はじめての方へ
メニュー


このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The
Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2020-10-18 16:17:50 (4 ヒット)
週報巻頭言

 おはようございます。しばらく旧約聖書から聞いてきましたので、今日はイエス様の風景を見つめたいと思います。また秋が深まる季節であり、収穫豊かな時でありますので、収穫に因んだ黙想をしてみたいと思い、本日のテキストを選ばせていただきました。ごいっしょにイエス様の眼差しに触れていきたいと思います。

 イエス様は、自分のもとに集まってくる群衆を見られて「飼い主のない羊」のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て深く憐れまれました。そして弟子たちにおっしゃったのです「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」と。
「収穫は多いが、働き人が少ない」。
 この言葉は普通どのような場面で語られる言葉でしょうか。見わたす限りに穀物がたわわに実り穂を垂れている、それなのに農夫がいない時、そんな時の言葉です。あるいは、漁に出た。すると鰯の大群に出会った。こんな大群は見たことがない。それなのに今日は漁師の数が少ない。そういう時の言葉です。明らかに収穫が多いと見て取れる時の言葉なのです。それなら、とても話は簡単です。
 しかしこの時、主イエス様が見ていたものは全く逆で、「飼う者の無い羊のように弱り果てて、倒れている者さえいる群衆の姿」だったのです。
 いったい「収穫」とは何のことだったのでしょうか。イエス様の目に映った「収穫」とは、私たちが往々にして考えてしまう、すぐ目に映る、見ればすぐわかるような「景気のよい出来事」ではないのです。人間で言うならば、元気な人、即戦力として使えそうな「人材」が溢れているというような状況のことではなかったのです。むしろその逆であって、もはや抜き差しならないような苦悩を背負い込み、あるいは不正や偽りに喘ぎ、貧しさにがんじがらめにされ、生きにくさ、生き苦しさを抱え込み、癒しを、助けを、一縷の希望を必要としている弱り果てた人々だったのです。そうコイノス(汚れ)を身に帯びているからと蔑まれていた人々でした。その人々がこんなにもたくさん集まっている様子を見つめながら、主は深くあわれまれ、この人々の癒されること、この人々が交わりに加えられること、この人々が教えられていくこと、この人々が死に呑み込まれないで信じて生きるものとなることのために、それを伝え、それに関わる働き人の必要を感じられたのです。そして、コイノニア、そう交わりの必要をとても強く感じられたのです。そしてイエス様は12弟子を呼び寄せられ、立てていかれたのです。
 イエス様のこの眼差し、この言葉から、私たち教会の働きをはっきりと受け取っていなければなりません。「収穫」とは、自分自身を満たすことができる何ものかのことではなく、自分自身を届け、捧げるべき何ものかのことなのだ、ということです。そしてその収穫は多いのだと。
 イエス様は、「不毛」と呼ばれるところに意味といのちを吹き込もうとされています。さまよい倒れるいのちに、喜びと「めあて」とを注ごうとされています。

 私たちの生きてきた日本社会は、伝道が難しい国だ、そして今は伝道が難しい時代だとずっと言われて来ました。それは普通の感覚だと「収穫の少ない時代だ」という言葉で言い換えられてしまいそうなことなのですが、イエス様の眼差しは別のことを語っていると思います。これほど、人々が侮られ、貧しく放置されている時代があるだろうか。これほど、人々が疲れている時代があるだろうか。こんなにも多くの人々が自ら命を絶っている社会があるだろうか。これほど放射能だウィルスだと、見えない脅威に脅かされ人間同士が疑心暗鬼にされている時代があるだろうか。
 イエス様は、心を憐れみの涙でいっぱいにされて語られたのだと思います。「収穫は多い」と。それは悲しみと慈しみ、共苦と断腸の言葉なのです。「だから収穫の主に願って、働き手を送ってもらいなさい。」そう「助けたい」「支えたい」「守りたい」という神の想い、そこに収穫の意味があり、収穫の主・神様の願いがあるのです。
 私たちは、私たちの人間的な思いで、人々を集めたり、自ら集まったりするのではなく、収穫の主である神さまのみこころをよくわきまえていたいと思います。ですから、私たち教会のこれからの「人材」としての働き手を望むのではなく、私たちの生きるこの同時代の地続きの社会で苦悩している人々の救いにたずさわるものとしての働き手を望み、願い、自らそこに加わって歩んでいきたい、そのことを祈られねばならないのだと思います。
 そもそも、私たち自身が、主の眼差しの中で、打ちひしがれ弱っているものとして捉えられた一人一人なのです。しかし、主のまなざしには、大切な「働き手」としても捉えられていたのです。私たちは、イエスさまと共に収穫を見つめる「見つめ手」とされ、働き人を更に加えてくださるようにと願う「願い手」とされているのです。

 戦後、この日本社会に改めて蒔かれたキリスト教の種は、芽を出し育ちながら次第に伝道の使命を帯びて行きました。しかし、その時、つまり「伝道」と語る時に、常に「手にしたい・身につけたい」と思ってしまったのは発信器の方でした。こちらにある素晴らしい教えを伝える「発信力」、どうすれば力強く、広く発信できるか、良い発信器としての教会の成長を願いました。そしていま、教会の発信力が弱くなったとか、発信しても聞いてもらえない時代になった、伝道が難しい時代だと嘆いています。問題の理解の仕方が実は転倒していたのです。私たちが身につけなければならなかったのは、発信器ではなく受信器の方ではなかったのでしょうか。問題は、発信するこちらのための「働き手」なのでなく、生きるのに苦悩している群衆のための「働き手」なのであり、それらの人々の痛みや苦しみを聴き、理解し、いっしょに困り果てながらも希望を探し合って行こうとする受信器としての教会の姿ではなかったでしょうか。こちらに既に解決のための答えがあって、それを発信しなければと考えるのではなく、人々の痛みの中にこそ癒やしの窓口があり、人々の渇きの中にこそまた主イエスが下さる潤いの意味がある。それを知らされていく。受信する教会、教えられる教会。知らされ、学び、癒やされていく教会。そのために集められ、そのために交わっていく教会をもっとイメージすべきではなかったでしょうか。

 集められた12弟子は、みな無名で弱き人々でした。この12弟子は、誰一人として「他の誰かではいけない」というほどの人たちではありませんでした。ペテロでなくてはならないことはなく、またヤコブでなければならないという、「特待生」的な選びではありませんでした。けれども、彼らは主の憐れみの中に捉えられ、確かに、ペテロとして愛され、ヤコブとして祝福されたのです。それは、これらの一人一人が、みな憐れみの中に捉えられながら、働き手となっていく、収穫の主の不思議な招きと「すなどり」の業の中に置かれたということなのです。弟子達はせっかく集められながらも、誤解を繰り返し、たくさん失敗もしました。でもその誤解を通して、主が見つめられていた「収穫」の意味を理解していくことになります。最初は、エルサレムに行ってイエス様が王様になったら自分たちは大臣になるぐらいのことを「人生の収穫」だと勘違いしていた彼らも、後に人生に苦しむ人々に自分を注ぎだし、「金銀は私には無い。しかし私にあるものをあげよう。主イエスの名によって立ち上がりなさい」と語る者とされていきました。人間にとっての価値、人生の収穫というものが転換させられた姿で生きる人々となります。この、彼らの「収穫の主に働き人を願う祈りに」聖霊は応えてくださり、日々多くの人々を集めてくださったというのです。それが使徒言行録の証言です。
 12弟子が、選ばれたとき、彼らは十分な使徒たちではありませんでした。しかし、いやだからこそ、やがて主の目に映る収穫に存分にたずさわることのできる可能性に満たされていたのです。私たち市川八幡教会も、こうして集められていながら、今なお、収穫の意味をはき違え、働き手として胸の張ることの恥ずかしいものでありますが、しかし、収穫の可能性は常に私たちに託されています。私たちは、まぎれもなく、収穫の主に呼び寄せられた一人ひとりなのです。
 私たちが、その収穫を得るためにはどうしたらよいでしょうか。イエス様の眼差しを私たちのものにしていくこと。そのことを祈り求めることしかないのだと思います。
 この時代の中で、イエス様が何を見て収穫と感じておられるか。イエスさまが収穫のために誰のところにどのようになさろうとしているのか。そのことを真剣に祈り求めるものでありたいと思います。


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2020-10-11 13:16:06 (19 ヒット)
週報巻頭言

神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。
それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。
(コヘ3:11)
「コヘレト」には招集者(人々を集めて語り聞かせる者)という意味もあれば、収集者(古
今東西のさまざまな知恵を集める者)という意味もあります。研究者であり教育者です。
本文を読むと、コヘレト自身は人生をどっぷりと生きた「長老」的な存在であり、彼が
語る相手は若者たちであると感じられる箇所が多々あります。たとえば「青春の日々に
こそ、お前の創造主に心を留めよ」と呼びかけるところなどです。ただし、「青春」とは
若者の特権・属性というわけではありません。あえて定義するならば、青春とは「無垢
なまでに、ものごとの意味を問うこと。そのようながむしゃらな生き様を見せるとき」
だということができます。それを考えることで自分が得をするとかしないとか、そんな
ことは度外視して、「本質や真実を知りたい」「理由を知りたい」と自分の内側から湧い
てくる渇望に素直に(苦悩しながらも)従う姿のことだと言えます。ですから、人生を懸
命に探究しようとしている人たちを「聞き手」と理解してかまわないと思います。
そうした青春むき出しの聞き手たちに対して、コヘレトは、かなりニヒルなことを語
りかけていきます。「空の空、いっさいは空である。」などと水をかけるようなことを。
懸命に探求すること、納得を求めて追及すること。それは実に大切な姿です。簡単に
達観したりしないで「おかしい! 」「どうしてなんだ!」と義憤をおぼえ懸命に道理や幸福
への道筋を掴み取ろうとする誠実な姿です。コヘレトは、その姿を決して冷ややかに見
てはいません。が、人生の事実を隠すこともしません。すなわち、人間にはどうにもな
らない出来事が起き、承服しかねる状態が迫ることや、どんなに学習し準備し企図して
も、願ったように事柄を持ち運ぶことが必ずしもできないこと、などをです。
すべての物事には時というものがある。人間には操れない「時にまつわる秘密」がど
うしようもなくある。それが人間の実存です。人間の実存は、自分の過去と未来にだけ
挟まれているのではなく、他者との出会い、神の意志(としか言えないもの)という秘密
を含んでいるのです。そのような「時の秘密」に包まれていることを知りながら、しか
し安易に老成してしまうのでもなく、今という時を青春の日々として生きること。そし
て、青春の日々にこそ自らの創造主と出会うこと。秘密の前で謙遜であり現実の前に誠
実である、そんな人間の生き様をコヘレトは微笑ましく見ているのです。【吉盂陝


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2020-10-04 10:56:15 (19 ヒット)
週報巻頭言

これがあなたの子孫に与えるとわたしが誓った土地である。わたしはあなたがそれ
を自分の目で見るようにした。あなたはしかし、そこに渡っていくことはできない。
(申命記34:4)
1968 年4 月4 日、アメリカ公民権運動(黒人解放運動)の指導者の一人、M.L.キング牧
師は一発の銃弾に倒れた。39 歳になったばかりであった。その前夜、テネシー州メンフ
ィスの教会で語った説教が、結局、キング牧師の最後のメッセージとなった。もちろん
それは、イスラエルの出エジプトを率いて来、いよいよ約束の地・カナンを目前にして、
自分自身の進入を神から禁じられたモーセが、ピスガ山の頂から約束の地を眺望する場
面と自分自身とを重ねてなされた説教であることは言うまでもない。そのメンフィスで
の説教の最終部分を下記に紹介したい。
「メンフィスに着いたら、私が狙われているとか、私を狙う計画があるとか聞かされた。心を病んだ
白人兄弟たちは、私をどうしようというのだろう。いや、私自身、自分の身の上に何が起きるのかは
分からない。これから相当困難な日々が私たちを待ち受けている。でも私はそんなことはもう気に
ならない。私は山の頂に登ってきたからだ。だからもう気にならない。たしかに私も人並みに長生きを
したい。長生きにはそれなりの意味がある。でも今の私には重要なことではない。今はただただ神
の意志を体現したいだけの気持ちで一杯だ。神は私を山の頂まで登らせてくれた。頂きから約束の
地が見えた。私自身は皆さんと一緒には約束の地に行けないかもしれない。でも知ってほしい。私
たちは一つの民として約束の地に行くのだということを。だから私は今うれしい。私はどんなことにも
心が騒がない。どんな人も怖くない。主が栄光の姿で私の前に現れるのをこの目で見ているのだ
から。」(1968.4.3.メンフィス、チャールズ・メイソン記念大聖堂)
信仰による眺望。それは希望の景色、解放の景色を仰ぎ見ることである。信仰者に大
切な作業とは、今日見ている風景を希望の眺望と結び合わせ、約束のもとで今日の自分(の
事実)を再解釈する(受けとめ直す)ことではなかろうか。そのために信仰者は山頂に登る。
山頂とは、神が見せようとする世界を眺める「視座」。たとえば、それはモーセにとって
のホレブ山やピスガ山であり、イエスにとってはゴルゴタの丘であり、弟子たちにとっ
てはガリラヤの山である。眺望する視座、それは目の前の生の厳しさを見つめながら神
の国の祝福から目を離さなかったイエスであり、イエスを復活させた神の御心である。
だから、私たちは、現実という地面に足を取られながらも山に登ることがゆるされてお
り、霧の中に閉ざされながらも眺望することを遮られることはないのだ。吉盂


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2020-09-27 17:03:47 (43 ヒット)
週報巻頭言

主はご自身で民にくだす、と告げられた災いを思い直された。
出エジプト(32:14)
奴隷の地エジプトを脱出し、シナイ半島の奥深くまで辿り着いたイスラエルの民でし
たが、その道中、幾度となく神への不平不満を口にし、神を試そうとしました。そのイ
スラエルが決定的な過ちを犯してしまいます。それが「金の仔牛」事件でした。
イスラエルの民が神の山ホレブ(シナイ山)の麓に到着したとき、神はモーセに山に登
るよう命じます。「十戒」を授けるためでした。「十戒」は、民がまっすぐに神と向かい
合い、心から神を礼拝することによって、隣人とも人生をわかちあって生きることがで
きるようにと、神の慈愛と恵みが満ちた戒めです。また、「十戒」だけでなく、礼拝の姿
勢や方法、共同体の基本的経済活動や司法行為のための指針を授けるため、神が40 日に
亘ってモーセに向かい合っておられた、そのときの事でした。民の方はというと、モー
セが山に登って行ったきり、いつまでたっても降りてこないため、不安に駆られ、混乱
していきます。しばしの「神の沈黙」「指導者の不在」、この状態の中で民は神を信じ切
れず、モーセを待ちきれず、これまでの導きと救いの経験を忘れたかのように「新しい
神」を造り、祭ろうとしました。「あの神はもういなくなった。」「新しい神と指導者が必
要だ」。このヒステリックなスローガンが、あっという間に人々に感染し、民を浸食して
いったのでした。人間はかくも脆く、かつ危険な存在です。
群衆は、モーセの右腕・アロンのもとに押しかけ、「新しい神々」を造ってくれと要求
しました。「神々」と複数形で語られているところが、いかにも人間の欲望をよく表して
います。何を求めて良いのか、際限のない欲求と止め処ない不安に対応する「神々」を
人間はいちいち造り上げようとするのです。それにしてもアロンはどうしてしまったの
でしょう? 怒濤のような民の要求に屈してしまい、民のために仔牛の鋳造を行います。
民はエジプト脱出の際にエジプト人から手に入れた金の装飾品を寄せ集め、この仔牛に
メッキを施したのです。エジプト脱出・奴隷解放の印、自由を手に入れた証として手に
入れた金を、彼らは、金の仔牛を飾るために供出していきます。このようにして、人間
は再び、欲望の奴隷、偶像礼拝の虜となることを選び取ってしまったのでした。目に見
える神の形、神がいる場所、人間はそれを限定させて自分の欲求と満足と安心のために
神を祭ろうとするのです。人間は昔から今も、ずっとその傲慢に纏われています。吉


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2020-09-20 13:24:52 (36 ヒット)
週報巻頭言

 400年間にも及ぶエジプトでの奴隷状態にあえぎ、生きる喜びや目標、また生命の根拠を知らず拝するものを持てないそのようなイスラエルの民を、神は悩みの鎖から解き放ち、自ら主を礼拝し人生をかたちづくることができる場へと導き出したのです。
 けれどもそんな信仰共同体・「礼拝する群れ」は一朝一夕(いっせき)につくりあげられたのではありませんでした。神に不満と不平をぶつけつづけ、自分たちの欲しいもののために神を呼び出そうとするこの民の移ろい易さと軽薄は幾度も神の怒りと悲しみを引き起こしました。にもかかわらず、荒れた地面と荒れた民の気持ちを包むように朝毎に降り注がれるマナに養われて、この民は歩んでいきました。イスラエルは、そのようにして年月を過ごし、世代を重ねていきました。私は、この「荒れ野の40年」という経験を通して、決して「世代の違い」という事で忘却することのできないイスラエルにとっての根本問題を、民の一人一人が(それこそ世代を超えて)刻銘に経験していったのだろうと思います。それは、とにもかくにも人間として繰り返してしまう神への背信の追体験です。
「あれがない、これがない」という不満、「神はほんとうにいるのか」という疑い。「もしいるなら○○してみろ」という神への試み。それを大人たちも子どもたちも、必ずどこかで誰もが自分の心に宿し、自分の口から吐いたのです。それを自分の罪として経験し、神に砕かれていったことでしょう。自分自身の不遜な罪との直面、神の赦しとの直面、これが世代を超えてみんなが自分自身に経験したことでした。

 それと共に、イスラエルの人々にとって世代を超えた共通体験が他にもあります。毎日マナを食べたということです。年老いたものも若者も、それを食べて生きた。「じいさんたちの若い頃はマナを食ったらしいね」というのではありません。子どもたちも食べて大きくなった。若いからと威張っても、その若い力でもってしても、荒れ野で何一つ食べ物を生み出すことなどできなかったのです。「生きる」ということの根源を支えているのは、人間の体力や能力ではない、「神の養い」にある、そのことを共通体験として叩き込まれながら、この民は40年を過ごし世代を重ねたのでした。
 市川八幡教会は、設立よりそれ以上の年月を歩んで来ました。そしてここにいる私たち一人一人はここに繋がれた時はそれぞれ違っていますが、自らの罪がここで知らされ、自らの赦しもまたここで知らされ、私たちを養う方をやはりここで知らされた、と、そうした共通経験や共同体験を、ここでいただいているのだ、ということを忘れてはならないのではないでしょうか。

 神は、奴隷の地からの解き放ち・「エジプトからの出発」という目的をもってイスラエルを導き出しましたが、もう一つ「神の民への出発」という目的をもイスラエルに対して抱いておられました。「○○からの自由」ではなく「○○への自由」です。それが、平たく言えば、イスラエルに戒めや教えを与えて、世界(歴史)の中で「祭司の民」のように育てたいと期待していました(出エジ19:5-6)。祭司の働きとは何でしょうか。それは、神を礼拝する仕事です。礼拝に人々を招く仕事です。そして、すべての人々の謙虚な気持ちを集め抱えて、自らが真っ先に神の前にひれ伏し、神の憐れみを求める役目です。さらに、神の赦しと祝福の言葉を、すべての人々に語り聞かせる仕事です。祭司とは神と会衆に使える働きなのです。
 イスラエルが神から選ばれたのは、清く立派な民族だったからではありません。神が、奴隷生活の中で苦しみの叫びをあげている人々の声を聴き、助け出される方であること。武器と富とによって世界をまとめられるような方ではないこと。神の約束を信じ、神の戒めを守って共に生きていくときに、調和した世界と平和とが実現するのだということを、宣べ伝え、自ら実践して生きる、そんな共同体づくりのためにイスラエルは選ばれました。 そのために、神がイスラエルに授けた“道しるべ”が「十戒」であり、イスラエルの民が40年の荒れ野の生活の中で、共通経験として身体でおぼえていったのが、マナと共にこの「十戒」という戒めです。
「十戒」は言うまでもなく旧約聖書の中核にあたるものだと思いますが、新約聖書を重んじるキリスト者にとっても、人生の指標として深く重大な戒めだと思います。「十戒」は、決して、人間がその時代を生きる上で、うまく社会をつくるためのルールとか、時代状況を勘案しその現状に即して整備していくガイドラインのようなものとは違って(そういうものはどんどん変えられたり、増えたりしますけれども)、たとえどのような時代に生きようとも、どのような価値観の社会が訪れようとも、わたし自身が、いろんな鎧や衣をはがし取られたときに(丸裸のようになったときに)、「わたしは何であり、いかに生きるのか」という、わたしが人としてあることの基本形を教えられている「いのちの戒め」だと思います。
 荒れ野というところは、人間の力をどうにも発揮しようもなく、いかんともし難い場所であり、それゆえに人間の罪や弱さが噴出する場所です。また、人間が着飾ってごまかしたりしようのない場所、すなわち、「人間がすぐに丸裸にされる場所」だと言えますが、そのような場所で、「自分自身が神の前で何であり」、また「他者との間で何であるのか」を問うています。前半四つが神との関係に関わることです。生きるということの立ち位置の一つは神の前に生きるということです。あの象徴的な神の問いを思い出しましょう。「あなたはどこにいるのか(禁断の木の実を食べたアダムとエバへの問い)」という端的な問いに示されているように、「神の前に生きているか」という問題です。そして十戒の後半は他者との関係。他者の前に立つ立ち位置のことです。ここでも、あの象徴的な神の問いを思い出しました。「あなたの兄弟はどこにいるのか(弟アベルを殺したカインへの問い)」という踏み込んだ問いに示されているように「あなたのきょうだい、あたの隣人はどこにいるのか」と、関係がまっすぐであるかどうかを問うてきます。こうした、生きる上での基本的な位置と姿とをきっぱりと問いかけてくるのが「十戒」であると言えます。

 「十戒」の原文は独特の否定形が使われていまして、「殺してはならない」「姦淫してはならない」「盗んではならない」と訳されているところも、「あなたは殺さない」「あなたは姦淫しない」「あなたは盗まない」と記されています。原文のニュアンスをもう少し強く出すならば「あなたには殺すことができようか、できない。」「あなたには盗むことができようか、できない」と訳す方が原文の意を汲んでいます。つまり、これは単なる禁止ではなくて神との関係性からくる応答的な戒め、関係的な倫理なのです。単に、人間社会を秩序づけるためのルールとか立派な人間のモデルというのではなく、神との関係の中で、「私がもはやそのようなものとして生きるしかない者」であることを明確に宣言している戒めです。ですから、この戒めには基礎といいますか土台があります。この戒めを受けとる人には前提があってそれに基礎付けられています。それが20章2節の言葉です。 わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」(20:2)
 神がわたしを、奴隷の家、鎖につながれている場所から導き出してくださった。神の恩寵と恵み(解放・贖い)によって私は今を生きている。神が私にしてくださった絶大な救いの働きによってわたしの命は基礎付けられ、わたしの生き方が方向づけられています。それゆえに、「あなたにはわたしをおいて他に神があってはならない」という第一戒からの戒めが始まっていくのです。この2節が、このわたしにもあてはまるのです。

 ところでこの第一戒は「あなたはわたしの顔の横に他のものをならべてはならない」というのが直訳に近いです。生きる上で、私たちにはたくさんの大切なものがあります。自分を支える大切なもの、それは収入を得るための仕事であり、自己実現を果たすための活動であり、愛する家族や恋人であったりします。でも、その大切なものでさえ「神さまの顔の横に並べてはならない」のです。それらが人生にとって大切であることは当然のことですが、それらを「神さまの顔の横に並べてはならない」のです。
 さに「刻んだ像」をつくるな、戒められています。像になにを刻むのでしょう。何を彫るのでしょう。まぎれもなく人間の願望です。私たちの願望、私たちの理想、それを神にしてはならないのです。
 この世には、たくさんの神がいますし、たくさんの教えがあります。それを信じる人たちのことを決して軽蔑してはなりません。決して悪い教えばかりではなく、傾聴に値する内容もたくさんあります。また、宗教・信仰ではなくても、この世には生活を充実させてくれる多彩なプログラムやムーブメント、ボランティア活動などもあります。それらも楽しいものですが、やはり私たちにとっては、それらを「神さまの顔の横に並べてはならない」し、私たちの理想や信念や願望を刻み込んで祭り上げて拝んではならないのです。
 何かの前に別のものを並べる。言い換えれば対置させて相対化する、ということです。一つのことを絶対化しないで、あらゆることを相対的に考える習慣や姿勢はとても大切です。でもどうしても、他のものを持ってきて並べてはならない場所がある。それが神さまです。それをやり始めると、並べてる自分が神になる。そういうあっという間の逆転が起こるのです。私たちはこのことを忘れないでいたいと思います。今日も礼拝の中でご一緒に市川八幡教会の信仰告白を共に告白しますが、この私の命をつくり、この私のために、イエスを届けてくださり、あの命の道をもって私、とりわけ苦しみを抱えて生きる私の生きる痛みを知ってくださり、また私の中にある抜きがたい罪深さを憐れんでくださり、十字架に架けられながら私の存在の赦しのために祈ってくださり、贖い・解放を宣言してくださった、イエス・キリスト。あの主イエスをくださった神はヤハウェ・聖書に証された神だけなのです。それが、わたしの生の土台、わたしの20章2節なのです。
 イスラエルにとっては、エジプトから導き出した神、奴隷から解放してくださった神は「この神・ヤーウェだ」という明確な神の確認、そしてその神との関係がすべての基礎であるのですが、私たちキリスト者にとっては、イエス・キリスト、その一人子を賜うほどにわたしを愛し、わたしを罪の奴隷から贖いだしてくださった父なる神さまとわたしの関係、この関係をわたしの人生の基礎付けにし、この神の前で人々と共に生命をわかちあって生きていくということを人生の方向性にする、それが「十戒」です。十戒と十字架に導かれ、十戒と十字架に貫かれ、十戒と十字架に包まれ、十戒と十字架に助けられて生きるのが私たちです。
  エジプトでのイスラエルの実体は、もちろん奴隷状態にあえいでいたことなのですが、400年の奴隷生活が人間にもたらす果てしない影響、それは、生まれてきた意味や生きることの可能性、喜びや希望を理解できない、人間の尊厳を奪われているゆえに、取り戻さなければならない人間の尊さが何なのかがわからない。そして目標、すなわち生命の根拠と方向性を知らず「崇めるもの、礼拝するものを持てないでうつろになっていた」という問題があります。そのようなイスラエルの民を、神は悩みの鎖から解き放ち、自ら主を礼拝し人生をかたちづくることができる場へと導き出したのです。この神の熱情とも言える愛と恵みを受けた民が、いまその神を拝するものとして生きる。そして共に恵みをわかちあって生きる。神と共に、民と共に生きるいましめとして「十戒」はわたしたちに与えられた恵みの賜物、恵みの戒めなのです。


(1) 2 3 4 ... 18 »
市川八幡キリスト教会 千葉県市川市八幡2-1-10 電話047-332-5197
Theme Desinged by 工房ヒラム