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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The
Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2020-05-24 09:42:29 (11 ヒット)
週報巻頭言

◇今日のテキストには、「初代教会が、こんなに一つ思いになって集まり、持ち物を共有しあい、必要を満たしあい、過不足なく生きていたこと」という実に素晴らしい奇跡的な様子が報告されているのですが、このことを、ただ単に、人間的な思いやりの問題や、人々が受けた感動の強さの問題にしてしまうのでなく、「主イエスの御名によって生きる」と決断した人々の「信仰の問題」の事柄として受け止めていくべきであり、その人間の決断と信仰に対して聖霊が引き起こしてくださった出来事として理解していくべきではないでしょうか。
 さて、キリスト者の生をキリスト者の生たらしめるものは何でしょうか?
 キリスト者の行為をキリスト者の行為たらしめるものは何だとお思いになりますか?
 そこに何かキリスト者らしい特徴とか、キリスト者のスタイルというものがあるのでしょうか。私が考えるに、そこにあるものがあるとすれば、「主イエスの御名によって」生きる、「主イエスの御名によって為す」という、その一言につきるのではないでしょうか。「イエスの御名によって為す」ときに、その行為はキリスト者の行為となっていくのではないでしょうか。
「嬉しいことがあったから立ち上がる。楽しい場所だから集まる。好きだからやる。とても有意義なことだと思えるから参加する。たいへんためになるから学ぶ。理に適っていると思うから了解・承認する。自分に責任があるから担う。自分がそれをやる経緯や道理がたしかにあるからやる。」
 こういうことが行動の動機であるのならば、キリスト者でなくても、世の中の誰もがやっていることだと思います。けれども、キリスト者の違いがあるのだとすれば、「イエスの御名によって」生きる、そこに芯のようなものを持っている、ということだと思います。 ですから、あえてひっくり返して言うならば、私たちは「主イエスの御名によって」楽しくなくても集まり、「主の御名によって」嫌なことを引き受ける。自分の思いとは違うことでも「イエスの御名によって」苦悩しつつ受け止めることもあるのです。自分に害をもたらすもののために、祈ることさえするわけです。こうしたことは、普通の自然な感情で起こることではありませんし、人間的な優しさとか、よく練られた人間性のやわらかさの問題ではないと思います。
 私たちが、祈りの最後に必ず「主イエスの御名によって、アーメン」と祈るのは、あらゆる人間的な動機や感情を、最後にいったん手放して、ただ主の御心の成就=わたしの思いや動機からでは無く、主イエスさまの思いや心と重なり、恵みとして事が成りますように、と委ねていくこと、それが祈りというキリスト者の基本姿勢・基本言語だからです。

◇先週は、美しの門に、座り込み続けていた生まれつき足の不自由な人を、ペトロとヨハネがじっと見て、「わたしには金銀はないがあるものをあげよう。ナザレ人イエスの名によって立ち上がり、歩きなさい」と呼びかけたテキストを読みました。あの「イエスの名によって歩け」という言葉は、ペトロ自身の新しい生き方を支えていた確信でした。ペトロは、かつて自分の中にあった自信も誇りもすべてが十字架で砕け散った男です。イエスを誤解し、ただ利用し、ついには裏切る人間であるという弱さ(ペトロはそれを罪と理解したと思いますが)、その罪性がむき出しになってしまったところで、十字架の主イエスのまなざしに赦され、イエスの十字架の死によってまるで自分の裁きをとって代わられ、そしてイエスの復活の命によって、助け起こされ、力を吹き込まれたのでした。
 だから、もう、この「イエスの御名」以外に自分を支えるものはないし、自分の人生を預ける場もない。事実金銀はないし、実際に生きていくとほんとうに金銀ではないのだ。人は「イエスの名によって立ち上がる」のだし、「イエスの名によって歩く」のだし、「イエスの名によって生きる」のだ。不思議に生き生きと生きることができるのだ。これこそが、新しくさせられたペトロのメッセージでした。また、彼と共に新しく歩み始めた仲間たちの実感の中核にあったものだと思います。弟子たちの内、誰一人として、人間の優しさや人間生の柔軟さ、ヒューマニズムの素晴らしさなどを、語れる資格のある者はいなかった。ただただ、人間はどこまでいっても汚く、罪深く、どんなに美しく装っても自分の欲望に満ちている悲しい存在だと、彼らは知っていたのです。しかし同時にまた、そのすべてを赦し、清め、新しい命に創り直す「イエス・キリストの御業」を味わいました。イエスの十字架と復活、そこですべてが変えられました。だから、一切のことは「イエスの御名によって」おこなう。もう、この信仰に生きていたのだと思います。
「イエスはよみがえられた」と証しをしながら歩み始めますと、とたんに人々から訊かれました。問われました。「いったい、おまえたちは誰の名によってそんなことを語っているのか。アブラハムの神の名か、ローマ皇帝の名か、それともオリュンポスの神々の名か」。その時彼らははっきりと心に彫り込んだのです。「いいえ、誰の名によってと訊かれるのならば、ナザレ人イエス・キリストの名によってです。そうです。ナザレのイエスがキリストなのです。あの方の名前です。」そのようにして初代の人々は、自分たちを「イエスの名によって生きる者」と名付けていったのでした。
 初代の共同体が不思議で奇跡的な姿をしていた人々は、奇特な人々たちというのではなく、「イエスの御名」の嬉しさと出会った人々が、「イエスの御名によって」という信仰によって、(嫌いな者も、いろいろと過去の因縁のある人も、お互いの罪と裏切りを知り合う者同士が)集まって一つとなっていたのです。

◇しかし、その初代の群れの様子を報告する記事に続いて記されているアナニアとサフィラの事件、この報告は、かなりどきっとする事件です。それまでの素敵で奇跡的な描写に水をかけるような場面ではないでしょうか。私は、この箇所もまた「主の名によって集まる初代教会の姿を立証しようとする記録」として読みたいと思います。
 誰だって、自分の全部を教会(共同体)に持ってくるなんてことはしないし、できません。そして、よく読むと、この事件の経緯は、献金額の多い少ないのテーマではないのです。持ち物を全部手放すかどうかでもない。献げたものは、その時から全て皆の共有物となったのですけれども、「信じたものは、もはや私有財産をすべてを売り払わねばならなかった」などということもありません。ペトロが5:4で言うように、「自分の所有物を売るも売らぬも自由」ですし、「売った中から、いくらを教会のために捧げようと自由」なのです。イエスの御名のために自分にできるだけを献げ、またイエスの御名によって自分たちの分を残しておくことも許されました。しかし、アナニアとサフィラは、「教会・エクレーシアのために」にと売ったはずの代金をごまかしました。そして「ごまかしの宝」を「イエスの御名のために」と持ってきたのでした。そう考えると、この事件の問題点は、「イエスの御名」以外のものを教会に持ち込もうとした問題ではないでしょうか。キリストの交わりの場には、「イエスの御名によって」という「心」以外のものが持ち寄られてはいけないし、それは、神の聖霊によって除かれていき、用いられないのだということかもしれません。
 教会は、イエスの御名によって持ち寄られたものによって生きていきます。それ以外のものは、たとえ何億円という金銀がそこにあっても、用いられないのかもしれません。教会は、イエスの御名によって受け入れ、受け入れられたものによって集まりとなっています。それ以外の集まり方なら、たとえ何百人集まったとしても、教会ではないのです。
 教会は、イエスの御名によって喜びを証ししあいます。と同時に、教会は、イエスの御名によって、人生の苦しみをわかちあうのです。人間の喜びの交わりも、人間の苦しみの分かち合いも、お互いの関係の深さのためではなく、イエスの御名があがめられるためです。

◇キリスト者は、愛せる人間になることではなく、愛する決意をすることです。そもそも愛とは、愛せるという感情ではなく、愛するという意志なのですから。キリスト者は、赦せる人間になることではなく、赦すことです。そもそも赦しとは、赦せるという感情ではなく、赦すという意志なのですから。(「○○な人になる」ことではないのです。)
 もちろん、なかなか簡単では無い厳しいことですが、しかし、少なくとも、イエス・キリストは、この愛と赦しを私のためにしてくださいました。主イエスはほんとうに厳しい荊の道を選んで、私への愛と赦しを決断してくださった。それは、単にわたしを大好きだったという彼イエスの感情ではない。もはや、私がイエスをたとえ裏切る者であっても、神をいつも天秤にかけるずるい人間であっても、イエスは、そして神は、わたしを捨てられない。滅ぼさない、わたしを愛し赦すと決断された、苦悩の愛で私をまるまる漁ってくださったのです。
 ですから、この人の名によって生きてみるのです。私が、ではなく主イエスの名によって、というところから。受け入れられる人間になることではなく、受け入れる。決して優しい人になるということでもない。わたしという人間が大きいか小さいか、そんなことではありません。わたしたちの人間性などはどうでもいい。ただ、イエスの御名によって赦された罪人として、イエスの御名によって、すべてを為す、そこに向かっていくことだと思います。
 わたしたち市川八幡教会は、ほんとうに豊かな交わりです。わたしたちは、よく支え合い、よく捧げあって生きてきました。よく交わり、よく気遣いあっています。わたしたちは、互いに、温かく、楽しく、賢く、賜物豊かで、素敵です。誰も、この群れ、この交わりが、壊れることを望んでいません。わたしたちは常に、一緒に歩んでいきたいと願っています。その時に、わたしたち祈るのです。
「イエスの御名によって、わたしたちを一つにしてください。」と。    了


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2020-05-17 09:07:45 (19 ヒット)
週報巻頭言

◇エルサレムに、生まれながらにして足の不自由な男がいました。家族親戚の者たちは、 彼を毎日人通りの多いエルサレム神殿の参道に置きに来ました。そして、物乞いをさせま した。言うなれば、彼もそれなりに「稼ぎ手」なのです。というより、ただ寝ていること を許されなかったのだろうと思います。そんな男をいつも目にしていたエルサレムの住人 たちは、もうほとんど彼に見向きもしなかったでしょうが、初めてエルサレムに巡礼に訪 れた人々などは、気の毒に思って金をめぐんでいたのでしょう。一瞬の同情心、あるいは 憐憫の思い、その反面、なんとなく感じとしまう負い目の気持ちとを、金をめぐむことに よって荷を下ろすようにやり過ごす。そのように、この両者の間に「金銭」という割り切 るための道具が挟み込まれているのです。声を掛ける代わりに、金で済ます。語り合う代 わりに、金で済ます。知り合いになる代わりに、金で済ます。独特のディスタンス(無関 係であるための関係)。日々、そのディスタンスに実を置かれることを通して、この座り 込んだ男は、茶碗に金が投げ込まれる音を聞く「幸福」(しあわせ)を、魂に刷り込まれ続 けていたのではなかったでしょうか。それが自分なのだ、と。 日々、多くの人々が彼のことを見ています。目にしています。でも、彼を「見つめる」 人はいなかったのです。人々の往来の中に置かれていながら、人間の関わりは遮断されて いる。そういう関係、そういう存在なのです。 ここには、「人間の孤独」というテーマが横たわっており、また日々の習慣や習性の中 で真の自分を見失っていく「自己喪失」の問題が潜んでおり、そして人間と人間の関係の 間に金銀・金銭が介入し、人間のつながりを実態のないものにしてしまう「関係阻害」の 実相が如実に示されていると思います。こうした人間同士の「無縁性」の問題は、地域社 会が崩壊し、格差によって人間が分断されている今日の日本社会にとって、「無縁社会」 とさえ呼ぶことのできる今日の日本社会のにあって、かなり身近で、つまりかなりの人に とって(足が不自由かどうかは別として)身近な問題であり、深刻な問題であるといえるの ではないでしょうか。 ◇さて、その日、ペトロとヨハネが神殿で祈ろうとしてやって来て、この人のそばを通り かかります。この男は、いつも、どの通行人に対してもするように施しを乞いました。 「数 打ちゃ当たる」ではありませんが、うまくいけばそのあと「チャリーン」という音が返っ てくることを期待しました。しかし思ってもみなかったことでしたが、返ってきたのは呼 び掛けの声でした。「わたしたちを見なさい」。驚いて顔を上げますと、その二人が自分 をじっと見つめています。「いったい何がもらえるのだろうか」。すると一人の男がこう 言ったのです。 「あいにくわたしには金銀はないのだ。しかし、持っているものをあなたにさしあげよう。 ナザレ人イエス・キリストの名だ。彼の力を帯びて、さあ立ち上がり、歩いていきなさい。」 呆気に取られました。思いもかけない言葉、思いもしない関わりがぶつかってきました。 見つめられているではありませんか。呼び掛けられているではありませんか。そんなこと、初めてだったのです。
◇募金、カンパ、支援金。多くの活動は、そうした人々の志や協力によって確かに成り立っています。
状況を改善、打破していくためのプログラムや運動についての資金的な参加ですから、われわれ市民が
参加する活動を展開するための有効な方法でもあろうと思います。しかし匿名性をも持つそのような行
為の中には、他方で、お金を届けることでそれ以上の関わりを免罪させていただく、という、ある意味
では「無縁性の継続」「無縁性の連続」もはらんでいくことも事実であります。「せめてできることをさ
せていただきます」という思いと、「これ以上の関わりは申し訳ないです」という両方のことはどうして
も人々の中に起こってしまいます。あるいは「格差社会の構造の問題として問題はよくわかりますが、
具体的な一人に対して具体的な私一人ではどうすることもできないのです」という感想も、まさにそう
なのかもしれません。支援すること、カンパすること、そこにはそうしたジレンマをも含まれているこ
とを(この際)心に留めておきたいと思います。 ◇そうした複雑な社会構造の問題をかなり剥ぎ取り、直裁な姿で「人間の関係」を見つめ 直させてくれるのが、ペトロとヨハネとこの男性の出会いの出来事だと思います。 この男は、常に、「施しの金をいただきます。しかし、それ以上の『ご縁』をどなたさ まからも受けようとはいたしません」という孤独の枠の中に閉じこめられて生きていたの です。そんな彼の中に、いままで聴いたことの無い言葉が飛び込んでくるのです。「私た ちを見なさい」という言葉です。「えっ」と聞き直したくなる言葉だったと思うのです。 そして彼が顔を上げたとき、その声の主がすでに自分をじっと見ていたのでした。 ペトロは、この男のことをじっと見つめました。彼を知っていこうとしたのですね。そ して彼と生きていこうとしたのですね。彼を生かすことに関わりたいと思ったのですね。 ですから、「わたしたちを見なさい」と言うのです。自分も彼を見つめながら。 すぐさまに、ペテロは言います。「わたしには金貨や銀貨はない。けれども私たちにあ るものをあなたにあげよう。キリストであるナザレのイエスを身に受け、立ち上がり、歩 きなさい。」テキスト本文は、「キリストの名によって」と訳されています。これは、「こ のイエス・キリストという名前は奇跡を起こすための呪文だ」と言いたいのではありませ ん。ナザレのイエス、この人は、あなたを慈しむ。この方はあなたに語りかける。この方 はあなたを立ち起こさずにはいない。あなたに救い主であるナザレのイエスを知って欲し い。そう言っているのです。 「ナザレのイエスという方。この方は、あなたが抱えてきたような孤独、あなた自身がも しかしたら麻痺してしまっているかもしれない悲しみ、その深みにいつも突き進み、じっ と見て、その手で触れられて、心に届いて行かれて、悲しみや苦しみと共に闘って、そし てそれらの人々を立ち上がらせて行かれた。私たちはそんな人を知っている。その人は、 いま、ここに生きていて、いまあなたを愛おしみ、あなたに接近している。そうだ。彼が あなたに関わるので、そして彼の名をここで呼び合う私たちもあなたに関わりたいのだか ら、あなたはもはや誰とも無縁なものではない。キリストと共に生きよう、またナザレの イエスの名のもとで私たちとあなたは共に生きよう。」 ペトロとヨハネは、彼にそう呼び掛けたのです。そう呼び掛けて生きる人に、すでに変 えられてしまったのです。 「私にあるものはこれだ。私たちに残されたものはこれなのだ。主イエスからの断固とし た縁結びなのだ。十字架さえをも引き受けてくださった縁結び。その主イエスはよみがえり、私たちを引き離す力を打ち破り、どんな壁も突き抜けて、共にいてくださる。私には、 金銀はないし、また金貨や銀貨であなたとの関係を済ませてしまおうと思わない。ナザレ 人イエス様を身に受けて一緒に生きよう。」ペトロとヨハネが、この日この男に語りかけ た言葉にはそのようなメッセージがあったのです。 ◇人間が立ち上がる力は「やはりここにある」と信じたいのです。一昨日のガンバの会の パトロールで、コルトン前で出会った女性に鹿島さんが声をかけると「お金ならもらう。 お金以外はいらない」と言われたと、しょんぼりと話してくださいましたが、冷めすぎて しまった心がどのような言葉を表面的に語らせていたとしても、人間が立ち上がる力は「つ ながり」にあると信じていきたいと思います。 人が人から見つめられ、見つめ返す人ができる。人が人から必要とされ、「一緒に生き ていこう」と言ってもらえる。そういう繋がりがあるときに、人は立ち上がることができ るのであり、またそういうものが断たれてしまったところでは、人間は立ち上がることが できないのではないでしょうか。やはり、そうなのではないでしょうか。 長い間、この物乞いの男は、暗示にかかり、忘れてきただけなのです。本当に欲しかっ たものについて。彼は、ほんとうは小銭が欲しかったのではないのです。自分を見つめて くれるまなざし、愛されてみることで魂が動くこと、何より自分が生きてきたことの価値 を知らせてくれる祝福の言葉を何年も何年も待ち続けていたのではないでしょうか。 人間というものが立ちあがったり、起きあがったり、歩み始めたり、これは足の筋肉、 股関節やくるぶしの問題である以上に、魂の問題なのではないでしょうか。魂の問題は、 関係の問題。魂の問題は交わりの問題。きっとそうなのです。 でも、このような魂の交わりをすること。このような人を見つめて「一緒に生きよう」 と語り抜いていく力は、残念ながら、弱い私たちの中からは出てこないです。特に自分が へこたれているときには、自分のことだけで精一杯です。時々、へこたれてしまう自分で あることもみんな自覚しています。でも、ただ一人、主イエスさまは、私を見つめ続ける ことのために、ゲッセマネで杯を受け、ゴルゴタに歩まれ、十字架で死なれました。どの ような苦しみや悲しみの中にあるときにも、上からではなく、同じ場所からわたしを見つ めることができるために、彼が背負われた苦しみであり悲しみであったのです。その主イ エスの私へのまなざし、それだけでなく「私を見てご覧なさい」とおっしゃってくださる 呼び掛け。この言葉によって、私たちはまず自分自身立ち上がることができるものとされ ていきたいのです。 私たちは、この 1 〜 2 ヶ月の逼塞状況を見に受けて、人間の言葉、人間の行為(かかわ り)のあまりの無力さを思い知らされています。ばらばらにされ、閉じこめられながら、 何にもできない自分の弱さに直面させられています。でも、かろうじて、私が仲間たちに 届けることのできる言葉があるとしたならば、「イエスさまの名によって元気でいてくだ さいと祈ります」という言葉です。「インマヌエル、神共にいます、この名を持つイエス さまがどうかあなたと共にいてくださいますように」という挨拶です。そして、教会が何 もできていない時だけれど、私たちは「イエス・キリストの御名によって、私たちは結ば れています。」という信頼です。 私たちはいま改めて知らされています。主イエスの御名だけが、私たちに「ある」もの なのです。


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2020-05-10 09:28:11 (23 ヒット)
週報巻頭言

◇今年もまた召天者記念礼拝を迎えました。教会が歴史を重ね、時を刻んでいく、というのは、愛する家族や兄弟姉妹、共に信仰生活を育んだ仲間たちを天に送っていくという、この厳粛な事実を教会という共同体の中に引き受け、それを積み重ねていくことを意味しています。そのことを通して、教会は観念的にではなく、現実の悲しみ、別離の痛みを共に経験させられながら、だからこそ、また現実の慰めや交わりの深みを共に与えられ、「生ける者と死ねる者との神」を一緒に仰ぎ見る教会となっていくのです。これら「先に天に召された方々」の信仰と人生をいただきながら、私たちは共に「生ける者と死ねる者の神」と触れあい、教会が決して生ける者によってのみつくられている交わりではなく、天に召された者によってもまたつくられてきた群であることを知らされるのです。すなわち、教会は、「生ける者と死にて主に委ねられたる者」による教会なのであります。
 本日は、改めて「生ける者と死せる者との神」の前で一つの市川八幡教会であることをおぼえ、感謝をもって礼拝を捧げたいと思います。

◇ふつう「故郷」とか「ふるさと」と言うとき、私たちは過去の経験や場所のことを想いみるのです。しかし聖書は、「ふるさと」は未来にあると教えてくれます。私は、マイノリティ宣教センターにお関わりし、「エスニックマイノリティー」すなわち外国籍住民として日本社会に生きている方々と向かい合う機会を多く与えられています。それらの方々とお関わりする中で、いつもそれらの方々の深い悲しみとなっているのが祖国の問題・故郷への想いだと感じさせられています。また、ガンバの会が出会っていくホームレスの方々、元ホームレスの方々の深い喪失体験として「ふるさと喪失」「家族喪失」という問題があることも存じています。「ふるさと」「故郷」をめぐる想いは、人間にとってもとても大切なテーマであり、また人間の悲しみや痛みの要因の中には、ふるさととかアイデンティティーへの苦悩があるのだろうと感じさせられています。人間はそのように自らのルーツに想いをよせ、場所ないしは過去の経験としての「ふるさと」に想いを寄せ、場合によっては、その過去の経験と闘いながら生きることもあります。

◇「過去に目を閉じる者は現在が見えなくなる」と語ったのはドイツのヴァイツゼッカー元大統領でした。それは人間にとって大変重要な真理です。しかし、私はこの言葉を借りながらもう一つのことを聖書から聴き取りたいと思うのです。それは「将来に目を閉じる者は現在が見えなくなる」というもう一つの真理についてです。
 ヴァイツゼッカーさんが言うように過去と現在の関係について目を開かれることは大変重要なことです。それは歴史に学ぼうとする大切な姿勢です。しかし過去と現在の関係に目を開かれた人も、将来と現在の関係については極めて無関心であるという姿勢では不十分なのです。宗教、特にキリスト教が人間に問いかけているのは、「将来や未来と現在の関係に目を開かれよ」ということなのだと思います。過去をいろいろと問題視して因果・因縁をとかく扱う宗教がありますが、私は、宗教の大切な役割とは将来を語るものであって、未来を語らなくなった宗教はもはやその命が失われて行くに違いないと思うのです。 キリスト教信仰の核心の一つは、希望にあり、約束にあります。招詞の黙示録で聞きましたように、神はこの世界を新しく装ってくださる。苦しみも悲しみも痛みも、そこでは完全に癒され意味づけ直される。神さまのご支配のもとで「いのち」が扱われ、人間が苦しんできたあらゆる分裂や分断が和解させられていく。そういう結末、そういう完成の時がある。神がそのように約束してくださった。この包括的な救いの約束に聴きながら、生きるという生き方が「キリスト教的生」なのです。終末論的な生き方といいます。
 つまり、聖書が私たちに呼びかけてくれている人生の生き方や物事の捉え方は、「あなたのふるさとが未来にある」、そのような者として生きて行きなさいということです。

◇本日の聖書・ヘブライ人への手紙11章は、聖書の登場人物たちを「更にまさった故郷を求めて歩いた人々」だと言い表します。父祖アブラハムも神ヤーウェの召しだしを聞いて出発に出発を重ねた人でしたし、出エジプトを率いたモーセもそうです。「荒野の40年」という出エジプトの歴史の本質は、真にたどり着くべき「ふるさと」を未来に探し求めた旅にあります。出てきたところではなくて、更にまさった(もっと良い)ふるさとを探して進んでいくのです。アブラハムもモーセもそれを探したのです。そして聖書はこのような姿を信仰と呼んでいます。だからといって、その「真のふるさと」に生きていてたどりつくことができるかどうかはわからないのです。
 たとえば、モーセの場合、彼は結局「約束の地」に入っていくことは叶えられませんでした。しかし、モーセは、ヨルダン川の手前にあるビスガの頂に登って、約束の地を眺めた。そして約束の地を見て生きてきた自分を主に委ね、感謝してこの世の生を終えていきます。
 M.Lキング牧師。キング牧師といえば、あの歴史的なワシントン行進での演説が有名です。「わたしには夢がある。いつかジョージアの赤い丘で奴隷の子孫と奴隷所有者の子孫が同じテーブルにつくという夢が」という演説をしましたが、あのワシントン行進の前夜に行われたバプテスト教会の礼拝説教で「私は、既に山頂に登り、約束の地を見ました」と語っています。黒人差別は暗然としてアメリカ社会にはびこっており、またキング牧師への恐喝と暴行とはひっきりなしに続いていました。その中で語られる「既に山頂に登り、約束の地を見ました」という言葉は、まさにイエス・キリストがうち立ててくださる真実があるから、その未来の約束とそこに立つ真理を知っているので、あたかもそれで十分であるかのようにして、今をその真理によって生きようとした者の姿だったのではないでしょうか。
「I have a dream・私には夢がある」。それは、彼キング氏の個人的な夢なのではなく、神のみこころと神の真理の完成のことを語っているのであり、それこそがキング牧師のふるさとであり、虐げられている黒人たちも、虐げている白人たちも、やがて共に迎えられていくべき「ふるさと」であったのです。ふるさとは真の和解の場であるとも言えます。
 その「ふるさと」はまだ見ぬものでした。しかし、「信仰とは望んでいることを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」とあるように、見ていないものを「見たもの」として生きることであり、そして見えるものに目を奪われない生き方のことです。そして全ての事柄の背後に神を見、あるいは全ての事柄の先に(未来に)神を見ること、これが信仰だというのです。これが求めるべきふるさとであり、探すべきふるさとであり、進むべきふるさとなのです。
ふるさとは神の約束にあります。そして、アブラハムもモーセもまた例えばキング牧師も、未来に約束されているふるさとを求めることを通して、人生の頂にたってその約束を眺めることを通して、現在を見る眼に大きな変化を与えられた人々、今を生きる生き方に重大な変化をもたらされた人々であったのです。

◇本日、私たちが追悼する先達・先輩たちも、ふるさとを未来に探す信仰によって、生き方を変えられて行った人々だったのだと思います。
「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。」私たちがよく知る汽灰螢鵐13章は、私たちにとって永遠のものであり、人間を支え続ける大切な力が三つあることを教えています。これらは、人間の現在の在り方や生き方を変えてくれる力でもあるのです。
 信仰を持つことができないと、見えなくなる今のことがあります。信仰によって見えてくる今、信じることによって変えられる今があるのです。
 希望が見えなくなったときに、見えなくなる今のことがあります。希望によって見えてくる今、希望によって変えられてくる今があるのです。
 愛が冷えてしまうと、見えなくなる今のことがあります。愛によって見えてくる今、愛によって引き起こされる今があるのです。
 そして私たちは、この信仰と希望と愛を与えられていくためにイエス・キリストを仰ぎ見なければならないのです。イエス・キリストをよく見つめる時にのみ、信仰と希望と愛とは私たちの中に知らされ、宿らされていくのです。イエスのことば、イエスの業、イエス・キリストの愛と約束こそが、わたしたちの真のふるさとに関わりがあります。
 私たちは、いま・ここを生きているものです。しかし、いま・ここを生きる歩みの道は未来の故郷につながる道、未来からつながり込んでいる道なのです。
        


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2020-05-03 08:37:52 (28 ヒット)
週報巻頭言

(全文掲載)

 生前のイエスの、目に見える姿を共にしているとき、弟子たちは主イエスの圧倒的な存在感と導きにほとんど依存して歩んできました。それでいて、弟子たちはてんでばらばらで、自分の勝手な思いこみに囚われ、目に見える栄光に憧れて生きていました。そして挫折しました。自己破綻を来してしまったのでした。
 そんな、弟子たちがイエスの十字架と復活を経験します。十字架の出来事の直後は、自分たちのふがいなさと、思い違いの恐ろしさにさいなまれ、もう二度と外の世界を生きることができないのではないかとの絶望感を抱えて、部屋の中に引きこもっていた。そんな彼らの、墓穴のような重い扉・ぶ厚い壁を突き抜けて、復活のイエス様があらわれてくださり、もう一度、自分たちを励まし慰め、信頼して押し出してくださったのです。心の中に熱が満ち、炎が燃えるような経験をしたのでした。弟子たちは赦しと愛を知ったのです。
 人が赦しを知ること。人が愛を知ること。それに応えて生きる人生の喜びを知ること。イエスのよみがりは人にそのような新しさをもたらしてくださる。『使徒言行録』は、新しい生き方に招かれた弟子たちが、その実感を分かち合いながら、聖霊に導かれて歩んでいく物語です。「あるがまま」を受け入れてくださった主イエスに、その「あるがままから」従って生きていこうとする弟子たちの新しいステージが始まっていったのです。
 目に見えるイエスがいたのが最初のステージ。あのときは、お互いばらばらのまま、てんで勝手な思い込みのままイエスの後を歩んでいた。けれども、主イエスが目には見えなくなり、手に触れられなくなってからの第二ステージ。彼らはとうとうイエスが望んでおられた生き方へと姿勢を転換し、ベクトルを合わせることができました。そんな弟子たちの新しい様子を、今日は4つのポイントで分かち合いたいと思います。

1)8節には「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたはわたしの証人となる」というイエス様の遺された言葉があり、11節には「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか」という御使いたちの、背中を押すかのような言葉があります。
 弟子たちは、これからは「証人」として生きていく主体となったのでした。「自分が救われる」こと、「自分が祝福される」ことに思いを向けて終わるのではなく、主イエスこそが「私の、そしてあなたの」救い主であること、彼のもとに「私の、そしてあなたの」命の祝福があることを証言して生きること、そのことの証人となって生きること。このことに、新しい人生の使命があるのです。「天を見上げて立っている。」その御使いの言葉は、極めて象徴的です。神さまの力を仰ぎ、求めているのだけれども、自分自身の動きは起こせない。この世にありながら、自分の思いは空中をさまようばかり。神さまがこの世界を完成されるのはいつだろう、何をくださるのだろう、早く来ないかな、と受け身で待っている。そんな姿をとらえています。けれども、御使いたちは言うのです。「天を仰いで立っていないで、あなたたちは生きなさい、この世を歩んで行きなさい」と背中を押しています。人生にはそのような「ステージの転換」「顔の向きを変える場面の転換」があるのだということを使徒言行録は私たちに指し示してくれています。

2)第二の点は、そのステージ、顔を向ける世界は、かぎりなくこの世にひろがっていくのだ、ということです。
「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また地の果てに至るまで、わたしの証人となる」
 イエス様の福音、彼の命への祝福は、いつも超えていくのです。エルサレムのユダヤ人だけでなく、すべてのユダヤ人・そう罪人と呼ばれていた人々にも貧しい人々にも、そのキリストの命への祝福は注がれていく。当時のユダヤ人には考えられなかったことですが、犬猿の仲であったサマリヤの人々にも、そしてユダヤ人にはそもそも視野に映っていなかった異邦人にも、このイエス・キリストの命への祝福・救いの知らせは分かち合われていく。福音そのもの、愛そのものが、自らの力でそれを超えようとする。あなたがたは、世界に出て行くことになるし世界に繋がらなければならない。

3)三つ目のことは、新しいステージでは、私たちは共に生きるということです。
 生前、どこかイエスと自分のつながりに固執していたそれぞれの弟子たち。ペトロのように「わたしは裏切りません」と言ったり、ヤコブやヨハネのように「そのときは私をとりたててください」と言ったり、イスカリオテのユダのように自分の思い込みに固執し、そして絶望したように、「わたし」ということに強い気持ちが向いていた弟子たちが、「私たち」という共同体を作り始め、作り出していく。そこに大きな変化が起こされています。
 彼らは、十字架の前で共に挫折経験をし、けれどもふたたび共に復活体験をし、まさにイエスのからだと血を受け合う主の晩餐にあずかりながら、互いのためにこそ互いの弱さが必要で、互いの証が必要で、互いの支えが必要で、共に祈ることが必要であることを知っていったのです。
「だれでも二人、また三人がわたしの名によって祈るところにはわたしはいる」とイエスが語られましたように、一人ではだめなのです。共に生きる。その共に生きる関係を用いて、イエスは御業を働かされるのです。
 弟子たちは、最初から組織をつくろうと考えもしませんでした。けれども、共に生きる生き方を選びはじめたとたん、そこには共に生きようとする人々が加えられていきました。共同体が出来ていきました。奉仕者を立てるようになりました。そしてさらにキリストの証人として他の地域に伝道していくために派遣や支援の体制を組みました。他の地域とのネットワークが生まれました。行き来して連絡を取り合うようになりました。そのようにして、教会はつくられていったのでした。これが、弟子たちの新しいステージでした。

4)主イエス様が目に見えなくなったいま、初代のクリスチャンたちを支え、勇気づけ、導いたのは、祈りの力でした。
 イエス様の生前の約束どおり、弟子たちには聖霊が与えられました。聖霊は、目に見えません。手でつかめません。思い通りになりません。神さまの生きた働きとして、人間を動かし、出来事を引き起こし、歴史をつくります。この聖霊の導きを受けとめるために、弟子たちは祈るしかありませんでした。聖霊の導きを共に受けとめるために、共に祈らねばなりませんでした。
 共同体が形成されると、いろいろと必要が生じていきます。求めが起こってきます。しかし、それらの必要や求めが「神さまが御心にかなうこと」なのかどうかはわからないのです。動き出せば動き出すほど、私たちは心して、一緒に祈らなければならないのです。祈るとき、握りしめたものを手放さなければなりません。祈るとき、「動きたくとも立ち止まること」が示されるかもしれません。祈るとき、「立ち止まりたくても、進むように」と引っ張られるかもしれません。
 祈りは、神のビジョンを聴く場です。自分たちの計画、自分たちの願望ではありません。神のビジョンです。使徒言行録は、神の不思議なビジョンによって、思いもしない人が宣教者になったり、考えもしなかった地域に伝道していくような出来事が“わんさ”と報告されています。
 わたしたちがもし、「もうこれでいい。だいたいこれで満足」と思うとき、祈りはきっと中断されるでしょう。個人の求めは満たされても、共同体としての祈りは喪われるのです。そこで「証人たちの群れ」としての祈りは消えてしまう。そして共同体の祈りの無い人々のところに、「交わりをつくるために必要な出会いや出来事」は起こらなくなるでしょう。新しい共同経験が起こらない場所は、やがてばらばらになってしまうでしょう。
 初代教会のクリスチャンたちは、他者に、交わりにひらかれていく人々であったと言えます。私たちも、そうありたいのです。
 復活の証人として、この地、この時代を生きる。イエスの十字架と復活の出来事が、人間に起こしてくださる出来事は何か、それを自分の生きている場面で思い起こしていく。イエス・キリストの復活の力は、生き悩んでいる人々にどのような言葉を届けることができるのか。孤独な人々にどのような力なのか。それを探りながら祈り続ける。それが私たちに、この世に顔を向けて生きよ、と押し出されている「召し」であります。新型コロナ渦に社会が、そして人間が呑み込まれていこうとしている、この時代にあって、私たちは改めて召されています。閉ざされていこうとする現実の中で、離ればなれにさせられているこの時の中で、しかし聖霊は私たちを包み、ひらかれていく者としようとしてくださり、祈りによって結び目を再発見し、交わりを保ち、使命を探る道を備えてくださるのです。
 目で見え、手で触れた交わりの時に見えなかったものを、目の前に互いが見えなくなり、手で触れられなくなった今こそ、新たに気づき、受け取り直すことができるように、私たちは、より深い交わりへと招かれ、まだ見ぬ世界へとひらかれていこうとしているのです。 
「主の十字架を思い、主の復活をたたえ、主のみ国を待ち望み、主にあってわれらは生きる。」マラナ・タ 主のみ国が来ますように。
                           


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2020-04-26 09:10:18 (32 ヒット)
週報巻頭言

(全文掲載)

みなさま。おはようございます。世の中はいま「ステイホーム週間」なのだそうです。感染リスクを抑えていくためにお互い十分に注意をしながら過ごしたいものです。
ところで、ステイホームという言葉を聞くときとても大切と思われる視点を共に確認しておきたいと思います。
 私たち市川八幡教会はホームレス・困窮者支援ガンバの会のそもそもの運動母体となった教会であり、いまなお深いつながりをもって歩んでいます。ホームレス支援の働きを続ける中で考えさせられたことは、まさしくこのホームレスという概念についてでありました。それは決してハウスレスではない。住む家が無い、住むためのお金が無いというだけの問題ではなく、人と人とのつながりや絆としてのホームが無い。私たちがそうしたホームレスの方々に届けていくのはアパートなのではなく、つながりなのだ。ということへの気づきだったと思います。ホームとはつながりや絆のことである、と。
 そう考える時、いま推奨されているステイホームについても、単にステイハウス、ステイルームという意味だけでは無い、つながりを忘れないで、ということを十分に考えて過ごしたいと思います。礼拝に来られた方も、いまここに来ることを控えておられる方々も、つながり続けるホームを共に心に留めたいと思います。 

 さて、私は、昨年5月、この教会の牧師に着任する直前に、スイスのチューリッヒ、ベルン、バーゼルなどを訪ねる機会をいただきました。日本とドイツとスイスの教会代表者による協議会が開催されたからです。集まった代表者たちは、そのほとんどがルーテル教会と改革派教会の牧師や神学者たちでした。ちなみに、ルーテル教会はドイツの、改革派教会はスイスの「国教会」であり、国民から徴収する宗教税(所得の9%)によって運営されている国営の教会で、それらの教会では、教会のディアコニア(社会奉仕)部門がたいへん盛ん(盛ん、というより行政の働きを請け負っている)なのですが、今回は「教会のディアコニア性、その実際と課題」とをテーマとする協議会でした。そのような中、ただ一人、私だけがバプテスト派の人間でした。ところで、この協議会の準備段階の中で、日本からの派遣代表者の中に「バプテスト」が混じっていることが少々話題となったようです。それは、こういうことでした。
 折しも、チューリッヒは「宗教改革500年」に沸き返っていました。改革指導者ツヴィングリの映画がつくられ、また彼の肖像を刻んだ貨幣や記念切手も発行されています。そのような宗教改革の熱狂のさなか、水をさすようなことですが、ある歴史的な出来事が想起されてしまいました。それは500年前のあの時代に、宗教改革の拠点となったグロスミュンスター聖堂の下を流れるリマット川で、改革派の指導者たちが、再洗礼派(バプテストの先祖)の人々を籠に閉じ込め川に沈めて殺害した、という歴史的事実のことです。当時、「異端」と断罪された人々は「火あぶり刑」で殺されるのですが、全身を水に浸めて再洗礼をしていたバプテストたちは「浸められて本望だろう」と溺死させられていきました。
 さて、今回問題となった点は、「『宗教改革』を記念する企画として『教会のディアコニア性』の課題や可能性を考えよう」という趣旨で開催される今回の協議会を、バプテストからの参加者がいるにも関わらず、あの迫害事件の史実に触れぬまま実施して良いのか、という事でした。事前協議の結果、チューリッヒのリマット川河畔で、和解の祈祷会を開催することとなり、私がそのスピーチと祈祷を担うこととなったわけです。
 当教会では本日、この後定期総会をいたします。いったん延期された総会ですが、この総会に合わせて礼拝のメッセージでは、リマット河畔でのスピーチと祈りの全文を紹介し、今という時代に「バプテスト」として生きる意味について共に考えていきたいと思っていましたので、新コロナ一色の状況の中ではありますが、あえてかねてからの思い通りに、このスピーチを紹介させていただきたいと思います。プリントもご覧ください。

◆リマット河畔でのスピーチと祈り◆
 私は、自分のことを「バプティスト」と称するとき、いつも「私は、ほんとうに、日々新たな人間として生きているか」「決まってしまわないで、決めてしまわないで、変えられることに開かれているか」と自問します。
 バプティストの「イスト」とは、ピアニストとかバイオリニストとかアーティストと言うように、現在進行形で「それに取り組んでいる者」のことだと思いますし、バプテスマとは、「人が新たに生まれる事実」を意味しているからです。バプティストとは、まさに固定された教理やパラダイムに安住する生き方ではなく、日々、自分が砕かれ、変えられていく生き方だと思います。
 ところが、私は、私の中から出てくるもので変わることはできません。新しくなることは難しいのです。しかし、神が日々届けて下さる「他者との出会い」によって、とりわけ、痛みや悲しみ、叫びや求めと共に私に向かってくる他者との出会いの中で、私は変えられ、それまで自分では気づかなかった「私のなすべきこと」へと導かれます。
 その変化の道すがら、時に聖書の読み方を変えることを要求されることがあります。
いま、この人にとって、この文脈の中で、聖書をそのように読むことが、果たして許されるのだろうか、と。そのような時に、命の解放と、人生の希望のためにこそ聖書を読む勇気を持ちたいと思います。聖書を活き活きと読むために、私には、身近な、最も小さくされた人々の手助けが必要なのです。
 日本バプテスト連盟の中で、今、女性牧師の数が次第に増加しています。それは、喜ばしきことです。それだけでなく、性的マイノリティーの人々への理解や共に生きる道が、提唱されています。しかし、一部のコンサバティブな牧師たちによって、それらの動きへの拒否や嫌悪が示され、またフェミニズム神学の柔軟かつ鋭い観点に対して、「それは異端である」と誹謗がなされる現象も起こっています。
 自ら、歴史の中で「異端」と呼ばれて来た先祖たちの事を、「過酷ではあったが見事な生き方」として記念するバプテストが、自分たちの内部に生きる少数者を「異端」と呼んで排除し、自分たちの依拠している枠組みを守ろうとするのです。皮肉な現象ではありますが、ある種の恐怖心に起因したこうした排除行動は、目をこらせば、今なお、あちらこちらで目撃することです。教会でも、学校でも、町内でも、そしてこの社会や民族間で常に起こっていることです。
 500年近く前に、このリマット川で沈められた人々は、今日、いったい誰なのでしょうか。今は、誰が沈められているのでしょうか。そして、今日、「異質な人々」を川に沈めたがっている人々は、今日、私を含め、何を恐れ、何にしがみついているのでしょうか。
 日本では、今日の人々の心の闇を映し出すような事件が日々起こっています。とりわけ、2016年7月に、相模原で起こった大規模な障害者施設殺傷事件は、入所している障害者を「生きる価値の無い人間」と呼んで次々と刺殺しました。19名が死亡し、26名が負傷する大量殺人事件でした。しかし、それは相模原の事件ではなく、日本社会の事件であったと思います。
 「生きる価値の無い人間」「殺されても仕方のない人間」がいるのだ、という「優生思想」は決して容認できるものではありませんが、私たち教会の中にある「正統」と「異端」という二分法はそれにつながる可能性を大いに含んでいます。そのことを、ここで心に刻みたいと思います。
 歴史はいつも、見つめるべき大切な本質と、闘うべきものの正体を教えてくれます。また、歴史は、今と今からを生きる生き方を教えてくれます。聖書を活き活きと読むために、私は、今日も歴史の手助けを必要としています。
 リマット河畔で、今、私は、真の意味でバプテストとして、もとよりキリスト者として生きることを問い直しています。この場所に、来ることができて幸せでした。この場所に、みなさんが共にいてくださったことはとても幸いでした。このような機会を与えてくださったことに心から感謝を申し上げます。
【祈り】
 主なる神さま。私たちは、あなたの大きな御旨を知り得ず、自分の生きる歴史の中で、正しさと間違いをつくりあげ、優れているものと劣っているものに物事を分けていこうとします。
 主よ、どうぞ、分裂と分断の虜となってしまう道から、私たちを救い出してください。お互いの中に、違いを見たとき、違いがわかり始めたとき、その違いに、必ず豊かさがあることを信じる信仰と、その豊かさを理解するまでその違いに向かい合う忍耐力をお与えください。私たちを、あなたの平和と和解の道具としてお用いください。
 お互い、国も、言語も、文化も、習慣も、信仰的立場も違う私たちの、唯一なる主にして、共通の命の道であられるイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
(2019.4/29-5/6日独瑞教会協議会)

 以上です。私たちの教会が、違いを受け入れ、人の弱さを力とする教会となっていけますように祈りつつ、定期総会に臨んでまいりましょう。
−主なる神さま。主は、いつも向こう岸を目指されました。人々の忌み嫌う場所を向こう岸となされ、悲しむ人々、痛んでいる人々、病に苛まれ、不安に怯えて生きる人々の場所へとこぎ出されました。主よ、向こう岸へ渡って行かれる主イエスに伴い行く私たちとしてください。いま、私たちは皆が部屋に閉じこもり、自分の岸辺に立ち止まっているかのように思わされている時ではありますが、向こう岸にあるもの、向こう岸に生きる人々を豊かに想像し、祈りによって渡っていけるものとしてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン −


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