。
 人間が神の被造物としての生態系を壊しながら自然開発を進め、快適と便利を追求する過剰な物質文明を造り上げてしまったことが、有害なウイルスが登場し、人間世界に襲いかかることになってしまった背景には、あるのではないのか。そうしたことに深い反省を向けていかねばならないと思います。慚愧に堪えないことですが、10年前にの福島第一原発の原子炉メルトダウンと莫大な放射能汚染は、やがて未来のこの世界の災難の背景となっていくのだと思います。すなわち、今日の苦しみの背景にはこれまでの人間の生き方があり、今日を生きる人間のありさまが未来の苦しみの背景となってしまうのだ、ということです。歴史には、嬉しくも悲しくもそうしたつながりがあります。ですから私たちは歴史に学びながら生きなければならないのです。私たちが今日聖書を読むのは、今日の自分のために聖書を読んでいるたけでは決して無く、未来のために聖書を読んで、自問自答をし、今日の自分を作り直させられていきことを通して、未来の良き備えとさせられているのだと言うことなのです。しかも今日、自分が作り直されるのは、未来の誰かに繋がることなのかもしれないと言うことです。そのような観点を支えられていくために、今日も私たちは、この被造世界とすべての命を創造された神の想いを黙想し、人間の愚かさに感じ入り、悔い改めを続けて行かねばならないのだと思うのです。

 さて、本日は「公共性の視座」という少々堅い宣教題でお話をさせていただいています。昨年、宣教研究所の朴思郁所長から、「公共性の神学」を紹介され、たいへん示唆を与えられ、この間、コロナパンデミックの中で思い巡らせておりました。
 私は、市川八幡教会に着任して、この教会の持つ良い持ち味について考えてまいりましたが、その一つが「公共性の豊かな教会である」ということです。
 教会メンバーとそうでないものに、分断をもたらすほどの差異がつくられていないこと。 まだまだジェンダラスな部分は残っていますが、性役割の固定、これは男性がやる奉仕、これは女性がやる奉仕というようなジェンダラスなことが比較的乗り越えられていること。
 地域NPO・ガンバの会の働きと教会とがなんとなく着かず離れず、同心円にまとめられず、こちらの楕円とあちらの楕円がどこか重なり合いながら、支援しあっていること。 「隔ての壁を除く群れへ」という永年のテーマはそれなりに血となり肉となっているのではないか、と感じます。これらは、いわゆる「公共性」を持とうとする場にとっての大切な要素です。
 私たちは、公共の場というと、市役所とか図書館とか文化センターとかを思い浮かべます。そして「教会はむしろ公共の場というより、宗教法人というものは政教分離なんだから公共性などは教会のテーマではない、と思い込んだり、「公的なもの」というよりは、極めて信徒達にとっての私的空間で合って良いのでは無いかと感じてしまうかもしれないのですが、そもそも教会には、全ての人々にとっての公共性を身につけるようにと、本来、神さまから託されているのではないかと思うのです。教会は、公共性を身につけていくことを自らへの課題、神さまからの宿題とすべきだと言えます。とはいえ、それは自民党改憲草案が言うような「国家の利益を損なわない限りにおいて人権を保障すべきだ」というようなことを言おうとしているのではありません。そういうのは、決して公共性ではない。
 わたしは聖書の神さまが自ら現している公共性に、教会は立ち返るべきであるという意味です。
 ハンナ・アーレントは「公共性」のことを「万人によつて見られ、開かれ、可能な限り最も広く公示されている現れ」と「私たち全てに共通する世界」という二つの意味で説明しています。
 先ほど、被造物世界の話をしましたが、考えてみれば、神さまはこの世界をキリスト者とかのある特定の人々のためにお造りになったのではありません。神さまは万人に見られ、開かれ、万人を祝福する命の営みの場としてこの世界をお造りになりました。これは、全ての事柄の出発点として神が備えてくれた公共の場、神の公共性です。海と水と空と陸と森と全ての生命が繋がって循環している。それが神のおつくりになった公共性と永続性の秩序です。それに対して、この神の公共性を人間が否定し、他の生物にとって閉め出された場にしているというのが、人間の脱公共性、私物化の実体だと言えます。
 こうした循環と永続的な相互関係という、神さまの創造の基本的な姿を大切にし、したがって「この世界に私的領域などはないのだ」という基本思想を持って、私たちは、このコロナパンデミックの中で、つまり人間のつくった国境線とか領土とか国籍とか、そういうものをあっという間に乗り越えて広がるウイルス感染というものに、公共的に向かい合わねばならないと思います。公共性をもって悩み、公共性をもって反省し、公共性をもって協力する視点が大切になります。
 もう一つ、聖書が決定的に証している公共性のシンボルは、主イエスです。神の公共性の御心を曲げて理解し、ユダヤ的に私的領域の柵をつくったり、ローマ的私物化の暴力を覆い被せたり、宗教的な罪人をつくりだしては蔑んで排除したり、そうした隔ての壁にどうにもがまんならずに、いつもそれらの壁を跨いで行き巡り、向こう岸にわたったり戻ってきたり、誰とでも食卓を共にし、パンを裂き、汚れた手のまま一緒に食べ、交わりをつないでいったナザレのイエスの姿に、公共性の視座があります。それこそが、教会が倣うべき、視座を置くべき公共性であります。こぼれ落ちる人々を招く公共の食卓を形成する。性の如何にかかわらず、いっしょに働き、いっしょに食べ、いっしょに神を賛美する。コロナパンデミックの中で、私たちが誰といっしょにコロナを悩み、コロナを乗り越えていくのか、このイエスの公共性から教会の祈りをつくっていきたいと思うのです。
 先ほど、自民党改憲草案にちょっと触れましたけれど、「公」をほとんど国家の秩序・国家の利益という風にあの人々は考えているわけです。そういう人たちは、公とか公共というテーマで話していると、いつのまにか「日本国」という話になっている。今回、どの国をもコロナウイルスパンデミックが襲いましたが、私たちは、注意深く目をこらしていなければなりません。いま、その国の政治の本質を理解するために必要なまなざしがある。それは何か。「弱者に対してその国がどのような態度を取るか、取ったのか」というまなざしです。
 ハンナ・アーレントのいう「私たち全てに共通する世界」というのは、イエスがあらわした、痛みが癒やされる世界であり、弱い人から順々に支えられる世界であり、食べ物が分かち合われる世界であり、朝早く雇われたものも夕方遅くに雇われたものも満たされる世界であり、罪人が赦される世界であり、誰もが新しく立ち直れる世界です。男性に通用する世界が同時に女性に通用するような世界であり、男と女に通用する世界は性的マイノリティーに通用する世界でなくちゃならない。健常者に通用する世界が障害者にも通用するようでなくちゃならない。大人に通用しながら子どもに通用しなければならない。日本人に通用する世界が同時に外国人に通用しなければならない。理想を言うならそういうことです。それがアーレントの定義する「私たち全てに共通する世界」としての公共、公共性です。それは高齢者に優しい社会は当然若者にも優しく、障害者が暮らしやすい社会は健常者が暮らしやすいのであり、病気の人が慰められる社会は健康な人が励まされる世界なのです。イエスが、飼い葉桶で生まれ、旅空を歩み、貧しい人々を訪ね、倒れる人々を立ち起こし、求めている人々の真ん中で祝福し、十字架の道を歩まれた。このことこそが人間世界が、実に「全ての人に共通する世界」の方向性と有益な方法を示してくださっていると思います。「この人を見よ」、このイエスの生にこそ、「全ての人に共通する」慰めの姿があり、励ましの姿があり、つながりの糸口があり、平和の礎があります。

 新コロナパンデミックという経験が、私たち市川八幡教会に何を学ばせてくれるでしょうか。私たちの何を砕いてくれるでしょうか。私たちに何を授けてくれるでしょうか。
9ヶ月間の苦闘、これからもしばらく続く悩みの中から、何が生み出るでしょうか。皆さまと共に明瞭にし、確認していければ幸いです。
 本年もどうぞよろしくお願い致します。
                              




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