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このサイトは日本聖書協会発行の
新共同訳聖書から引用しています。
聖書 新共同訳:
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The
Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
投稿者 : iybpc 投稿日時: 2021-02-21 13:43:09 (7 ヒット)
週報巻頭言

 フィリポ・カイサリアはユダヤと異教の地との境目にあります。これより後、ユダヤの深部・エルサレムに進んで行こうとするタイミングで、イエスは弟子達に打ち明けられました。エルサレムで、私は、多くの苦しみを受けることになる。長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺される。この自分を待っている迫害の運命を、あからさまに、はっきりと、弟子達に語り聞かせたのです。
 これから先生は何をなさるのだろう。どのようにしてこの国の人々を救うんだろう。救済計画のロードマップを知りたがっていた弟子達です。その言葉に度肝を抜かれました。 ペテロはあわてました。動揺しました。イエスさまを脇に引き寄せて、いさめ始めます。「およしなさい、先生。そんなことおっしゃるのは」「殺されるなんて滅多なことをおっしゃらないでください」
 ついさっき自分が「あなたこそメシアです。神の子です。」と告白したばかりじゃないですか。それなのに何ですか。あなたはメシアなんでしょ。神の子なんでしょ。ユダヤの真の王なんですよ。ペトロは到底、イエスの予告を受け入れられませんでした。拒絶したのです。とたんにペトロに対して、イエスの容赦のない叱責の言葉が向かってきます。「サタンよ、退け。あなたは神のことを思わないで人のことを思っている」。
 
 ペトロの告白は結局は自分の願望、自分の思い描くメシア像の投影でしかありませんでした。イエスが、そして神ご自身が、人々の救いのためにどのような道をたどろうとしているかを見つめることができないし、打ち明けられた道が自分には受け入れられないときには、それを拒絶し、言葉を遮ろうとします。イエスは、そのような信仰のありさまのことを「サタン」と呼び、退けられます。
 このときイエスはもう明確に自分の受ける苦難と死を見つめておられました。しかもその死は十字架での死であることを理解していました。ユダヤの刑罰としての処刑ではなく、ローマの刑罰としての十字架刑を、忌まわしくも恐ろしい十字架の磔を悟られていたのです。
 十字架はユダヤ古来のものではなく、ローマがーマ帝国の全領域に広めた極刑の方法でした。この刑があてがわれるのは、ローマの政治支配に反抗した奴隷や下層民にかぎられ、ローマの市民権を持つ者にはぜったいに行われなかった刑です。
 十字架が宣告されると、その罪人をまずX型の木の枠に縛り付け、とがった骨や鉛の玉をちりばめた長い皮のムチで全身を撃ちます。その後、罪人は十字架の横木を背負って刑場にいきます。そして、そこで十字架が組み立てられ、罪人がづり落ちないように両足首のところに支えがつけられるんです。地面に寝かせてある十字架に張り付けられ、両手に釘が打ち込まれ、十字架はまっすぐ持ち上げられ穴の中に入れて立てられます。十字架は長く苦痛を与える死刑です。死ぬまでの間に仮死状態になったり、筋肉の硬直けいれんがおきたり、激しい渇きにおそわれ、発狂するものも多く、「最も残忍でおそろしい刑罰」とローマの哲学者キケロが書き残しています。イエスは、この十字架を背負う自分の姿を見ていたのです。ムチ打たれ、晒し者になり、苦しみ渇き、もだえ死ぬあの光景を見つめていたのです。
 民衆の前で栄光の内に君臨することではなく、群衆の前で晒し者になって死ぬことを。しかし、それは地上で神の思いを生き、神の国を宣言して生きた者にこの世が用意する死であることを悟り、受けとめていたのです。
 
 私たちは、だれもが軽々と人生を生きていけるわけではありません。みんな荷車を牽くようにして生きています。人生とはそれぞれが荷を背負い、荷車を牽きながら生きており、疲れを覚えたり病を得たりしながら歩む道であります。肉体を持ち、精神を持ち、限界を持って生きる人間の人生の事実です。
 さらに、そのような荷物に加え、時として重荷を背負わせられることがあります。その場合の重荷とは、ハードルの高い試練という意味での重さではなく、理不尽な仕打ちによって背負わされる類いの重荷です。例えば、それは謂われのない差別です。例えば暴力による傷と痛みです。例えば人々やこの社会から搾り盗られた果ての貧しさです。自分が生きている社会の構造の歪みや未熟さによってあてがわれてしまう無権利状態や困窮状態です。それは重圧であり、壁であり、縄であり、檻です。その人の存在を侮辱し、押しつぶそうとする、あまりにも理不尽で重すぎる重荷です。
 イエスは、人間が背負わされている重荷を知っていました。いいえ、重荷を背負わされている「この人」を知ろうとなさいました。「この人」の重荷を取り払いたいと強く願われました。それだけではなく、その人に重荷を背負わせている人々や社会にはびこっている通念を怒り、「否!」を叫びました。その都度、そこにある「重荷の主」と闘われました。それはユダヤ教指導層の神の名を語った民衆支配でした。時にそれは、武器によるローマの暴力支配でした。それに怒り、それに「否」といって不服従しました。それが、イエスの荷となりました。それが十字架への道というイエスの荷となりました。
 「人間の重荷」と「イエスの十字架」にはつながりがあります。「人間の重荷と十字架の関係」を、私たちは見落としたり見逃してはならないのだと思います。
「キリストは、私たちの罪のために、十字架を背負われた」とキリスト教では一口に語ります。罪を抽象化し、観念化し、人間の内面の苦悩の問題としてだけ理解し、その赦しのために神はキリストを十字架で身代わりとなって差し出してくださった」と出来事を心の内面の中で終結させてします。ほんとうにそれで、イエスの十字架の事実を理解したことになるでしょうか。イエスが事実、地上を生きたこと、その生き方が十字架を引き寄せたのだということに、私たちはもっとまなざしを向けなければならないのではないでしょうか。そしてそうでなければ「私の十字架」は再び内面の問題になり、「十字架を負う生き方」が観念的になっていくのではないでしょうか。
 「この人」が背負わされている重荷を見つめ、悲しみ、手を添え、痛み、そこで震え、そこで泣き、そして怒り、なんとかしたいと呻き、いっしょに立ち上がろうとする。この人の重荷への共苦と共感が、私の歩む道となり、それはその人に重荷を負わせている者の重圧を自分もかぶることになってしまう、すなわち十字架の道へとつながるのです。人に重荷を負わせる「重荷の主」は、常に狡猾で厚顔で暴力的です。つながって立ち上がろうとするものを潰そうとしてきます。だからその道は十字架の道となりますが、十字架を背負うとは、それでも痛みにつながろうとして心や身体を動かし始めることだと思います。その人の重荷のことで、悩んだり、考えたり、祈ったりしながら、それでもやっぱり「そのような重荷は人間に負わされるべきではないことを信じ続け」ることだと思います。また、考えていくと、自分自身がその「重荷の主」の一員なのだと気づかされる時があるのですが、その時には、ちゃんと打ちひしがれることだと思います。悔い改め、向き直って生きてみようとすることなのだと思います。
 ですから、十字架を背負う生き方とは、例えば宗教的な信念のために「殉教」や「殉死」を勇ましく遂げることなどではないのです。端的に言えば、他人の痛みと自分とを結びつけて生きようとする生き方のことです。
 それとは反対に、十字架を背負うことをしない生き方とは、人々の謂われのない苦しみや痛みを知っていながら黙っていること、見て見ぬふりをして通り過ぎること、何か別の理由を探してその人の重荷を「正当化」することだと思います。でもそれは、人間としての命を失うことだと思います。他人を失うだけでなく自分自身の人間性を失っていくのです。
「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。」
 イエスの根源的な問いが心に響きます。
 
 ミャンマーでは、2021年2月1日の軍事クーデター以降、国の全土において、民衆が町に出て軍事クーデターに対する抗議活動が続いています。連日、SNS等を通して、民衆が広場や大通りを埋め尽くす様子と、それに対する武力鎮圧や夜間の襲撃・逮捕が繰り返されている様子が報じられています。
 ミャンマーは他民族の共和国連邦で、言語は350以上にのぼると言われ、かつての軍事政権により民族間での優遇差別政策がとられたことにより、大変複雑な国家体制が続いていました。そのような複雑な文脈を抱えながらも、現在、民族や地域や言語、世代の違い、セクシュアリティ、職歴など、拭い去るにはなかなか難しい「違い」のギャップを抱えながらも、軍事政権に対して「NO」を連日、違いを超えて訴え続けている闘いが、ミャンマー国内で続けられています。
 1988年の軍事政権の、あの時の苦しみの記憶がある年配の人たちも、「またもとに戻った」と嘆くだけではなく、若い世代とつながろうと、一緒に通りに出ておられます。日本でも、在日ミャンマー人たちが、ミャンマーで起こっていることを日本にいる人びとに知らせ、日本がミャンマー民衆の側に立って行動してくれることを求めて、連日、各地で集会がもたれてきました。外務省、国連事務所、ミャンマー大使館ほか、名古屋、大阪、神戸でも大きなアクションが続いています。
 ミャンマーの人たち抵抗運動は、具体的に昼間、街頭に出て声を上げる行動ですが、人々が掲げているプラカードの中にCDMと書かれたものがたくさん見受けられます。CDMとはCivil Disobedience Movement、市民的不服従運動です。軍事政権に決して服従せず、また協力しないという態度表明であり、公的な機関、企業、医療機関などで働く人びとが、「従わない」「従えない」と表明をする抵抗運動です。非暴力・不服従運動です。
 このような決死の民主化への声と態度に対して、先週から多く報告されているのは、夜間の襲撃です。電機システムを止め、CDMを表明した公務員宅を夜間に襲撃し、逮捕していくこと、それを阻止しようとする町の人びとをリンチしたり、発砲するということが毎晩くりかえされていると伝えられています。
 いま、渡邊さゆり先生の呼びかけで、毎週金曜日の朝9時から、在日ミャンマーのキリスト者たちと心配するキリスト者たちとの祈祷会がリモートでおこなわれています。その中で、在日ミャンマー人の方々が、口々に「ミャンマー国内の運動だけでは克服することができません。どうか、ミャンマー国外からみなさまの声を届けて、私たちの国を助けてください」と訴えておられます。

 十字架の道、十字架を背負う道、というものは、初めからあるものでも、決まった形があるものでもありません。目の前のこの人の苦しみ、この理不尽や不正義によって苦しめられているこの人の苦しみを目撃したとき、その痛みにつながり、その痛みを生み出すものを悲しみ、怒り、そして「それは決してこの人に、そして私たちに負わせられてはならない重荷である」と信じ、その重荷の主(ぬし)に服従しない姿の中に、十字架を負う、私の十字架を負う、という道が立ち現れてきます。
 主イエスは、そのように十字架を担われた方。そして、いまもなお十字架を負いながら本当に赦されなければならないもの、ほんとうに癒やされなければならないもののために闘っておられる方です。ミャンマーの人々が負わされている重荷、そしてミャンマーの人々が背負い始めている「私の十字架」のただ中に主イエスはおいでになります。
 また、その痛みとつながろうとする私たちのただ中に主イエスはいてくださるのです。

       了


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2021-02-14 14:42:30 (16 ヒット)
週報巻頭言

 人生はある意味で「宝探し」のようなものかもしれません。自分の人生を輝かせてくれる宝物。ああ、これがあるから自分の人生は良かった、と言える宝を手に入れること。自分は、こんな誇れるもの、こんなかけがえのないものを得たので、人生・生きていて良かったと思える、そんな宝物。そういう「お宝」を手に入れたい、と。それをどう考えるか、人によってそれぞれです。ある人にとっては、懸命に注いできた仕事と職場だと言うかも知れない。永年の鍛錬によって身につけた技術だというかも知れない。いや家族こそが自分の宝だと言う人もいるだろう。もうなんといっても孫が宝物だと言う「じいじ・ばぁば」たちもいるでしょう。何と言っても嬉しい友人たちだ。いやこの健康だ。
「あなたの宝物は何ですか」と訊かれて、人それぞれが、様々なものに思いを致すことでしょう。
 聖書は、人間が宝探しに生きる者であることを言い当てています。そして宝探しに悩み、宝探しに苦しみ、宝探しの果てにうずくまってしまう者であることを描いています。
 主イエスのたとえ話にもそれが映し出されています。
 100匹の群の中から迷い出た一匹の羊の話しがあります。もちろん迷い出た一匹の羊にたとえられているのが、まさに苦悩する人間のことです。宝物を探して、自分の目の先、鼻の先の何かにつられて進んでいるうちに、群れから遠く離れ、気がついた時には、生きることのできない場に閉ざされ、自分自身の命が危険にさらされる崖っぷちにいたのです。そこで、孤独と不安に怯える人間の姿を描いています。
 放蕩息子のたとえがあります。弟息子は、豊かな父の養いの家に暮らすことに満足ができなかった。この囲いの中から外に出れば、人生の宝物、もっと楽しく喜ばしいものに出会えるに違いない、と思いました。彼は、遺産の生前分与を申し出て、家を出ていきます。宝探しに胸を弾ませて出ていきます。たくさんの悦楽を知り、たくさんの遊び仲間ができます。しかし間もなく、それらすべては泡と消えます。彼は、豚に混じって、その餌を食べて空腹を満たしたいと思うところにはいつくばってしまいます。宝探しに失敗してしまったのでした。
 人生の宝を積み上げ、蓄えることに熱心で、すっかり大丈夫のようにしか見えないのに、苦悩が尽きず、イエスのところに、宝探しのことで接近してきた人々がいます。有名な「富める青年です」。彼は財産にも家柄にも恵まれていました。高い学問を修めユダヤの高級官僚(おえらさん)になる道もほとんど約束されていました。それでも彼は不安だった。そこでイエスのところにきて尋ねます。「師よ、何をすれば永遠の命が得られるのだろうか、さらに何をすれば、何を積めば、何を蓄えれば。」
 徴税人の頭でザアカイという男がいました。大金持ちで蓄えはもう十分でした。けれども人々から忌み嫌われる徴税人という仕事、誰からも「罪人」「ユダヤへの裏切り者」と指をさされる人生に、あまりにも深い孤独と嘆きを抱えてしまったのでしょうか。イエスにどうしても会いたくなり、恥も外聞も捨てて木に登って、主イエスを見に来たというのです。
 聖書は、そのように、人生の宝を求めて人間が悩み、迷い、失われそうになっており、場合によっては死にかけているのだということを示しています。
 聖書は、そんな人間を的確に描きながら、同時に、まったく別の角度から人間に迫っている神の呼びかけです。別の角度とはどういうことかというと、人間が自分の人生の延長線上に宝物を見いだし、宝を積もうとあがいているのに対して、神は、まったく逆の矢印をもって、「あなたは、わたしの宝物なのだ」と呼びかけているということです。

 申命記は、イスラエルの民がエジプトから導き出され、約束の地カナンに入っていく前に、途上にある荒野の中で、神さまから聞かされた言葉として編集されました。
「約束の地カナンにはたくさんの先住民族たちが住んでいる。そこに入植し、遊牧型にしろ、定住農耕型にしろ共同体を形成するときに、様々な誘惑があるだろう。あるいは、集団としてあまりにも弱く小さな自分たちを不安に感じるかもしれない。しかし、わたしを主と信じ礼拝する民としての姿を貫きなさい。わたしはあなたたちを、わたしの宝の民と思っている。わたしはあなたたちを必ず祝福する。」神はそう語りかけました。
 その際、神がイスラエルに言われた言葉は注目に値します。「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られた」(7-8節)と言うのです。イスラエルはたしかに、民族と呼ぶには数が少なく、貧弱でありました。それだけではなく、罪深くもありました。出エジプト後の荒野でのイスラエルの姿はうんざりするほど身勝手です。そのことも含める時に、神の愛に含まれる憐れみと忍耐の深みを知らされます。
 神がその民を選ばれる時、その人々が強いからではなく、また必ずしも正しいからでもありません。神は、この世にあって見落とされる人々、苦しんできた人々(エジプトで奴隷状態の中で叫び声をあげていた)に「心引かれ」、さらに「あなたたちこそわたしの宝物」と呼ばれるのです。かつて結んだ関係(アブラハムと交わした約束)に対する神の誠実と、人間の背きに対する神の忍耐、そして迷い・うめく人々に対する神の慈しみを見るのです。神は、イスラエルをご自分のための道具として選ばれたのではありません。道具ではなく宝とされたのです。神に背くゆえに「もはや使えない、もう使わない、捨ててしまおう」と言うのではありません。神にとって、ご自分が問題なのではないのです。イスラエルの民は、神の威厳や神の超越性を立証するための道具なのではない。この民は、神の愛の対象なのです。ですから、神はいつも心を動かしていかれます。絶対者として決して動かない神ではなく、情けないほどに相手に対して心を動かしてしまう神として、民に関係されたのです。だからこそ、神はこの民のために悩むのです。だからこそ神はこの民のために本気で怒るのです。だからこそ神はこの民のために忍耐し、繰り返し赦すのです。そして、神はこの民に信実を求めるのです。 

 「おまえたちは私の宝の民だよ」と、神から呼びかけられ祝福されているのに、イスラエルはその後も、自分の力で自分を輝かせようとし、この地上で自分たちの手で栄光を勝ち取ろうとあがいてしまいます。大づかみに言えば、それがイスラエルのその後の歴史であり、その結果、宝探しを誤り、宝探しに失敗し、あるいは宝をどこに蓄えるべきかも見誤ってしまっていました。何を愛すべきかをはきちがえ、また何を愛して良いのかがわからない民となってしまったのでした。
 さて、もともと、イスラエルの民にとって宝物とは何だったのでしょう。まさしくそれは、「神が自分たちを宝と呼んでくださること」そのものこそが「宝物」だったのです。神が宝と呼んでくださる自らを感謝し、神の宝として生きること、それそのものが宝物だったのです。それが天に宝を積む生き方だったのですが、イスラエルはそこから遠く離れて、もう神の呼びかけに心を動かすことができなくなっていきました。
 しかし、この民を宝物のように愛したい。この神の初めの思いは消え去ることはありませんでした。わが子として民を愛し、強いから、立派だから、役に立つからという理屈ではなく、愚か者であるからこそ憐れみ、迷い続けるからこそ導きたい、貧しいものであるから富ませたい、死に怯えるから生かしたい。神はこの心に燃え続けていました。
 主イエスは、この神の呼び声でした。主イエスは、この燃える神の心として「あなたは父なる神の宝物なのだ」と呼びかけました。
 主イエスは、宝探しに迷い、孤独と危険に閉ざされてしまった一匹の羊を、宝物のように探しに行き見いだして喜ぶ羊飼いの姿を映し出します。どうして99匹を野原に残して一匹を探し出しに行くのでしょうか。それは、宝探しに迷うこの一匹こそが、あなたであり、あなたは羊飼いにとって宝だからです。決して失いたくない宝だからです。
 放蕩息子が帰ってくる日を、父はなぜ戸口の外で待ち続けるのでしょうか。なぜ帰ってきた息子に、なんの怒りもぶつけず、抱きしめて迎えるのでしょうか。この愚かな息子がやっと真理を悟ったからでしょうか。いいえ、あの父にとって、この息子が宝物だったからです。失えない宝物だからです。そしてこの愛されたバカ息子こそが、実にわたしなのです。
 主イエスは、ザアカイの登った木の足下で、彼を見上げて、「今日、あなたの家に泊まらせて欲しい」と言います。イエスは、彼が宝探しに疲れていたことを感じたのです。そして、主イエスが言いたかったのは、「もうさまよいの木から降りてきなさい。あなたは、まぎれもなく神の宝だ。そして、あなたこそが、わたしの友だちだ。」ということでした。
 主イエスの言葉、主イエスの命は、「あなたは神の宝物なのだ」という神の心そのものです。あなたが、わたしを信じ、選んだのではない。私があなたを選んだ。わたしがあなたを信じ、共に生きるためにあなたとつながる。あなたの宝探しがあなたを強め、強いあなたが神を高めるのではない。神があなたを愛し、あなたを宝物とするのだ。あなたが、まだ弱かったときに、あなたがただただ神に背を向ける者であったときに、神はあなたを愛し、あなたを選び、あなたを宝物とされた。それがあなたの人生の出発点なのだ。あなたを宝物と呼び、あなたのために心を動かしてくださる神に向かって、あなたは「宝物としての喜びと安心」をもって生きていくことができるし、生きていくべきなのだ。
 これが主イエスの招きであります。
 人生は宝探しのようなものだ、と冒頭で申し上げました。けれども、その宝探しこそが謎に満ちており、人間は出口の見えない袋小路に入り込んでしまいがちです。しかし、人生にはもう一つの矢印があります。もうひとつの声があります。それは、神から「宝物」と呼ばれている自分に気づく、という矢印です。神の宝物としてのこのわたし。神のまなざしから自分を見るときに、私たちの今に、新しい慰めが訪れるのではないでしょうか。神の宝として生きること。私たちの今に、新しい使命が生まれるのではないでしょうか。
神の宝としての私、神の宝としてのあなた。わたしたちを、ともに天にたくわえるようにして歩んで行く市川八幡教会でありたいと思います。それは取りも直さず、わたしたちを私たちの手に握りしめることではなく、天なる神の前に、そして神の宝である多くの人々の前に、私たち自身を開いていくことであります。

「わたしの目にあなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛する。恐れるな、わたしはあなたと共にいる。」 
                                了

 祈り
 主よ、いまコロナの霧、コロナの闇の中で、積み上げ、蓄えてきたものを失い、苦悩する多くの人々がいます。ただ、その誰もがあなたの宝物。自分自身の命と存在こそが、何よりの宝物だと気づき、それらの人々が再び希望をもって歩み出すことができるように導いてください。
 この世にあって見失われている人々を、慈しみ支えてください。
 そのような人を見失ってしまっているこの世を憐れみ、癒やしてください。
 私たちが、このような時に、ほんとうに大切なものに目を留め、自分の存在と隣人の存在の価の高さを受け取り直すことができるようにしてください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2021-02-07 14:50:25 (24 ヒット)
週報巻頭言

 今朝お読みしたマタイ10章は、12弟子の選任と派遣の部分です。
 マタイ福音書を読み、囲んで生きて居た人々が、主が自分たちを招きこの世に派遣してくださっていることと、この世にあって福音を語り生きることの試練、そしてその試練の中にあって貫いていくべき態度のことを、総括的に記している部分です。それを私なりの言葉でたどってまとめてみます。

「神の国が近づいた。神の国はあなたのものだ。これこそあなたがたが信じ語り伝えるべきことです。貧しい者を励ましなさい。病気のものとふれあい癒やしのためにかかわりなさい。重装備をやめて、いつもシンプルな姿で、身近なところで、日常の生活の営みをわかちあうような宣教をしなさい。人をもてなしなさい。あなたたちも人々のもてなしを受け取りなさい。わかちあうのだ。誰とでも、シャロームと挨拶し、その人のいのちと存在を祝福しなさい。もちろん、みんながあなたがたを歓迎するわけではない。拒絶され、攻撃されることもあるだろう。そのときには静かでいなさい。心が怒りや絶望や憎しみに支配されるくらいなら、その場から離れればいい。自分をだいなしにしてはいけない。
 あなたたちは、狼の群れの中にはなたれた羊のようなものかもしれない。みんなから悪意をもって議論をふっかけるられるかもしれない。しかしあれこれ前もって心配する必要はない。語るべき事はそのときちゃんと降りてくるのだから。
 もしかすると肉親からも迫害されることがあるだろう。身内から密告されるかもしれない。それは厳しい苦悩だろう。しかし、耐え忍びなさい。私も十字架を負うが、あなたがたもまた十字架を負う。しかし、その十字架を負うことをさらに命の神が背負ってくださり、十字架を負うあなたの人生丸ごとに真の命をくださる。忍耐強く、落ち着いて、わたしに信を置き続けなさい。
 あなたたちを拒絶し、排除し、危害をくわえようとする人々のことを恐れるな。今は、人々が理解できないことも、頑なに拒絶していることも、神の国の福音は必ず光を放つ。力で覆い隠そうとしても、真実はかならず表に出てくる。どんなに小さな声だとしても解放の言葉・福音の知らせを決して塞いでしまうことなどはできないのだ。恐れないで良い。あなたは体も魂も神のもの、神に知られ、神に支えられている。あなたの神はインマヌエルなのだ。」
 マタイ10章をわたしはこのようなトーンで読みます。
 これは、紀元80年代、イエスの宣教から50年ほどたった時代に、西シリア地方で、マタイ福音書を編集し、ユダヤ教徒たちからもローマ帝国当局からも厳しい弾圧の中にあった共同体が、イエスの言葉の伝承の数々を派遣の言葉として編み直し、自分たちが生きる上での励ましとし、支えとしていたものです。
 本日お読みした26-31節は、敵対する人々が圧倒的に多いこの世にあって、恐れる必要のないものと、ほんとうに恐れるべきものの事について明確に語っているフレーズです。
 特に、「暗闇の中、耳元で語り聞かせられた大切なことを、屋根の上で告げ知らせよ」というイエスのフレーズ、「小さないのち、安価な値段で売られている雀の命でさえ、神のみこころは注がれている」というフレーズ、そして「髪の毛一本まで数えられている、それほどにあなたは完全に神に知られているのだ」というフレーズは、たいへん印象的であり、またわたしたちイエスに従おうとするものの生き方や語り方に深い示唆を与えてくれます。

 2月1日早朝、ミャンマー国軍が突如軍事クーデターを引き起こしました。ミャンマーの民主化が進むにつれ、永らく国軍が政局にもたらしてきた特権や影響力が削がれてきたこと、そして民主主義の促進を図る現政権(NLD)が進めようとしている憲法改定によって、軍の既得権(議会の1/4の議席があらかじめ国軍に割り当てられること)が小さくされていくことに危機感を募らせ、一気に軍事的な転覆劇へと打って出ました。あれからアウン・サン・スー・チー国家顧問を始めとする政府要人は拘束されたままです。地方の与党議員たちはほぼ釈放されたようですし、一部の通信網は動き始めたようですが、それでもまだまだ情報は統制され、国民は軍事的に押さえ込まれています。
 軍部はクーデターを引き起こしたのち、かなりのスピードで組閣をおこない、軍部にとって好ましい政治体制づくりのために布陣づくりをしています。一年間は非常事態・戒厳令状態を続け、その間にミャンマーを正常化させるのだと言っています。
 戦車と銃とで思想と言論を封殺し、暴力を行使できる人々・すなわち軍人が政治の椅子に座ることで「国家の秩序と安全」を担保できる、それこそが「平和」であると考える思想が、このようにして君臨し直してしまいました。積み上げてきた民主主義が一夜にして軍靴に踏みにじられるという恐ろしい現実を世界はまのあたりにしています。これに類似した出来事は、昨年、香港でも引き起こされていきました。
 言論は大幅に封じ込められました。しかし、何が間違っているか、どんなひどいことがどこで起こっているのかということは、人々の耳元でささやかれ広がっています。何を見つめ、何に向けて、いま忍耐するのか。何を信じ、何を求め続けていくべきなのかという言葉は、暗闇の中で人々の耳元にささやかれ、伝わっています。「耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい」まさに、耳元で聞いた、切実な命の叫びや、耳打ちし合う真実は、決して封殺されることなく、やがて屋根の上で、叫ばれる日が来ます。屋根から屋根へと伝わりすべての人々が一斉に大声で叫ぶ日がくるのです。
 2月3日、在日ミャンマー人たちが3000人、ただちに外務省を取り囲んで、「ミャンマーを助けてください、よろしくお願いします」との嘆願の声を上げました。それを報じたYahooニュースには、すぐさま日本人達から、次のような非難の声が書き込まれました。
「日本で抗議しても意味ない。ミャンマーに帰れよ」
「コロナウィルスが日本で蔓延しても良いのか。エゴイスト過ぎではないか」
「他国へ逃げた負け犬、とミャンマーでは思われているかも知れません。蚊帳の外の蚊が 騒いでる状態で無意味」
「はっきりいって迷惑です。良識あるミャンマーの人はやめましょうって声ないの」
「密だし、迷惑です。本国に帰られて当事者相手にデモをしてくださいね。」
「邪魔だ、コロナで悲惨な状況でふざけている。」
「日本国内で異邦人が政治活動しないで欲しい。日本人には関係ない」
このような書き込みが、800件以上も書かれています。これをヘイトスピーチと言います。
 拒絶の声、無理解の壁、冷たいヘイトの風、そうした息苦しさの中で、しかし自由と正義の回復を求める声は決して封じられることなく、やがて屋根の上に鳴り響く日が来ると信じます。

 民主主義のいのちは、誰が主権者か、ということです。真の民主化にとって大事なことは、いつも「主権」というものを、この世に存在する「一人一人のいのち」に結びつけて捉えねばならないということです。力ずくでなく、かならずしも多数決だけでなく、そこに存在するすべての人の自由や権利が尊重されるように考え、作り直し、積み上げ、育てていく。それが常に「過渡期」を過ごす民主化、常に途上を歩み民主化のプロセスです。決して開き直らずに、自分たちの歴史の間違っていた問題点を検証し、対話的な教育を通して「考える人」を育て、新しい観点や見地も取り入れ、より良い社会にしていく不断の営み、これが民主主義を生きるということなのです。
 社会形成というものは常に「途上」ですから、たくさんの不備があります。そして、新コロナのような事態に直面した時にこそ、その社会の脆弱な事実、その社会のしくみの不備があらわになってきますから、混乱が起きます。しかし、その時にこそ、不満を力で抑え込もうとしたり、乱暴に思考したり、以前の姿に里帰りしようとしたり、力を持っている人に飛びついていったりしないで、落ち着いて新しい解決法を探していく。民主主義を育てるとはそういう忍耐強く丁寧な業なのです。
 ところで、その同じ時、日本では、運用する上での法解釈にたくさんの曖昧さを残したまま、行政罰つきで「私権」を制限させることができる「改正コロナ関連法」が成立しました。かなり心配な法律です。ミャンマーの軍事クーデターとは異質な出来事のようではあっても、力で自由や権利に制限を加えることも時には必要という「思想」は通じるものがあります。
 まもなく2月11日「信教の自由を守る日」を迎えます。日本社会が新コロナに覆われて初めての「信教の自由の日」。思想・信条・信教・言論の自由は、この一年でどうなってきたと思われますか。「こんな状況の中で、そうした自由は制限されるべきだ」という空気は濃くなっていると思いませんか。

 恐れるな。とイエスはいまもわたしたちに呼びかけてくれています。
 わたしたちは何かと恐れを感じます。信念や信仰を掲げて生きることに安心よりも恐れを感じることがあります。ひとたまりも無く、潰されるのではないか、はじかれるのではないか、嫌われるのではないか。恐れがつきまといます。弟子たちも、マタイ共同体も、わたしたちも同様です。新コロナウィルスの恐れは、この社会にいろんな恐れを引き出したとも言えます。ウィルス以上に恐ろしいものも出現してしまったのかもしれません。だから、わたしたちは、ほんとうに恐れるべきものは何なのか、をしっかりと考えていたいと思います。恐れるべきものは、ほんとうにそれなのか。という思考の枠組みを大事にして過ごしてみたいと思います。
 恐れるな、とは、恐れるべきものはほんとうは何? という問いでもあるのです。
 マタイ福音書を貫いているキーワードはインマヌエル「神共にいましたもう」です。今日の聖書箇所もインマヌエルです。「恐れるな、なぜなら『インマヌエル』だからだ」と言うのです。
「一羽の雀でさえ、父のお許しがなければ地に落ちることはない」と訳されている箇所は、原文に忠実に訳すなら「神なしに落ちることはない」すなわち「地に落ちるときには神が支えてくださる」という意味です。新共同訳の訳、「お許しがなければ」のままだと、「落ちるということは神の許可・裁断がくだったから」とか「落ちることが神のご意志だ」というニュアンスが残ってしまうので、もともとの本意と全く離れてしまいます。そうではありません。「神なしに落ちるのではない。あなたがどんなときでも神はインマヌエルなのだ」とイエスは言っているのです。
 わたしたちが弱るときもインマヌエル。理解されないときも、捨てられそうになるときも、「神なし」ではない。神が共にいてあなたを支えている。あなたは今泣いているかもしれない。しかし、神なしに泣いているのではない。神が共にいて泣いているのだ。神なしに疲れているのではない。神と共に疲れており、神が共に疲れを味わっておられ、疲れたあなたを神が支えているのですよ、ということなのです。
 一羽の雀さえ神なしに生きていない。一羽の雀さえ神なしに死ぬことはない。
 わたしたちは神なしに今日からを歩むのではない。わたしたちはどんなに悪い時代、どんなに先が見えない時代であっても、決して「神なし」に生きるのではないのです。

                                 了


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2021-01-31 20:53:13 (37 ヒット)
週報巻頭言

主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い
魂を生き返らせてくださる。(詩編23:2-3)
昨年3 月以降、パソコンの画面に人びとの顔写真が並び、自分の顔もそこに映し出さ
れるのを見ながら話す境遇にわたしは追い込まれました。「新しい」道具の使い方を得て、
当初は、高揚感すらありました。ところが、数週間もしないうちに、一日のほとんどを
その画面前に「stayon the chair」(椅子に縛られて)させられ、わたしは疲弊していきま
した。
「オンライン会議」の閉塞感を和らげるためか、各人が工夫をこらした「背景」を造り、
写真のバックグラウンドに採用する方がいらっしゃいます。少しでも自分の画面を「素
敵」に仕上げて羨ましいと思っていました。わたしはアジト感あふれる雑多な書庫が後
ろに映り、「さゆりさんは片付けができない人」と思われているでしょう。
どの背景を自分のものとして選ぶのかは、いたって「神学的なこと」であると思いま
す。わたしたちには「背景」があります。わたしたちは背景を自分で選ぶことはできな
かったはずです。生まれた時代、場所、生育の環境、経済状況、セクシュアリティ、喪
失、付与、病気、災害…わたしたちは、数えきれないほどの背景を、自ら引き受けて、「そ
れでも生きていこう」としてきたのではないでしょうか。わたしもその背景を「わたし
らしさ」と呼び、旅を続けています。「もっとこうなりたかった」「これが好きなのに」
という無念さや悔しさも心の中に沈殿させ、それでもわたしの背景の中で生きています。
この背景を一緒に背負いその背景の舞台に登場人物がたくさんいたら、なんと心が慰め
られることでしょうか。
詩編23 編にも背景があります。わたしたちが想像している以上に、壮絶な背景を背負
い詩人は全身の毛穴から滲み出す汗のようにこの詩歌を詠んだのではとわたしは考えて
います。牧歌的で美しい情景を思い浮かべることができる詩歌の一言一言に、この時に
この詩歌を詠まねばならぬと突き動かされた詩人の魂の声を聴きたいです。そこには、
壮絶な願い―祈り―信頼の表出を見出せるでしょう。この詩人が「魂」ということばを
使う時、政治的権力を持ち、生活圏では権限を逸脱する者たちに対する抗いがあります。
どれほど身体が損なわれようとも、どれほど心が疲弊されようとも、魂までも奪う力は
人間にはないのだという宣言です。「魂が呼び戻される時」への確信に至る詩人の背景と、
私たちが引き受けている背景を重ね、この一週間を歩みたいと思います。【渡邊さゆり】


投稿者 : iybpc 投稿日時: 2021-01-24 15:38:16 (42 ヒット)
週報巻頭言

今朝読ませていただきました箇所には、実に躍動感があります。わずかな時間の経緯の中で、イエスさまが二人の人物と出会っていく、しかも同時進行的といってもよいかたちで劇的に出会っていかれる様子が記されています。二人の人物が断腸の思いで苦悩しています。一人は愛するわが子の死であります。一人は長年の病気とそれに伴う差別の苦悩です。どちらも抜き差しならない人生の重荷です。そうした人々の生命の現場にまっすぐ向かい合っていくのがイエスさまです。逆に言えば、イエスさまの前にはそのような深刻で重い生命のもがきが、ダイレクトに、しかも同時に持ち込まれていたということができます。
 さて、このような圧縮された時間の流れの中で、この双方の問題の解決・癒しの報告を通して、福音書が私たちに呼びかけているものがあります。それはイエスにすがりついていった人たち中にある「信実」です。すなわち、いつわりなく懸命に信頼する態度です。ピストゥス・信仰と訳される事の多い言葉ですが、信実・一生懸命にひたすらに信じる態度、として理解したいと思います。福音書がイエスさまの力ある業を報告する目的は、必ずしも、イエスさまにはすごい力があったということを披瀝することや、イエスさまの信じがたい力を焦点にしているのではなく、イエス・キリストと人間とのいつわりなく心から双方を求め合う関係、双方向の信実なふれあいが、不思議な恵み、新しい希望を生んでいったということが証言されているのです。
 ガリラヤ地方のある町で指導者・会堂長をしていた人物がその人です。彼の愛する娘が、たったいま死にました。彼は意を決してその町を訪れていたイエスのところに駆けつけました。そしてイエスに向かって「私の娘が今死にました。しかしおいでくださり、娘の上に手を置いてください。そうすれば娘は生きます(直訳)」と懇願するのです。この言葉の中にも、見落としてはならない真実があります。
 人間は様々なことを祈願します。「こうして欲しい」と願い、「こういうことがありませんように」と願います。それらは吉事が起こりますように、凶事が起こりませんようにという「出来事以前」の願いごとです。ところがまた、多くの人は、願っていた事が起こらなかった場合、また願っていなかった事が起こった場合、「神も仏もあるものか」と開き直ったりします。人間の信心のなんともご都合の良いことでしょう。
 主イエスさまの下さる御業は、事が起こる前の予防策のようなものではありません。「起こる前ならよかったのですが」「失う前ならよかったのですが」「死ぬ前ならよかったのですが」。この父親がイエスさまのところに歩み寄ったのは、娘が死んでしまってからです。しかし「娘は死にました。しかし来て欲しい。手を置いて欲しい。」と翻って進みます。そうです。イエスさまの力というものは、「たとい死んでも」「たとい終わっても」そこから事柄を始める力、そこに命を吹き込む力があります。人間が考える、「まだ大丈夫」とか、「もう駄目」という枠組みの中に、神さまの力は収まりきれません。人間が、もう駄目だというところから、始まる力があります。そこから新しい出来事を生じさせる力がイエスさまにはあります。このことを信じて生きる時に、イエスさまの御業の力、キリストのふれあいの力は現れるのです。

 途中で出会う女性がいます。長出血を患った女性です。原因不明の出血が何年も続き、人々から忌み嫌われた病気です。また不浄な存在とレッテルを貼られ、彼女が触るもの、彼女が触ったものに触れる者もまた不浄である、と。そのようなさげすみの中、自分自身の青春時代を棒に振り、これからの人生に暗い影を落としてしまっている女性です。この女性が、イエス様に近寄り衣のふさに触ったというのです。せめて衣の端っこにでも触ればこの方の力を頂けるだろうと信じていたのです。この女性の些細な行為を主は感じて振り返られます。そして彼女にいいます。「元気になりなさい(しっかりしなさい)。娘さん。あなたの信実が、いま、あなたを救った」と。しっかりしなさい、とは、「堅くしなさい。」「確かにしなさい」という意味の言葉です。ふらふらしている人にしっかりしなさい、というニュアンスではなくて、あなたのその信を堅くもて、確かにしなさい、という呼びかけです。この女性の行為は、本当に、些細なことでした。控えめなことでした。しかし、人との接触が禁じられてきたこの女性にとっては、懸命でひたすらな信実の行為でした。人知れず、かすかに衣の縁に触るような行為は強い信実によってなされたものです。信実な行為とは、動作の大きさではありません。言葉の数ではありません。彼女の些細な動きとの中に信実は存分に凝縮されていたのです。イエス・キリストに向かい合う。その表現は些細であっても、その人の内で堅い信実であるならば、イエスもまた信実を注いで、触れあってきてくださるのです。

 さて、本日のメッセージの後半は、この会堂長の身の上に起こった出来事について、もう少し想像を深めながら掘り下げて見つめてみたいと思います。掘り下げるに値する人物です。何といっても、この人がイエスさまのところに駆けつけるということ事態が、そもそもとても考えにくいことだからです。
 会堂長とはいわばその街のユダヤ教の会堂の責任者です。律法の教えを人々が学び、またその都度身のまわりで起こる出来事についても律法から解釈していく。ユダヤ教的な生活をいつも意味づけていく場所、それが会堂です。その会堂を管理するのは町の長老たちによる評議会で、会堂に誰を入れ、会堂から誰を追放するのかの決定をくだします。会堂長とはその全体の指導者です。まずは律法学者でなければなりません。律法に対する深い造詣・知識、ユダヤ教の体制に対する忠実さと服従とがなければ会堂長になることはできないのです。
 そのような彼は、イエスという人物が徴税人や律法違反者たち、つまり罪人たちや病人たちと交わる人間であることを、前もって聞いて、知っていました。ユダヤ教のタブーをものともしない、無秩序な人物としてイエスのことを認識していたのです。にもかかわらず、この町のユダヤ教トップエリートのこの会堂長が、イエスのところに行く。そしてひれ伏したのです。わたしたちにはあまり実感が湧かないことですが、その時、その町の人々がひっくりかえるほどの出来事だったのです。
 そして、このような中に、ある一つの事実を推測していくことができます。
 それは、「娘の死」という途方もない悲しみ、絶望とも言える苦悩に捕らえられたこの父親にとって、律法主義的な彼の忠実な信仰が、そのとき、彼の力にならなかったということです。律法を無意味に思ったというのではありません。日々、会堂にあって律法を学び、律法を修得し、律法に忠実に生きることで確かめていた信仰というものが、この「わが子の死」という彼にとっての突然の、リアルな、そして超弩級の悲しみを慰めはしなかったということです。
 彼には高い身分がありました。ユダヤ教体制の中での地位がありました。それなのに、イエスの前にひれ伏しました。それは、致命的でした。おそらく、彼は、娘が生き返った出来事の後に、イエスにすがり、ひざまずいたという咎めを受けて、ほぼ確実に、会堂長の地位を剥奪されたに違いありません。しかし、彼は、その身分も地位も名声も捨てました。それほどの行為だということができます。それは、わが子の死というこの問題の前で、その悲しみの前で、彼は会堂長であることより、父親としての悲しみ、そこから来る信実に立ったのです。うろたえ嘆く父親として向かうところは、イエスだったのです。いつわりなく懸命にイエスに触れてもらいたい、ということだったのです。
 「愛するものの死」あるいは、それに匹敵するほどの悲しみや苦悩に遭遇するとき、私たちは身に纏っている「立場の衣服」を剥ぎ取られ、丸裸にされるのかもしれません。その時、自分の信をどこに置くべきか。信実に求めるべきものは、いま、何か。その問いに直面するのかもしれません。そして、いま、あなたにとって「なにが、ほんとうに、力となるのか」との問いに迫られるのかもしれません。
 この会堂長、いえ、この父親は、娘の死という「はらわたがちぎれそうな」悲しみに直面して、真剣にメシアを求めるのです。この悲しみの助け、を求めるのです。「あの人のところに行きたい」「死んだけれども、なお、あの方に触れていただかねばならない」と。そしてすべて捨てました。これが、この父親の信実でした。この信実に触れたイエスさまの信実が動き始めるのです。
 イエスさまが彼の家に着いたとき、もうすでに、雇われた泣き女たちで騒然としていたと言います。見せかけの悲しみです。悲しみのつきあいです。悲しみの装い・演出です。
 イエスは信実を求めます。「あちらへ行っていなさい。そのようなものは、慰めではない。命にとっての信実ではない。少女は死んだのではない。眠っているだけである」。こイエスの言葉を、人々は即座にあざ笑ったというのです。たったいままで、悲しみの表情を浮かべていた人々があざ笑いの表情へと変貌したというのです。この父親に対する真の共感は、そして父親と共にイエスにすがる信実は、この人々の中にはかけらも無かったのです。永年会堂長を取り巻いてきた尊敬も人間関係も、そのようなものでした。言い方は乱暴かもしれませんが、それらは、会堂長が捨ててしまっても良かったものだった、と言えます。
「少女は死んだのではない。眠っているだけである。」イエスさまが少女の手をお取りになると、少女は起きあがりました。会堂長は、今回のことで多くのものを失いました。多くの見せかけのものと決別しました。そして、本当に尊いものと本当に力あるものとを与えられました。そして彼は、何にも増して人の生と死にまつわる力ある言葉に触れました。「死んだのではない。眠っているだけである。」
 人の死は絶対的な終わりではないのです。人の死から生じる悲しみも、それが最終的なものではないのです。死という決定的な出来事の中で、尚も手を触れ命を起こされる方がおり、死という悲しみを希望に転換させ得る方がおり、泣き顔以外は見せてはならないような場面にでさえ、尚、生きることの喜びを引き起こす方がおられるのです。
 去る1月22日、核兵器禁止条約が、55ヶ国・地域で発効しました。核兵器の開発から使用、その全てを禁じる国際規範がようやく発効したのです。長い道のりでした。歴史の中で、核廃絶の祈りは踏みにじられ、あたかも死んでしまったかのようにさえ思えました。しかし、核廃絶という「命」に信実に生きてきた人々の繋がりによって、この命は起き上がりました。まだ少女のような小さな存在ですが、歩き出したのです。
 「少女は死んだのではない。眠っているのだ。」
 私たち人間にとって、人間社会にとって、ほんとうは大切なものなのに、死にかかっているようなものがたくさんあります。経済優先、効率優先の風潮の中で、あざ笑われ、そんなものが何になるかと、取り合ってもらえない、でもやっぱり人間の命にとって大切な何かがあります。時として、私たちは、それに対して信実でいなければならないのではないでしょうか。私たちが何かを手放してでもそれらを求めようとするときに、私たちの信実は堅くなり、イエスの信実が触れて、この世界にまた一人、少女は起き上がるのだと思います。


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