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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The
Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-07-14 17:27:59 (10 ヒット)
週報巻頭言

「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」 わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」 (イザヤ書 6 章 8 節)
本日の聖書テキスト−イザヤ書 6 章−は、年老いてからのイザヤが、預言者として の召命が自分にぶつかって来たときの出来事を回顧して記したものです。自分がふさ わしいものだったわけではない。むしろ、神に直面してしまったときの自分は、あま りにも罪深く、この唇は神の言(ことば)を取り次ぐには、汚れているということを 彼自身は自覚していました。けれども、神の接近は圧倒的で、自分の汚れた唇を、燃 える炭火で焼き取るかのような赦しと変革の力で清められてしまい、赦されてしまい、 もはや「わたしがここにおります」「わたしをおつかわしください」と応えるしかな い強い招き、強い背中押しだったことを告白しています。 自分の思いや計画ではなく、もう神さまからとしか言いようのない召しによって歩 まされてしまう、それを私たちは<召命>と呼びます。召す命令、命を召す、命への 召し。漢字からどのように連想しても当てはまります。そしてどう言い換えても厳し さを伴うものです。イザヤは、20 歳の時にこの召命に撃たれます。彼が「いつまで ですか」と尋ねたところ、それは「いつまででもだ」というような返事が返ってきま す。つまりとことんまで、人間の歴史のただ中で、神の言を語り伝える、時が良くて も悪くても、いいえ時がいつまでも悪いなら悪いからこそ語り続ける、そのような召 しに突き込まれてしまいます。 並大抵ではない耐久力と精神力を問われるそのような召しに応える用意が、若干 20 歳のイザヤにあったとは思えません。ただ、その時その時、神の言を預かり、それを 人びとの往来する街角や会堂で語り続けること。語るために観察し、洞察し、悩み、 もだえ神に聴き、また語ろうとしていくこと。たとえ聞かれなくても、たとえ笑われ ても・・・。神の言などより確実に人生を助けてくれそうなものにみんなが飛びついて いく中で、神への信頼、神の戒めに生きることを呼びかけ続ける。そんな「今日」の 葛藤の積み重ね、「今日」の姿勢の積み重ねが、振り返ってみると、彼の預言者とし ての生涯を導き、つくっていたのでした。 吉 叶


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-07-07 11:59:39 (16 ヒット)
週報巻頭言

彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を刈る者の前 に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを 受けて、彼は命を取られた。(関連聖書イザヤ 53:7-8)
ローマのユダヤ総督は、普通はカイザリアにある総督の屋敷に住んでいます。けれ ども、祭りの前になると、エルサレム神殿近くの総督官邸に、かなりの数の兵士たち を伴って滞在していたようです。もしユダヤ人たちが興奮し、暴動や反乱、あるいは 万が一にも「民衆蜂起」が起きたときには、すぐに鎮圧に乗り出せるようにです。 世界を武力で征服していたローマ帝国は、その一方で常に各地の反乱に神経を遣っ ていました。特に、民族的・宗教的自負心の強いユダヤの地は、何がきっかけで暴動 が始まるかわからない、地下マグマがいつ吹き出るかわからない、そんな不気味な国 でした。「このユダヤを大過なく治める」。それが総督の主眼でした。そしてとりわけ 狡猾だったと言われるビラトの願いは、自分の任期中に何事も起こさずに全うし、栄 転することでした。ローマ皇帝の機嫌を伺い、自身は皇帝の権威をしっかり保持しな がら、他方ではユダヤ人たちの自尊心もある程度満たしてやる。一に威嚇、二に駆け 引き。忖度とおもねり、脅しと気遣い。それがピラトの政治の全てでした。 まだ明け方であるにもかかわらず、ユダヤの指導層が、ひとりの男を引っ立てて官 邸に押しかけてきました。「やっかいなことが起こり始めた」と、ピラトは直感しま す。「深入りしたくない」と思ったようです。それで「いったい、自分のところにま で連れてこなければならないのはなぜだ」「自分たちのことは自分たちで裁けるだろ う」と追い払おうとします。しかしユダヤの指導者たちは、あたかも決定済みのよう に言うのです。「あなたのところに来たのは、この男を、死刑にしてもらわねばなら ないからだ」 「死刑にできるのはあなただけの権限なんだから」と突きつけるのです。 そうです。もう彼らは決めてしまっているのです。「死刑だ」と。そして「もし死刑 にしなければ、ここで何が起こっても知りませんよ」と、暗黙の圧力をかけてきたの でした。興奮し、激高してピラトに迫りよる祭司長たち。あわてふためき困惑を隠せ ないピラト。この真ん中に、主イエスは静かに黙して立っていたのでした。 「彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように」。 吉 叶


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-06-30 21:11:27 (9 ヒット)
週報巻頭言

マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。 しかし、必要なことはただ一つだけである。(ルカ福音書 10:41)
永らく口語訳聖書に親しんできた私には「無くてはならぬもの多くはない。いや、 一つだけである。」とのフレーズが刻まれている。「必要なことは何?」と問われるよ り、「無くてはならぬものは何?」と問われた方が、私のような者には、より深い自 己吟味、人生吟味に導いてくれるような気がする。本当に無くてはならぬものとは何 だろうか。どのような理由があったとしても、それを自分から取り去ってはならない ような「それ」とは何だろうか。あるいは、この世のどのような力も取り去ることは できないほどに、私の存在を支えるものとは何だろうか。そして、自分は、その「無 くてはならぬもの」で生きているだろうか。マルタは、つまりこの私が、今日、呼び かけられている。 それにしても、「無くてはならぬもの、必要なものはただ一つだけである。」との主 イエスの言葉はあまりにも単純だし、困惑する。実際、多くの「必要なもの」を抱え て生きる私たちにとって、「ただ一つだけだ」などと言われても困るのだ。だが、人 間は、時として、自分の人生と命に関する明確で単純な言葉(つまり根源的な言葉) をズバリと聞かされ、たましいの中心に受け取らなければならないのかもしれない。 「それも大切・こちらも大切」式では、いざというときに腹が据わらぬ。 マルタがマリアのことでイエスに文句を言ったとき、彼女は自分の労苦を理解して 欲しかったし、焦りや怒りの気持ちを認めて欲しかっただろう。主イエスはそれを察 知したに違いない。しかし、イエスがそこでマルタをおもんばかり「マリア、マルタ の言うことはもっともだ。おまえも手伝っておいで」と言ったならどうだろう。たし かにマルタの溜飲はさがり、仕事もまちがいなくはかどっただろう。しかし、マルタ は、明日も、明後日も、それからずっとマリアを働かせるようになるだろう。そして たちまちこの家は、 「働くマルタ」と「働かされるマリア」の家になり、聴くべき「こ とば」が響かない家になってしまうだろう。やがて、ほんとうに「慰めのない家」と なり、二人とも疲れ果て倒れてしまうのではないか。そう、マルタもマリアも私の中 にある二つの衝動である。働かねばならないマルタと、「ことば」を聴きたいマリア とは、「この私」という一つの家に同居しているきょうだいなのである。さて、この きょうだいが手を取り合って暮らせる家のように、私は生きているだろうか。 吉


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-06-23 19:25:09 (15 ヒット)
週報巻頭言

何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに 捕らえられているからです。(フィリピ 3:12 より)
米軍が沖縄本島に上陸して一週間目、戦況不利が一目瞭然でありながらも、沖縄守備 軍司令官・牛島満中将が、部下将兵を叱咤し命じた司令は以下の通りである。 「皇国ノ安危ハ懸リテ第三十二軍総突撃ノ成否ニアリ 挙軍宜シク大死一番シテ滅敵ノ コトニ当タルヘシ 我ガ将兵ニハ進死アルノミ 断ジテ退生アルヘカラズ 戦友ノ死傷 ヲ省ミル暇アラハ、寧ロ十殺ノコトニ努メヨ 僚友斃レ一人トナルモ 敢為奮進シテ醜 敵ヲ滅殺スヘシ 御稜威頭上ニ在リ 切ニ敢闘ヲ祈ル」 ※大死=たいし・死んだつもりに なること/ ※十殺=じっさつ・敵を十人殺すこと/ ※敢為=かんい・反対や困難を押し切って目 的を果たすこと/ ※御稜威=みいつ・天皇の威光のこと 「殺せ」とか「進んで死ね」とかの表現を使わないだけだが、「伝統ある特別なこの国 のために、国民ならば一丸となって、迫り来る危機のために、弱者の痛みなどは顧みず、 計画に反対する声などに耳を貸さず、突き進もう。天皇の威光は私たちの上にあるのだ」 と、現政権はずっと言っている。ほとんどこの通りのことを。憲法改「正」もこの線だ し、併せて沖縄をもっと激しい基地島にして「戦争ができる国」の体制を進めている。 あの時の牛島司令官と、「思想の枠組み」も「統治手法」も何も変わっていない。沖縄を 差別し、踏み台にして自らを発展・栄化させようとする精神は、治っていない。あぁ、 いまも「沖縄戦」は続いている。 先週の礼拝後、バプテスト女性連合・沖縄平和学習ツアーに旅立つ吉睿さんのため に祈られた「派遣の祈り」(篠塚薫)。私たちはこの祈りにアーメンを重ねたい。 「『剣をさやに納めなさい。剣をとるものは皆剣で滅びる。』(マタイ 26:52) 6 月 20 か ら 25 日まで、6.23「命どぅ宝の日」平和学習ツアーに 27 名の方が参加されます。吉睿 さんはスタッフとして参加なさいます。すべてのプログラムをあなたが導いてくださり、 行き帰りの道をどうぞお守りください。 人びとの争いは武器によって止めることはできません。基地はいりません。戦争がで きる国へとしての歩みに私たちは断固として反対します。沖縄の人たちと連帯し、私た ちが平和を祈り、平和を実現していくことができますよう助けてください。この祈りを われらの主イエス・キリストのお名前をとおし、み前におささげいたします。アーメン 」


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2019-06-16 21:14:27 (21 ヒット)
週報巻頭言

それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは 40 日間そこ にとどまり、サタンから誘惑を受けられた。 (マルコ 1:12-13a)
祝祷で終わる礼拝。そこから、礼拝の会衆たちの一週間が始まる。生活の場、働き の場に送り出されていくわけである。私は祝祷をする。一瞬だが、派遣する側に立つ かたちになる(本当はいっしょに派遣されているのだが)。でも、それはよく考える と実に重たい事だと知らされる。なぜか。それは、会衆たちが「ここ」から出かけて いく場所が、エデン(楽園)ではなく「荒れ野」だからだ。 以前、まだ宣教師が教会で働きをしていた頃のこと。いっしょに働いていたアメリ カ人宣教師が伝えてくれた率直な言葉はこうだった。「日本のクリスチャンたちを、 私は心から尊敬します。日曜日の礼拝から帰ってくると、そこは右も左も家庭も会社 も、社会全体が、キリストの思いから考えようとはせず、聖書の価値に基づいて語ろ うとはせず、神の前でへりくだって生きることが、なんの説得力も持たない世界なの ですから。欧米の、キリスト教を土壌とする私たちには、少なくともそのプレッシャ ーはクリアされているのです。そう考えるとき、日本のクリスチャンたちの姿はほん とうに尊敬に値するのです。」そんな言葉だった。何言ってんの、欧米だってたいへ んだろうに。でも、 「日本のクリスチャンのジレンマをわかってくれてアリガトね〜」 って、ちょっぴりほっとしながら「この人、いい人!」と感じたのを思い出す。 先週の週報には“イエス・キリストの生き方は、単独者としての生き方ではなかっ た”と書いたが、今日はこう書こう。“イエス・キリストは、痛みを知らず苦しみを 遠ざけて生きたのではなかった”と。主イエスは、ヨルダン川(バプテスマ)からエ デンに導かれたのではない。都エルサレムに直進したのでもなかった。彼はバプテス マの後、荒れ野に踏み込んでいく。しかも「神の霊」に送り出されて・・・。「人はパン のみにて生きるにあらず。神の言葉によって生きるのだ」との鮮烈な宣言は、荒れ野 の空腹と誘惑を身にまといながら絞り出した言葉。そして彼は、荒れ野を通り「誹(そ し)られの地ガリラヤ」に向かい、「まなざしを据え直して生きよう。神の国があな たに接近しているから」と語り始められたのだ。だから、自分が生きる場を「荒れ野」 と例えたくなった時に忘れないでいたい。主がそこにおられることを。 吉 叶


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