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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The
Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-05-19 09:42:49 (1 ヒット)
週報巻頭言

しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られている。
(ガラテヤ 4:9a)
                            
 <私の信仰告白> 私は神学生の父と、幼稚園教師の母との間に生まれ、教会で育てられました。小学校5年生のときに「ひとりぼっちになったらどうしよう」という怖れと不安、自分の中にある「罪」の気づきがありました。教会学校でイエスさまが私の罪のために十字架にかかり、復活して共にいてくださることを学び、「イエスさまを私の救い主と信じます」と信仰告白してバプテスマを受けました。
 大人になっていく過程で、何度も形を変えて問いが生まれました。「私は、他の宗教がどんなものかを知らない。キリスト教しか知らないではないか」というものです。親が信じているものを、疑いなく信じてきた私が、「自分の信仰」だと自覚的に受け取り直すために、通るべき道だったと思います。揺れ動いた心が定まったきっかけは、ある小説の一節「人生はひとつの窓からみたほうがよく見えるものだ」というものでした。このとき私は、他の宗教との比較を通してではなく、自分が信じてきた「キリスト教」という窓から人生を見ていく、と心が定まりました。
 昨年度浦和教会では、教会の信仰告白(2002年)を教会学校で半年かけて学びなおしました。その学びの中で、「自分で決心した」と思ってきた信仰は、実は神さまからいただいた一方的な恵みだったということに気がつきました。ヨハネによる福音書にこうあります。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」(15章16〜17節)。
 互いに愛し合いなさいと命じられる方は、どんな生き方を私に望んでおられるのでしょうか。私の母は2年前に召されました。前の晩、母の体をさすっていた私は、眠気に耐えきれず、うたたねをしてしまいました。母は「眠いとやね。かあさんも眠い。でも、きつくて寝られん」と体のきつさを訴えました。母の肉体の苦しみ、目を覚ましていてほしいという叫びを前に、私のからだと精神は眠ろうとしている。自分のふがいなさに絶望した夜でした。翌日、母の代理で教会員Yさんの葬儀の奏楽をするために出かけました。「Yさんご家族のこと、よろしくね」が母の最後の言葉です。
 私の弱さ、十字架の前でたじろぐしかできない私を、イエスさまは百も承知。でも「あなたにできることがあるよ」「よろしくね」と送り出してくださるのだと、そのような信仰をいただいて日々を歩んでいることを告白いたします。
(浦和教会・中嶋名津子)                                                                                                                  


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-05-12 07:50:16 (14 ヒット)
週報巻頭言

「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。 (ヨハネによる福音書 11:43)

本日は召天者記念礼拝です。 先に天に召され、私たちと交わりのあった方々、愛する方々を覚える礼拝です。 作詞家の永六輔さんは「人間は二度死にます。一度目はその肉体の命が終えるとき です。二度目はその方を覚える人が一人もいなくなった時です」と故人を覚えること の大切さを話していました。私たちは、死は人生の誰でもが向かう終着駅、死んだら おしまいと考えていないでしょうか。死は当人にとっても、周りの人々にとっても計 り知れない揺さぶりをもたらします。 死は人と人の関係を分断してしまいます。死の現実は人を、悲しみ、嘆き、苦しみ、 怒り、不安の中に放り込みます。死は絶望という闇の淵に人を投げ込むのです。 19世紀の思想家キルケゴールは、その著書で「死に至る病」とは「絶望」であると 言っています。そして病で死んだラザロの甦りの出来事について、「キリストが墓の 側に歩み寄って『ラザロ、出て来なさい』と呼ばれた時、この病は死に至るものでは ないことは確かである。しかし、たとえキリストがその言葉を口にされなかったとし ても『復活であり、命』であるキリストが墓に歩み寄られるという事だけで、この病 が死に至らないことを意味してはいないだろうか。キリストが現にそこに居ますとい うことが、この病が死に至らないことを意味していないだろうか」と語っています。 ラザロの出来事の意味するところは、死の力の前で絶望する人々に対して、キリスト の十字架と復活による勝利を前もって現しているのです。その事によって、神の栄光 を現し、キリストが死の力を根本的に打ち破って下さる方であることを証ししている のです。 キリストは人々に言います。『ほどいてやって、行かせなさい』。いろいろな束縛で 絶望の中にあったラザロを解放し、人々との交わりの中へ戻るよう宣言されていま す。そしてラザロの解放は周囲の悲しむ人々にも慰めと希望を与えたのです。 (眞嶋 豊)


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-05-05 15:31:03 (33 ヒット)
週報巻頭言

主よ、助けてください。おぼれそうです。(マタイ 8:25)

1911 年生まれの私の母から、「関東大震災」(1923 年 9 月 1 日発生)の出来事をよく聴かされまし た。当時、本所の緑町に住んでいて、昼食の準備のため多くの家庭では「七輪」で木炭を燃やし、ご 飯を炊いていたそのときの地震で、瞬く間にあたり一面は火の海と化したという。焼死者は 10 万人 以上、両国橋から見る隅田川の川面には、川に飛び込んだ死体の上にまで火が走っていたそうです。
そうした混乱の中、「朝鮮人(当時の呼称)が青酸カリを井戸に投げ込んだ」との全くの“デマ” (政治的虚偽情報)により、大勢の朝鮮人や中国人が虐殺されたとの事。「ざぶとん」を「ジャブトン」 と発音する者を日本人として認めず、竹やりやナタで殺したそうです。なまりのある人、聾唖者の日 本人もその中に含まれていたという。無数の焼死者や殺人現場を見たとき、「神様助けて!」と母は泣 き叫んだと言っていました。 私たちの人生は、しばしば『航海』に例えられることがあります。順風満帆、平和な楽しいときを 過ごしながら舟に乗って目的地に向かいます。ところが、時には予期しない大事件に遭遇することも あります。どうしたらよいのか、自分ではどうしても解決できない難題にぶち当たることもあります。 引き返そうにも、どんどん悪い方向に進んでしまう「難破船」になってしまいます。 本日のみ言葉から、「解決策」を見出しましょう。 最初に、 「イエス様が舟に乗り込まれた」とあります。続いて「弟子たちも従って乗り込みました。」 そうです、私たちの乗っている舟には、私たちの主イエス様がご一緒なのです。ヤコブ、ペトロ、ヨ ハネの弟子たちは、もともとベテランの漁師です。荒海の航海にも当然慣れている者たちです。その とき激しい嵐に遭遇し、自分たちの知識や経験を駆使し、全力を振り絞って乗り越えようとします。 しかし、なすすべもなく死の寸前に至りました。 そこで、ようやっと思い出したのがご一緒している主イエス様のことです。「主よ、助けてくださ い。おぼれそうです」と叫んだのです。主イエス様は「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ」 と言われ、嵐を凪に変えてくださり、助けてくれました。 主イエス様は、どんなときでも、どこにいても私たちに伴われていることを忘れないようにいたし ましょう。イエス様が私たちの救い主、そして私たちの教会の主なのです。 (鳥飼 好男)


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-04-27 13:45:00 (29 ヒット)
週報巻頭言

これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。
(ヨハネ15:11-12)

ヨハネ福音書15章はよく御存じの「私は〇〇である」というたとえをもって語られている箇所です。「私は命のパンである」とか、「私は世の光である」とか、「私は道である」とか、いろいろなたとえを用いて、イエス様は、ご自身がいかなる存在であるかを語って来ましたが、ここでは「私はまことのぶどうの木、私の父は農夫である」と語っているところです。
 とても分かりやすいたとえで話されておりますので、当時の人々はイエス様のこの話はすぐに理解ができたのだと思います。私たちはどうでしょうか。私たちが十分に理解するには、まず当時の人々がぶどうの木をどのように理解していたかを知らなければならないと思います。
 旧約聖書には、ぶどうの木についての記述がたくさんあります。そしてそのほとんどが、イスラエル民族を表す象徴的な言葉として用いられております。たとえば、イザヤ書5:1〜7では農夫がぶどうの木を丹精込めて世話をするように、神様はイスラエルの民を愛し、そして、神の民として豊かな日々の生活をあたえようとしているのに、その神の意に反してイスラエルの民は神から離れていく。そのようなイスラエルの民を、神は見捨てる、という神の意志が述べられております。ぶどうの木とは神に逆らうがゆえに、神に見捨てられるイスラエルの民という理解がされています。イエス様はそのような理解を前提に、「私はまことのぶどうの木である」と語っているのです。イエス様ご自身が「まことのぶどうの木である」という宣言により、弟子たちはイエス様において実を結ぶ、新しいイスラエルとして神に招かれている存在であることが語られているのです。
神様とイエス様との関係が語られ、イエス様と弟子たちとの関係へと進み、その関係の類比からイエス様は、私の愛に留まることを掟として弟子たちに語り聞かせているのです。そして私たちにもイエス様は「互いに愛し合いなさい」と語りかけておられるのです。この語りかけに私たちはどのように応答してゆけばいいのでしょうか。
        (品川バプテスト教会協力牧師 松村 誠一)


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-04-21 20:19:01 (26 ヒット)
週報巻頭言

イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちに ガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」 (マタイ28:10)

「マグダラのマリアともう一人のマリアが墓を見に行った」(1節)という言葉には、 どんな意味が含まれているのでしょうか。彼女たちは家父長制に基づく男性中心的な 中近東の文化の中で、女性蔑視という社会的差別を受けるほか、重度の精神的疾患を患 い、宗教的な差別にもさらされていました。二重、三重の差別にさらされていた彼女た ちにとって、主イエスの教えと生き方は、まさしく「福音」そのものでした。主イエス によって癒やされ、新しい人生を取り戻した彼女たちは、当時の文化では、きわめて稀 な「女性の弟子」として、物心両面でイエスと十二弟子たちを支えることはもちろん、 福音宣教の一翼を担うようになりました。 ところが突然の主イエスの逮捕と十字架上の死は、青天の霹靂のような出来事でし た。主イエスの死は、もっとも頼りにしていた存在が突然いなくなった悲しみ以上に、 自分の存在が絶たれてしまったかのようなものだったのでしょう。「墓を見に行った」 ということは、ほかならぬ、生きる希望を失い、絶望感にさいなまれている姿をあらわ す表現であると思います。しかしそれが終わりではありませんでした。絶望のどん底の 中、彼女たちは復活のイエスに出会うのです。復活の主の第一声は、「恐れるな」でし た。それは、絶望が希望に変えられる、「希望のはじまり」でした。絶望の中で苦しみ 悲しんでいた彼女たちが、最初の復活の証人として、新しく生きようとする希望に満ち あふれるときだったのです。 私たちの生きる一日一日は、ある意味では誰も経験したことのない未知の世界です。 それ故に期待感でわくわくするときもあれば、不安にさいなまれるときもあります。し かし、復活の主が、決して私たちを「ひとりぼっちにさせない」ことを忘れずに、どん な状況に置かれていても、「恐れることはない」と私たちに語りかけてくださる復活の 主に信頼しつつ、希望をもって誠実に歩んでいきたいと思います。 (日本バプテスト連盟宣教研究所・所長 朴 思郁)


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