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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The
Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-01-21 18:00:00 (0 ヒット)
週報巻頭言

心動かされ、進んで心からする者は皆、臨在の幕屋の仕事とすべての作業、および祭服などに用いるために、主への献納物を携えて来た。(出エジプト35:21)
 エジプトから導き出された奴隷たちには、神の導きを求めるために「臨在の幕屋」が必要でした。神はその作りかたを25–31章で詳しく指示されます。金の子牛を拝むという民のひどい背きが戒めの再授与によって修復されると、モーセは幕屋建設のための材料の提供を呼びかけました。貴金属はもちろんのこと、巻き貝やカイガラムシから取った染料を使うなどした毛糸、エジプト産の亜麻糸、アカシア材など、いずれも高価なものです。人々がエジプトを出るとき、エジプト人が好意で与えたものを使ったのでしょうか。次いでこれらの材料を用いて「心に知恵ある者」が作るべき品々が挙げられます。幕屋全体に用いられる覆い、留め金、壁板、横木、柱、台座に続いて、至聖所に置く「掟の箱」(十戒を刻んだ石の板を収めた箱で、後エルサレム神殿に納めた)とあがないの座と垂れ幕、至聖所の前でパンを供える机と祭具、燭台とその祭具、香をたく祭壇、さらに幕屋の外の庭で焼き尽くすささげ物をささげる祭壇とその祭具、庭のまん幕など、中心から周辺へ順序よく説明されていきます。
 呼びかけを聞いた共同体全体は必要なものをすべて、いや必要以上に(36:5)携えて来ました。しかもそれらをすべて「進んで」ささげたと言います。「進んで」はこの段落に2回、類似の「動かされ」「随意のささげ物」を含めると5回も使われています。奴隷の鎖から解放された人々が感謝を込めてささげることによって、臨在の幕屋は完成に向かうのです。ささげられた品々が、金、毛糸や亜麻糸や毛皮、銀や青銅、アカシア材……と繰り返されてくどく感じられるほどです。みことばは、聞いた者が実際にそれに従って初めて意味をなすのだと言うかのようです。
 この教会の会堂建築のため海を越えてやって来た南部バプテストのボランティアたちも、進んで心から奉仕を引き受けたのでしょう。わたしたちだけでは建てえなかった立派な会堂が、信仰の交わりによって与えられたことを思い起こし、今度はわたしたちがどんな奉仕に召されているかを尋ねたいと思います。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-01-14 18:00:00 (12 ヒット)
週報巻頭言

青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と言う年齢にならないうちに。(コヘレト12:1)

多くの年齢を重ねたコヘレトは人の世のはかなさを考え抜いた上で「光は快く、太陽を見るのは楽しい」と言い切ります。長生きは喜ばしいことです。確かに、暗い日々も多くあることでしょう。来る者は皆(むなしいと言うよりは)はかない、つかの間の存在だからです。それでも老人には老人の、若者には若者の喜びがあります。それを喜び楽しむことが、神が人に与えられた宿題なのです。「あなたの心にかなう道を、あなたの目に映るところに従って」こそ、心から楽しむことができるというコヘレトの主張は、律法が「自分の心と目の欲に従ってみだらな行いをしないように」(民15:39)と警告していることを考えれば、大胆な人間肯定と言わなければなりません。すると11:9後半も、人間存在は確かにはかないけれども、喜び楽しむに値するものであり、神の恵みを受け取ろうとしない者は裁かれる、ということのようです。若さも青春もあっという間に過ぎていくのですから。ただ、その喜びのうちにはパンを水に流して見知らぬ人に与え、できるだけ多くの人と分かち合うこと、うむことなく種をまき続けること(11:1–6)も含まれているのですが。
 12:1で神を「創造主」(ボーレー)と呼んでいるのは、穴(ボール、墓の意も)を連想させるためとも言われます。創造主が人を造られたのは、その日々を楽しませるためです――いずれ穴に葬られて終わるはずの日々を。人の最期は、日月も暗くなる世の終わりのようであり、戦乱や飢餓に苦しむ国のようであり、恐怖に満ち、栄華が過ぎ去った廃屋のようです。草花や虫は変わりもないのに、人だけが永遠の家に去らねばなりません。
 だからこそ、若い日に創造主を心に留めることは意味のあることです。矛盾と破れに満ちた人生の中に創造主の恵みを見いだすのはなかなか難しいことであり、若い人々にも労苦の多いこの時代にはなおさらそうなのですが、喜べることを喜び、楽しめることを楽しむことを心がけるなら、一日一日が決してむなしくは終わらないでしょう。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2018-01-07 18:00:00 (14 ヒット)
週報巻頭言

渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。(黙示録21:6)

1世紀末、ローマ皇帝ドミティアヌスはエフェソに神殿を建てさせ、自分と妻と前2代の皇帝の巨大な像を立てさせました。この神殿のおかげでエフェソの市民は様々な特権と利益を得る一方、皇帝礼拝に参加しないキリスト者には敵意をいだき、迫害を加えるようになったと考えられます。現地のローマ総督も迫害を先導こそしなかったものの、告発を受ければ処刑をためらわなかったことは少し後の文献からも推測できます。この状況の中でパトモスという島に逃れたヨハネは、ある日曜日に幻を見ます。その内容は、神が恐るべき戦いの末に地上を支配する悪しき勢力を打ち倒し、迫害されているキリスト者を救い出されるというものでした。
 悪魔が火と硫黄の池に投げ込まれ、死者を吐き出した死と陰府がそのあとを追って、神の勝利で戦いの幕が閉じると、新しい天と新しい地が現れ、新しいエルサレムが天から下ってきます。天はもはや最初の天ではなく、地ももはや最初の地ではありません。天が新しくなるので神と人との関係が変わります。神が人と共に住まれ、人が神の民(複数形で、全世界の救いを示す)となり、神は彼らの神となられるのです。地が新しくなるので人の生も変わります。死も悲しみも労苦もない世界が出現するのです。神の国では、すべてが根本的に変わってしまいます。
 渇きもまた命の水の泉によって価なしにいやされます。水は生命の維持に欠かせないものです。ここに言う「命の水」は命の木に年に12回実を結ばせる奇跡的な水(22:1–2, エゼキエル47章参照)であると同時に、教会が経験している霊的な渇き、すなわち迫害の苦痛をいやし、恐怖を解くものでもあります。神は何の代価も要求なさいません。わたしたちの行いのゆえにではなく、ただイエス・キリストのゆえにわたしたちに勝利を差し出しておられます。ただ、それを受け取ることを選ばないでおくびょうや不誠実などに陥ることのないように、黙示録の時代のキリスト者は特に注意しなければなりませんでした。命の水の泉から飲ませていただく1年としたいと思います。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2017-12-31 18:00:00 (26 ヒット)
週報巻頭言

つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。(第一コリント15:44)

コリント教会に「死者の復活などない」と主張する一派が現れました(12節)。その真意は、おそらく死んでも霊魂は生き続けるので、体が再生する必要はないということでしょう。ギリシャの多くの哲学者はそう考えました。しかし、ユダヤ人であるパウロには体のない人間というものが考えられません。人は神が土をこねて形造ったものなのですから。何よりもキリストが復活の体を受けたのですから。では死者はどんなふうに復活するのでしょうか。どんな体で来るのでしょうか。体である限り苦痛を免れないのではないでしょうか(35節)。
 まかれた種が芽を出し、根を張り、枝葉を伸ばして形を変えていくとき、種は死んでいきます。死ぬことによって命を得るのです。同じように、死者の体も朽ちるものとしてまかれ、朽ちないものとして起こされます。卑しさと弱さのうちに自然の命の体がまかれ、栄光と力のうちに霊の体が起こされます。体が肉にほかならないとすれば、霊の体などというものがどうしてありうるでしょうか。それは、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が命を与えられるからです(22節)。キリストは命を与える霊であり、わたしたちの体を地に属するものから天に属するものに変えてくださいます。わたしたちの中に眠りにつく(死ぬ)者もそうでない者もいますが、神の力で朽ちないものに変えられるという点は皆同じです。そのとき、死はもはや力を持ちません。死のとげである罪とその力である律法がキリストによって乗り越えられてしまったからです。
 だから、わたしたちは動揺する必要がありません。ただ主の業に常に励めばよいのです。主の業とは、神を愛し隣人を愛すること以外にはありません。キリストの体の一部とされていること(12:27)を自覚して生きること以外にはありません。わたしたちは「食べたり飲んだりしようではないか。どうせあすは死ぬ身ではないか」(32節)とは言いません。主にあって自分たちの苦労がむだにならず、朽ちないものに実ることを知っているからです。(高市和久)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2017-12-24 18:00:00 (33 ヒット)
週報巻頭言

あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。(ルカ1:30–31)

クリスマスおめでとうございます。クリスマスは、天地創造(はじめ)以来の神さまの言(愛と祝福の想い)が肉体(歴史の中で具体的な人)となった出来事です。神さまの愛が私に宿ったことを祝う祭りです。
 1971年に『二十歳の原点』という本がベストセラーになり、2006年に新装版が発行されました。学園紛争のさなかに理想を砕かれ恋に破れ、大学のキャンパス(人生)の孤独者になっていった高野悦子さん。当時二十歳の痛烈な魂の叫び、「孤りであること・未熟であること・それが私の原点である」という有名なことばを彼女は遺し、逝きました。この『二十歳の原点』は父親が彼女の死を悼んで彼女の日記を出版したものです。その日記の5月7日にはこのように書かれています。
 「どうしたって他者が気になる。『他者を通じてのみ自己を知る』か。どこかに、この広い宇宙のどこかに、私を見つめているsomeoneがいるに違いない。会って話がしてみたいものだ。」
自分を見つめるsomeone「誰か」。それは誰だろうか。人間は見つめられて生きている。自分のことを本当に見つめてくれるsomeoneとは誰なのか。これが感性豊かな高野悦子さんの問いであり、彼女が自己の原点と定義した「孤独であること」から放たれた魂の叫びでした。さて、みなさん。あなたを見つめる誰かとは誰ですか。
 あなたを見つめる目があります。あなたを見つめ、あなたを探すsomeoneがいてくださいます。それが神さまです。あなたへの神さまの愛のまなざしです。この神さまの限りない愛があなたに(人類に、ではなく)宿っているのです。生まれたのです。そのしるしがイエス・キリストです!これを「福音」と言います。クリスマスはこの福音(良き知らせ)を自分の中に聴き取り、喜び祝う祭りなのです。
“おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。”ルカ1:28(吉高 叶)

♪ 今週の賛美歌を聞く 


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